第16話 異端審問官の襲来~恐るべき権威と、ガチガチの眉間~
聖王国の首都、大聖堂の地下深く。
陽の光すら届かない冷厳な空間で、黒衣に身を包んだ一人の男が、長大な報告書を前に眉間を深く刻んでいた。
男の名はクラウス。
聖教会の暗部である『異端審問局』を束ねる筆頭審問官であり、神の教えに背く者、あるいは人々を惑わす偽りの奇跡を騙る者を、容赦なく断罪してきた「教会の猟犬」である。
「……辺境都市リーゼンに、本物の神の奇跡を操る『大聖女』が現れた、だと?」
クラウスは、低く冷たい声で呟いた。
報告書には、目を疑うような荒唐無稽な内容が羅列されていた。不治の毒を謎の布切れ(デトックスシート)で吸い出し、廃人の魔力回路を指先一つで調律し、果ては自警団を不死身の軍団へと変え、街の犯罪率をゼロにしたという。
「馬鹿馬鹿しい。いかに田舎の辺境伯やギルド長が愚かとはいえ、このような稚拙な新興宗教のデマに踊らされるとは」
クラウスは報告書を冷たく机に投げ捨てた。
この世界において、「奇跡」とは聖教会が独占し、管理すべき神聖なる権力である。教会の許可なく勝手に奇跡を起こし、あまつさえ大衆から金貨を集めるなど、神への冒涜以外の何物でもない。
「私が直々に赴き、その『偽聖女』の化けの皮を剥いでやろう。そして、異端の炎で街ごと焼き尽くしてくれる」
クラウスは処刑用の銀の長剣を腰に帯び、冷酷な殺意を胸に辺境へと旅立った。
* * *
数日後。辺境都市リーゼン。
街に到着したクラウスは、隠密のフードを深く被りながら、舌打ちをした。
(……なんだ、この異常なまでの街の活気と、清浄な空気は。ここは本当に、魔物の脅威に晒されている辺境の街か?)
街の人々の顔には疲労の色がなく、スリやチンピラの類すら見当たらない。それどころか、すれ違う自警団の兵士たちからは、教会の高位騎士すら凌駕するほどの、異常に強固な『絶対防御の加護』の気配を感じる。手首には、不気味に輝く色とりどりの石(ただの数珠)が光っていた。
(あの石の魔導具……一体どういう術式だ? 読み取れん。いや、それよりも……街の北端から、途方もない密度の『神聖マナ』が吹き上がっている……!)
クラウスの鋭敏な魔力感知器官が、警鐘を鳴らしていた。
教皇の御座所すらも遥かに超える、暴力的なまでの光属性の渦。クラウスは冷や汗を拭いながら、その発生源である街の外れの洋館――『異世界スピリチュアル・サロン:コスミック・ワン』の前に辿り着いた。
「ここが、偽聖女の根城……! ええい、いかなる幻術を使おうと、私の目は誤魔化されんぞ!」
クラウスはフードを脱ぎ捨て、黒衣のコートを翻して、洋館の両開き扉を力任せに蹴り開けた。
「そこまでだ、神を騙る愚か者ども! 異端審問局筆頭、クラウスの名において、貴様らを神聖冒涜罪で――」
バァァァン!!という派手な開門音と共に、クラウスが処刑剣を引き抜こうとした、その瞬間だった。
「はーい、いらっしゃいませー! あ、土足はそこで脱いで、スリッパに履き替えてくださいねー!」
「……は?」
クラウスの威圧的な怒鳴り声は、気の抜けたような明るい声によって呆気なく遮られた。
そこには、見たこともない奇妙な衣服を着た黒髪の若い女(珠子)が、満面の笑みで立っていた。その横には、黒布と白フリルの奇妙な法衣(カフェ風エプロン)を着た、見覚えのある銀髪の女が立っている。
「き、貴様は……かつて帝国を追放された『出来損ない』のアディ・フォン・ローゼンバーグか!? なぜこんな辺境の異端施設に……!」
「クラウス……聖教会の猟犬が、ついに来たか」
アディは顔を強張らせ、受付カウンターの奥で身構えた。
(……最悪だ。神聖帝国の魔導騎士と並び称される、聖教会のトップエリート。こいつの『異端断罪魔法』は、対象の魔力回路を強制的に焼き切る対魔導師用の特化術式。戦闘になれば、この街の半分が消し飛ぶぞ……!)
アディが極度の緊張に包まれ、クラウスが剣の柄に魔力を込めた、まさに一触即発の事態。
しかし、その殺伐とした空気を、珠子がのんきな足取りでぶち壊した。
「わぁっ、お客さん、すっごい怖い顔してる! 眉間に深いシワが寄って、オーラがトゲトゲの真っ黒だよ! これは相当、日々のストレスが溜まってるね!」
「な、何を戯れ言を……! 私は貴様を処刑しに――」
「はいはい、お仕事お疲れ様! 責任あるポジションで、毎日部下のミスをカバーしたり、上司の機嫌を取ったりして、心が休まる暇がないんでしょ? わかるわかる!」
「…………え?」
クラウスの動きが、ピタリと止まった。
(……な、なぜそれを……!? 私が毎日、無能な神官どもの始末書を書き、私腹を肥やす枢機卿の尻拭いに追われて、夜もまともに眠れていないことを、この女は一目見ただけで見抜いただと……!?)
驚愕するクラウスをよそに、珠子は強引にクラウスの腕を掴んだ。
「ほら、剣なんか物騒なもの下ろして! まずはリラックス、リラックス! そのガチガチになった心と体の『鎧』を脱がないと、良い気は入ってこないからね!」
「触るな異端者ッ! 浄化の炎で灰に――ぬおおおっ!?」
クラウスが珠子を弾き飛ばそうと魔力を練り上げた瞬間、洋館の奥から『ゴルルルルル……』という、地鳴りのような低い唸り声が響いた。
「ヒッ……!?」
クラウスは全身の毛穴が開き、呼吸を忘れた。
ホールの奥、黄金の光を放つ白銀のベッドの上に、体長二メートルを超える神話級の神獣『銀雪の破壊獣』が鎮座し、圧倒的なプレッシャーと共にこちらを見下ろしていたのだ。
(神獣……だと!? なぜ神話の化け物が、こんなサロンで猫のように丸まっている!? それに、この部屋を満たす狂気的なまでの神聖マナ……私が放とうとした魔術が、空気に触れた瞬間に『愛と平和の波動』に上書きされて消滅していく……!)
クラウスが足の震えを必死に抑え込んでいる間に、珠子は彼をグイグイと引っ張り、シリウスの横にある『幻の香木』のベッドに座らせてしまった。
「よーし、お兄さんは特別コースね! まずは仰向けに寝転がって!」
「き、貴様、私をどうするつもりだ……!」
「どうもしないよ! ただ、お兄さんの『インナーチャイルド』を癒やしてあげるだけ!」
珠子はリュックの中から、紫色の水晶の先端に銀のチェーンがついた『ダウジング・ペンデュラム(振り子)』を取り出した。
そして、ベッドで硬直するクラウスの顔の上で、その振り子をゆらゆらと揺らし始めた。
「インナー……チャイルド……?」
「そう! 大人になってから心がガチガチになっちゃうのは、過去のトラウマや、子供の頃の『我慢』が魂の奥底にこびりついてるからなんだよ。今から『前世療法(退行催眠)』をやるから、振り子の動きを見て、ゆっくり深呼吸してね~」
ゆらり、ゆらり。
珠子の持つクリスタルの振り子が、一定のリズムでクラウスの瞳の前を横切る。
その光景を横で見ていたアディは、声にならない悲鳴を上げて壁に張り付いていた。
(対象の精神領域への強制ダイブ……!! 相手の深層心理に直接ハッキングを仕掛け、過去の記憶から人格を根本的に書き換える、禁忌の『絶対洗脳魔術』だと!? いかに冷血な異端審問官とて、あんなものを喰らえば精神が完全に崩壊するぞ……!)
「眠くなーる、眠くなーる……。さあ、あなたの魂が一番傷ついた、過去の記憶の扉を開けてみましょう……」
珠子の優しくも抗いがたい声と、幻の霊木ベッドが放つ強制的な浄化マナの相乗効果。
いかなる拷問にも屈しないはずのクラウスのまぶたが、ゆっくりと重く落ちていく。
「私……は……、異端……を……」
クラウスの口から漏れる抵抗の言葉は次第に弱まり、やがて彼の呼吸は完全に、無防備な赤子のように穏やかなものへと変わっていった。
教会の猟犬たる冷血なる異端審問官は、珠子の「退行催眠(という名のただのリラクゼーション)」によって、己の魂の最も柔らかい部分、封印された過去のトラウマへと強制的に直面させられようとしていた。




