第59話 ヴァルター
朝でございましたわ。
霧はまだございましたの。夜より薄うございますわ——朝の光が霧を白く染めておりましたの。小屋の前に昨夜の焚き火の跡でございますわ。灰が湿気を含んでおりましたの。
クーリエが朝の湯を沸かしておりましたわ。銀のティーポットの用意でございますの。ヴァルターが小屋の壁に大盾を立てかけて、荷物の点検をしておりましたわ——紐の具合を確かめておりますの。毎朝する確認でございますわ。
ソフィアが小屋の入口に座っておりましたの。膝を抱えておりますわ。霧を見ておりましたの——遠くを見ているのか近くを見ているのか、わかりませんでしたわ。
「今日はどちらへ行くんですか?」とソフィアが言いましたわ。
「外交国家の街を見ておきたいのでございますわ」
「じゃあ、一緒に行きましょうか。案内できますよ」
クーリエがわたくしを見ましたわ。わたくしはクーリエを見ましたの。
「お願いいたしますわ」
道を歩きながらでございましたわ。
ソフィアがよく喋りましたの——昨日も喋りましたわ。ただ昨日と少し違いましたの。昨日は問いかけが多うございましたわ——今日は話しておりますの。街のこと、道のこと、霧の季節のことでございますわ。聞いていると自然に答えたくなる話し方でございましたの。
クーリエが時々相槌を打っておりましたわ。
ヴァルターが黙って歩いておりましたの。
「ヴァルターさんって、出身はどちらですか?」とソフィアが言いましたわ——歩きながらでございますの。前を向いたままでございましたわ。
「ゼルブルク王国です」
「遠いですね。どうして旅を?」
「……色々ありまして」
「色々か」とソフィアが繰り返しましたわ——咎めるでもなく、掘り下げるでもなく。
ソフィアは続きを聞きませんでしたわ——道の先を見ておりましたの。霧の中の道でございますわ。クーリエが相槌を打つのも止まっておりましたの。足音だけがしばらく続きましたわ。
ヴァルターが前を向いたまま歩いておりましたの——ただ、何かを言いかけて止めた気配がございましたわ。口は動きませんでしたの。
ソフィアが少しして、霧の向こうに見えてきた街の話を始めましたわ。
街でございましたわ。
こぢんまりとした街でございますの——ただ揉め事が少のうございましたわ。市場の前で荷物の受け渡しをしている商人が二人、言葉が少し険しくなりましたの——ソフィアが自然に入りましたわ。笑顔でございますの。二言三言でございましたわ——二人が少し笑いましたの。
クーリエが見ておりましたわ。
「本当に仲裁するんですね」と小声でございましたの。
「ええ」とわたくしは言いましたわ。
ソフィアが戻ってまいりましたの。
「あそこの二人、いつもああなんですよ。最後は笑うんですけど」
「よくご存じですわね」
「よく来るので」とソフィアが言いましたの。「来るたびに同じことをしてて——でも、それでいいと思うんですよね。同じことを繰り返せる関係って、悪くないので」
クーリエが少し考えましたわ。ヴァルターが市場の方を見ておりましたの——商人の二人がもう歩き始めておりましたわ。
わたくしは茶葉を一つ手に取りましたの——市場の棚でございますわ。産地を確かめましたの。
昼でございましたわ。
街外れに広場がございましたの——石のベンチでございますわ。クーリエが持参した茶と干し肉でございますの。簡単な昼食でございましたわ。
ソフィアが隣に座りましたの——ヴァルターの隣でございますわ。自然にでございましたの。特に狙ったようには見えませんでしたわ——ただそこに座りましたの。
「ヴァルターさんって、自分が大丈夫かどうか——一番最後に気にしそうですよね」
ヴァルターが杯を持ったままでございましたわ。
「……なぜ、そう思うのですか」
「なんとなく」とソフィアが言いましたの。「責めてるわけじゃないですよ。ただ——損だなあと思って」
「損、ですか」
「誰かが大丈夫かどうかは気にするのに、自分のことは後回しにする。それで大丈夫じゃなくなった時、誰かが気にしてくれるかどうか——そこまで考えてますか?」
ヴァルターが杯を置きましたわ。
少し間がございましたの——ソフィアは待ちませんでしたわ。続きを求めておりませんでしたの——ただ言ったのでございますわ。言い終わって、自分の杯を飲んでおりましたわ。
「……考えた、ことは」とヴァルターが言いましたの。「あまり、なかったかもしれません」
「そっか」とソフィアが言いましたわ。
それだけでございましたの。咎めも、同情も、ございませんでしたわ——ただ「そっか」でございましたの。
ソフィアが立ち上がりましたわ。
「ちょっと向こうに知り合いがいるので——すぐ戻ります」
歩いていきましたの。足取りが軽うございましたわ——霧の道と同じ歩き方でございますの。
3人になりましたわ。
クーリエが干し肉を嚙みながらヴァルターを見ておりましたの——何も言いませんでしたわ。ヴァルターが空になった杯を両手で持っておりましたの。
わたくしは一口飲みましたわ。
「ヴァルター」
「……はい」
「何か言いたいことがございますか?」
少し間がございましたわ。風が霧を揺らしましたの——石畳が湿っておりますわ。
「……集中が、少し」とヴァルターが言いましたわ。「申し訳ありません、何でもないです」
わたくしは一口飲みましたわ。
「そうでございますか」
ヴァルターが杯を置きましたわ——空のままでございますの。クーリエが干し肉を置きましたの。何も言いませんでしたわ——ただヴァルターの方を向いておりましたの。
ヴァルターが口を開きましたわ——それから閉じましたの。
霧が薄く流れておりましたわ。石畳の向こうにソフィアの後ろ姿が見えましたの——知り合いとやらに話しかけておりますわ。こちらを向いていませんでしたの。
ただ、話しながら、こちらに耳が向いておりましたわ。




