第57話 港街・霧の道
港街というものは、においから始まりましたわ。
塩でございますの。魚でございますわ——それから海藻と、湿った木材と、焦げた何かが混じっておりましたの。どれかひとつずつを嗅いだことはございますけれど、全部が一度に来ますと別の何かになりましたわ。
わたくしは少し立ち止まりましたの。
クーリエが正面に見える海を見ておりましたわ。
止まったままでございますの。足が動いておりませんでしたわ——目だけが動いておりましたの。左から右へ、右から左へ。端が見えないでございますわ。
「……海、初めてです」
「存じておりましたわ」
「どうして?」
「ずっと見ておりますもの」
クーリエが少し遅れてわたくしを見ましたわ。それからまた海を見ましたの。
「……大きいですね」
「ええ」
「思ったより、大きいです」
ヴァルターが静かに前に立ちましたの——海風が髪を揺らしておりますわ。大盾が背中に当たる音がしましたの。
「私も久しぶりです。海は」
「ヴァルターさんは見たことがあるんですか」
「故郷が内陸でしたので——騎士団の遠征で一度だけ」
「どうでしたか?」
ヴァルターが少し考えましたわ。
「大きすぎて、実感がありませんでした。今も、少しそうですね」
クーリエが頷きましたの。「わかります」と言いましたわ。
わたくしは二人を見てから港街の通りに目を向けましたの。
荷を運ぶ者、網を繕う者、呼び込みをする者——人が多うございましたわ。荷車が行き来しておりますの。荷下ろしの声が波音に混じっておりましたわ。魚の干物を並べた台の前で値段を巡る押し問答が続いておりましたの——真剣な顔で、楽しそうでございますわ。犬が一匹、荷車の後ろをついて歩いておりましたの。
ドルトンの村とは違いましたわ。人が集まる理由が違いますの——あの村は茶葉の集散地でございますわ。ここは海でございますの。海があれば船が来て、船が来れば荷が来て、荷が来れば人が集まりますの。賑わいの根がございましたわ。
「参りましょうか」
市場は港の裏手でございましたわ。
通路が狭うございますの。両側に店が出ておりましたわ——干した魚、塩漬けの野菜、陶器、布地。その奥に茶葉商人が何軒かございましたの。
香りが変わりましたわ。塩気が薄れて、乾いた草の香りが混じってまいりましたの。わたくしは足を止めずに一軒一軒の前を通りましたわ。見ながら歩きますの。
2軒目でございましたわ——缶の並びが他と違いましたの。産地の幅でございますわ。棚の構成に慣れている者の手が見えましたの。
「こちらでございますわ」
クーリエとヴァルターがついてきましたわ。
商人の老婦人が顔を上げましたの——鋭い目でございますわ。値踏みではございませんでしたの。興味でございましたわ——何を求めて来たか見ている目でございますの。
「何をお探しですか?」
「霧の高地で採れる茶葉はございますか?」
老婦人が少し間を置きましたわ。
「霧のものですか。珍しいことを。なぜ?」
「香りを聞いたことがございますの」
「嗅いだことは?」
「昨日、少しだけ」とわたくしは言いましたわ。「まだ奥があると思いましたわ」
老婦人が棚の奥に手を伸ばしましたの——深緑の小さな缶を出してきましたわ。蓋を開けましたの。
昨日のものとは違いましたわ。同じ草の香りでございますけれど——深うございますの。湿っているのに重くはなく、霧の中で長く育ったもの特有の淡さでございましたわ。
「いただきますわ」
「高いですよ」と老婦人が言いましたの。
「構いませんわ」
「……近頃、霧の高地まで行こうとする商人が減りましてね」と老婦人が言いましたわ。「入荷が不安定なんです」
「入れなくなったのでございますか?」
「入れなくはないんですよ。ただ——行こうとすると途中で、まあいいかという気になってしまうらしくて」
クーリエがわたくしを見ましたわ。
「誰かに会うのでございますか?」とわたくしは聞きましたの。
「ソフィアさんという方で——感じのいい方なんですよ。話しているうちに、来てよかったという気持ちになって——ただその後なんとなく、霧の高地まで行かなくてもいいかという気にもなってしまって。不思議でしょう?」
「会った後、力が抜ける?」とクーリエが言いましたわ。
「そうそう。そういう感じで。悪い方じゃないんですよ、決して」
ヴァルターが黙って聞いておりましたわ。
「他に補充しておきたい茶葉がございますの」とわたくしは言いましたわ。「旅用のものを何種類か」
老婦人が棚を指差しましたの。
港街を出たのは昼過ぎでございましたわ。
西へ向かう道は上り坂でございますの。草が増えてまいりましたわ——それから空気が変わりましたの。重うございますわ。冷えているのではございませんけれど、重うございますの——湿気でございましたわ。
霧が出てまいりましたわ。
初めは薄うございましたの。道の先が少しぼやけている程度でございますわ——それが歩くうちに濃くなってまいりましたの。木の輪郭が柔らかくなりましたわ。足元の草が霧を含んで光っておりましたの。
音が吸われましたわ。
風の音、鳥の声——全部が少し遠のいておりますの。自分たちの足音だけがはっきりしておりましたわ。
「……静かですね」とクーリエが言いましたわ。声が霧に吸われましたの。
「ええ」
「なんか、洞窟と似てますけど——全然違います」
「どう違うのでございますか?」
「洞窟は、押し付けてくる感じで。ここは——包まれている感じがします」
ヴァルターが歩みを少し緩めましたわ。前方を見ておりましたの——霧の中でございますわ。視界がございませんでしたの。道がどこまで続いているか、わかりませんでしたわ。
「足元は確認できます。それで十分です」とヴァルターが言いましたの。
わたくしは茶葉の気配を感じておりましたわ。
霧の草の香りの中に、育った茶葉の気配がございましたの——まだ遠うございますわ。しかしある方角からでございますの。もう少し奥でございましたわ——
「こんにちは!」
声でございましたわ。
霧の中から、前方でございますの——来た方向からではございませんでしたわ。横でもございませんでしたの。まっすぐ前から、少し上でございましたわ——道が上っておりましたの、その先から。
クーリエが止まりましたわ。
人影でございましたわ。霧の中を歩いてくる人影でございますの——明るい茶色の髪でございましたわ。緑の瞳でございましたの。よく動く表情でございますわ——笑っておりましたの。
「迷ってますか?」
クーリエが笑顔を見ましたわ。
足が一歩、後ろへ動きましたの。海を見た時とは違う止まり方でございましたわ——わたくしは見ておりましたの。
「わたし、ソフィアといいます」と女性が言いましたの。「勇者の——まあ、ただの旅人みたいなものですけど」
「まあ、ご丁寧に」とわたくしは言いましたわ。
ソフィアがわたくしを見ましたの——それからクーリエを見て、ヴァルターを見ましたわ。その視線の動き方でございますの——早うございませんでしたわ。一人ずつ、少し止まりましたの。老婦人の目とは違いましたわ。柔らかうございますの——柔らかいまま、しっかり止まりましたわ。
「3人で旅してるんですか?」
「ええ」
「茶葉を探してるんですか? 香りがしますよ、荷物から」
「霧の高地の茶葉を」
「あー」とソフィアが言いましたわ。「それなら、わかりますよ。案内しましょうか?」
ヴァルターが一歩前に出ましたわ——わたくしの少し前でございますの。
「お心遣いはありがたいですが——」
「お願いいたしますわ」
ヴァルターが少し止まりましたわ。
「……クラリッサさま」
「霧の道でございますわ。道を知る方がいらっしゃるなら、ご一緒いただく方がよございますわ」
ソフィアがわたくしを見ておりましたわ——笑顔のままでございましたの。ただ一瞬、何かが違いましたわ。口元は動いておりませんでしたの——目でございましたわ。
「じゃあ、一緒に行きましょうか。このあたりは霧が深くて——知らないと道を外れるんですよ」
「よろしくお願いいたしますわ」
ソフィアが先に立って歩き始めましたの——足取りが軽うございましたわ。霧の中でも迷いがございませんでしたの。慣れておりますわ。
クーリエがわたくしの隣に来ましたわ。
「……大丈夫ですか?」と小声でございましたの。
「何がでございますか?」
「なんか、さっきの方、ちょっと——」
「存じておりますわ」
クーリエが少し口を結びましたわ。
霧の道でございますの。ソフィアの後ろ姿が霧の中を先に進んでおりましたわ——明るい茶色の髪でございますの。歩くたびに揺れておりましたわ。
茶葉の気配がございましたわ——ソフィアが向かう方向でございますの。
わたくしは歩みを続けましたわ。




