第32話 正式契約と野営の夜
宿がございませんでしたの。
街道沿いの村を2つ通りましたわ。どちらも宿はございませんでしたの——片方は閉まっておりましたわ。もう片方はそもそも宿がない規模でございますの。
「野営でございますわ」
「慣れています」とクーリエが言いましたの。
ヴァルターは何も言いませんでしたわ。何か言いかけて、止めましたの。
道から少し外れた場所に、開けたところがございましたの。川が近うございますわ。薪になる枝も拾えますの。
焚き火を囲みましたわ。
クーリエが湯を沸かしておりましたの。旅用の茶葉でございますわ。
「淹れていいですか?」
「どうぞ」
クーリエが動きましたわ。温度を確かめておりますの。蒸らしの時間を計っておりますわ。安価な茶葉でございますの——ただし、丁寧に扱えば安価な茶葉なりの味が出ますわ。
カップを受け取りましたわ。
一口飲みましたの。
旅用の茶葉でございますの。道具も簡素でございますわ。焚き火の不安定な火でございますの。それでも——整っておりましたわ。雑味がございませんでしたの。蒸らしの加減が、この茶葉の出し方を理解した上での時間でございますわ。
「クーリエ」
「はい」
「よろしゅうございますわ」
クーリエが少し固まりましたの。
「……合格、ですか?」
「正式契約でございますわ」
クーリエがカップを持ったまま、少しの間そのままでございましたわ。それから、小さく頷きましたの。
「……続けます」
「ええ」
ヴァルターがその様子を見ておりましたわ。何が起きたか完全にはわかっていない顔でございますの——ただし、何か大切なことが起きたとは感じているようでございますわ。
火が落ち着いてまいりましたわ。
3人とも、しばらく黙っておりましたの。
ヴァルターがカップを両手で持ったまま、火を見ておりましたわ。何か考えているようでございますの。ただ、口には出しませんでしたわ。
クーリエが空を見上げましたの。
「星が多いですね」
「山が近いからでございますわ」
「セバスチャンも今頃、こういう空の下にいますかね」
「そうでございますわね」
ヴァルターがクーリエを見ましたの。
「セバスチャン、とは?」
「知り合いです」とクーリエが言いましたわ。
「……どういう知り合いですか?」
クーリエがわたくしを見ましたの。
「被害者仲間でございますわ」
ヴァルターが少し考えましたわ。それ以上は聞きませんでしたの。
火が小さくなりましたわ。
ヴァルターが立ち上がりましたの。薪を1本足しましたわ。それから座り直しましたの。
誰も頼んでおりませんでしたわ。ただそうしましたの。
わたくしはカップを置きましたわ。
「明日も早いですわよ」
「はい」とヴァルターが言いましたの。
「はい」とクーリエも言いましたわ。
火が静かに燃えておりましたの。
3人分の影が地面に伸びておりましたわ——それぞれ別の方向でございますの。まだ、そういう夜でございますわ。




