第30話 これでございますわ!
小屋は荒れておりましたわ。
扉が傾いておりましたの。窓枠に蔦が絡まっておりますわ。床板が1枚、端から腐っておりましたの。それでも屋根は残っておりましたわ。壁も立っておりますの。雨風は凌げますわ。
「使えますわ」
クーリエが扉を押しましたの。蝶番が軋みましたわ。
「……本当に使うんですか?」
「使えると申しましたわよ」
荷物を中に入れましたの。床の腐った部分を避けて荷物を置きましたわ。クーリエが外から薪になる枝を集めてまいりましたの。
焚き火の準備をいたしましたわ。
セバスチャンが扉の外に立っておりましたの。中に入る気がないようでございますわ。
「せっかくでございますわ。お入りくださいな」
「……邪魔ではないか?」
「3人分の場所はございますわ」
少し間がありましたの。それからセバスチャンが入ってまいりましたわ。腐った床板を一瞥して、避けて座りましたの。
火が点きましたわ。
荷物の中から、小さな包みを取り出しましたの。
今日の産地で摘んだものでございますわ——ただし、クーリエと一緒に摘んだものとは別でございますの。斜面を歩きながら、最も標高の高い区画だけ、こっそり分けて仕舞っておりましたわ。処理も別に行っておりましたの。
ロイヤルアールグレイ・プレミアム・オブ・サンライズ。
マルクスが「産地の中でも限られた区画からしか取れない」と記しておりました茶葉でございますわ。
クーリエには気づかれておりませんでしたわ。
「クーリエ、湯をお願いできますか?」
「はい。どの茶葉ですか?」
小さな包みを取り出しましたわ。
「こちらでございますの」
「……それ、さっきのと違いますね」
「別に摘んでおりましたわ」
クーリエが目を丸くしましたの。
「いつのまに」
「斜面を歩いている間でございますわ」
セバスチャンが焚き火を見ながら聞きましたの。
「何が違うんだ?」
「産地で最も標高の高い区画の葉でございますわ。同じ斜面でも、上の方は空気が違いますの。香りも味も——少し違うはずでございますわ」
「確認したことがあるのか?」
「今夜が初めてでございますわ」
セバスチャンが少し黙りましたの。
「……初めて飲むものを、こんな場所で開けるのか」
「よい場所でございますわよ。産地の近くで、産地の空気の中で飲む最初の一杯でございますの。これ以上の場所はございませんわ」
クーリエが湯を沸かしておりましたわ。
「どう淹れますか?」
「温度は少し低めに。蒸らしは短めでよろしいわ。葉が細かいので、長く置くと渋みが出ますの」
「覚えます」
クーリエが丁寧に淹れておりましたわ。焚き火の明かりの中でございますの。湯気が上がりましたわ。
3つのカップに注ぎましたの。
クーリエがわたくしのカップを渡しましたわ。それからセバスチャンに向きましたの。少し躊躇してから、差し出しましたわ。
「どうぞ」
セバスチャンが受け取りましたの。カップを見ておりましたわ。
わたくしはカップを両手で持ちましたの。
香りを確かめましたわ。
山でございますの。あの斜面の上の方の、冷たい空気でございますわ。朝露と、土と、それから——何か、もっと奥にある香りでございますの。言葉にならない何かでございますわ。
一口飲みましたわ。
静かでございましたの。
味が広がりましたわ。渋みではございませんでしたの。苦みでもございませんわ。山のものでございますの——そういうとしか申し上げられませんわ。ただ、飲んだ後に何かが残りましたわ。何かが、でございますの。
「……これでございますわ」
声に出しておりましたわ。独り言でございましたの。
クーリエが自分のカップを持ちましたわ。一口飲みましたの。
「……なんか、すごいですね」
「何がですか?」
「うまく言えないんですけど……なんか、遠くにいる感じがします」
わたくしはクーリエを見ましたわ。
「それでよろしゅうございますわ」
セバスチャンがカップを口に運びましたの。
しばらく、何も言いませんでしたわ。
「……魔王になる前は」
唐突に言いましたの。
わたくしは何も言いませんでしたわ。クーリエも黙っておりましたの。
「農村の出だ。茶は飲んだことがなかった」
また黙りましたわ。焚き火が小さく爆ぜましたの。
「……悪くない」
それだけでございましたわ。
ただ、それで十分でございましたの。
火が落ち着いてまいりましたわ。
クーリエがいつの間にか眠っておりましたの。荷物に背中を預けて、静かに寝ておりますわ。
セバスチャンが焚き火を見ておりましたわ。
「……おまえは怖くないのか」
「何がでございますか?」
「私が魔王だということが」
「存じておりますわ」
「知っている、という話をしているんじゃない」
わたくしは残ったカップの茶を見ましたの。
「怖い、と申し上げるなら嘘になりますわ。ただ——あなたがどういう方かは、3日間見ておりましたわよ」
セバスチャンが黙りましたの。
「変異種を一人で食い止めて、見知らぬ人間を案内して、小屋を教えた。それが怖い方のすることでございますかしら?」
「……それは」
「茶葉を守るために壁を出した、と申しておりましたわ。おかしなことをおっしゃいますわね」
セバスチャンが少し黙りましたわ。それから、短く笑いましたの。声に出るような笑いではございませんでしたわ——ただ、表情が少し変わりましたの。
「……なぜ私が選ばれたのか、今でもわからない」
「さあ。ただ、選ばれた方がよかったのかもしれませんわよ」
「どういう意味だ」
「そうでなければ、わたくしはこの茶を飲めておりませんでしたわ」
セバスチャンが、わたくしを見ましたの。
それから、また焚き火を見ましたわ。
火が静かに燃えておりましたの。
山の夜でございますわ。
産地で作ったばかりの茶葉が、荷物の中にございますの。ロイヤルアールグレイの残りも、少しございますわ。
明日からは下りでございますわね。




