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憑依戦々  作者: N
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第十話  呼び声

四宮千景との接触に成功した春馬たちでしたが、天元零士の干渉によって春馬の「一」の印が消え、その下から未知の円形紋章が現れました。透明な炎の中で目覚めた、自らを「最初の一ノ火」と名乗る存在。塚原の失われた記憶と、千人が殺された四百年前の惨劇が再び動き始めます。



第十話「呼び声」


一月一日、午前九時四十五分。


透明な炎に包まれた春馬は、白い刀を片手に立っていた。右肩、左脇腹、右太腿には病院で処置を受けたばかりの傷が残っているというのに、その顔には痛みも苦しみも浮かんでいない。金色に変わった右目は、四宮やりかたちの存在など初めから見えていないかのように、正面の塚原だけを冷たく見つめていた。


「最初の一ノ火じゃ」


春馬の口を借りて名乗った声は、ひどく古びていた。話し方だけを聞けば塚原に似ているものの、その言葉には義理も情もなく、長い年月をかけて研ぎ澄まされた憎悪だけが宿っている。


塚原は刀を構えながらも、すぐには踏み込めなかった。自分へ向けられている白い刃が、かつて燃える村で見た刀と重なり、思い出せないはずの記憶が胸の奥を激しく揺さぶっていたからだ。


「ワシを忘れたか、塚原一」


問いかけられた瞬間、塚原の脳裏に燃え落ちる家々と、地面を埋め尽くす門下生の骸がよみがえった。その光景の中心には紫色に輝く石があり、石の前に立つ顔の見えない男へ、塚原自身が一本の刀を差し出している。


「貴様へ刀を渡したことは覚えておる。じゃが、なぜ渡したのかも、その後に何が起きたのかも思い出せぬ」


記憶を探るほど頭の奥へ焼けるような痛みが走ったが、塚原は刀を下ろさなかった。春馬の体を奪った存在へ切っ先を向け、震える声を押し殺しながら問いを重ねる。


「貴様は何者じゃ。なぜ春馬の中におる。ワシと四百年前の惨劇に、どのような関わりがある」


「春馬……それが、この器へ与えられた名か」


男は初めて聞いた名前を確かめるように呟くと、春馬の口元へ冷たい笑みを浮かべた。


「赤井の血を引く者にしては、随分と軽い名を持たせたものよ。己に何が眠っておるかも知らず、危うい力を振り回しておったとは、赤井の血も堕ちたものじゃな」


「春馬を器と呼ぶでない!」


塚原の怒声とともに刀から紫色の炎が噴き上がり、床へ散らばった紙を激しく揺らした。透明な炎をまとった男は一歩も下がらず、むしろ塚原の怒りを楽しむように目を細める。


「相変わらずじゃな。守ると決めた者のためならば、己の命さえ惜しまぬ。その愚かさゆえに、お主は千人を失ったというのに、四百年を経ても何一つ変わっておらぬ」


「黙れ」


「今度は、この若者を失うか?」


男は白い刀の切っ先を春馬自身の胸へ向けた。塚原の顔から血の気が引くのを確かめると、さらに刃先を近づけ、包帯の巻かれた胸元へ触れさせる。


「この体へ刃を突き立てれば、お主はどのような顔をするのであろうな。千人を守れなかった夜と同じように、また一人だけ生き残るのか?」


塚原は床を蹴り、春馬との距離を一息で詰めた。振り上げた刀で白い刃をはじき、春馬の胸元から遠ざけようとする。二本の刀がぶつかった瞬間、紫色と透明の炎が激突し、衝撃に耐えられなかった洋館の窓ガラスが一斉に砕け散った。


床へ伏せたひろしは両腕で頭を守りながら、刃を交える二人へ必死に叫んだ。


「春馬の体で勝手に戦うな! 塚原さんも、そいつを斬ったら春馬まで傷つくだろ!」


ひろしの声が届いているのかはわからない。塚原は春馬の体を傷つけないように刃を止めているが、男には同じ配慮がなく、傷だらけの肉体へ無理やり力を込めて白い刀を振り抜いた。


塚原の体が壁まで吹き飛ばされ、紫色の粒子を散らしながら激突する。その一方で、春馬の右肩と脇腹を覆う包帯には新しい血が広がり、白かった布を濃い赤へ染めていった。


「春馬!」


りかは反射的に駆け出そうとしたが、意識の奥から現れた紫乃に肩をつかまれた。実際に手が触れているわけではない。それでも紫乃の感情と警告が体へ流れ込み、踏み出しかけたりかの足を止めた。


「近づくでない、りか。今の春馬は、お主の声を聞ける状態ではない。あの透明な火に触れれば、お主まで弾き飛ばされるぞ」


「でも、このままじゃ春馬の傷が全部開いちゃう。さっき病院で縫ってもらったばかりなのに、あんな動き方をしたら体がもたないよ」


りかは胸元へ左手を押し当て、透明な炎の中にいる春馬を見つめ続けた。助けたい気持ちが強くなるほど、過去に紫乃へ体を奪われた恐怖までよみがえり、足が震え始める。


「怖いのはわかってる。それでも、何もしないで春馬がいなくなるのを見ているなんて、私にはできない」


「落ち着いて、りかちゃん」


ひろしが立ち上がり、再び前へ出ようとするりかの腕をつかんだ。彼の手も激しく震えていたが、声だけはできる限り冷静に保とうとしている。


「俺たちが近づいたら、春馬はもっと無茶をする。自分の体を動かせるかもわからないのに、俺やりかちゃんが斬られそうになったら、絶対に中から出てこようとするだろ。春馬って、そういう馬鹿だから」


「だったら、私たちはどうすればいいの? このまま見ているだけじゃ、本当に春馬が死んじゃう」


りかの問いへ、四宮が冷静な声で答えた。


「春馬本人へ呼びかけ続けてください。現在、あの肉体の内部には、少なくとも三つの魂が存在しています」


床へ片膝をついた四宮は、黒く染まった右手を何枚もの紙で覆っていた。天元の攻撃を防いだ代償なのか、「四」の印から紫色の血が流れ続けており、紙へ書かれた数式を次々と黒く染めている。


「三つとは、どういうことじゃ」


壁際から立ち上がった塚原が、春馬の体から目を離さないまま尋ねる。四宮は浮かび上がらせた三枚の紙へ、それぞれ異なる名前を書き込んだ。


「一つ目は赤井春馬、二つ目は塚原一、三つ目が自らを最初の一ノ火と名乗る存在です。ただし、三つ目が語った名前や過去を事実として扱うことはできません」


「奴は、ワシしか知らぬはずの記憶を口にした。刀を渡したことも、千人が死んだ村のことも知っておる。それでも奴の言葉が偽りだと申すか」


「あなたの記憶へ接触した者であれば、その情報を得ることは可能です。春馬はあなたの記憶にのみ込まれ、二ノ火の力によって分離されました。その時に生じた魂の経路へ、第三者が侵入した可能性があります」


塚原は納得できない様子で眉間のしわを深くしたが、四宮の説明を否定できる証拠も持っていなかった。目の前の存在を知っているという感覚が自分の記憶なのか、何者かに植えつけられたものなのか、その判断すらできない。


「奴が本当に最初の一ノ火であるかは、現段階では確認できません。しかし、今優先すべきなのは正体の特定ではなく、春馬の肉体から第三の魂を引き離すことです」


四宮が左手で床へ触れると、散乱していた数百枚の紙が一斉に浮かび上がった。紙は透明な炎を囲むように広がり、春馬、塚原、そして名前のない第三の存在に関する情報を三列に分けていく。


赤井春馬、十九歳。右肩、左脇腹、右太腿を負傷し、現在も出血が続いている。


塚原一、四百年前に死亡。一ノ火として赤井春馬へ憑依し、魂の同調を経験している。


三つ目の列には、名前も年齢も記されていない。わかっているのは、金色の右目、透明な炎、白い刀、そして零の中に一本の線を刻んだ紋章だけだった。


「私の四ノ火は、存在するものを測り、その境界を定めます。名も正体も不明な以上、完全な分離は不可能ですが、三つの魂の境目を一時的に固定することならできます」


「春馬を助けられるの?」


りかの声には、期待と恐怖が同時ににじんでいた。四宮は即答せず、空中の紙へ数式を書き込みながら、春馬の出血量と魂の状態を計算する。


「現時点での成功率は三十二パーセントです。失敗した場合、春馬の魂と第三の魂の境界が崩れ、二度と分離できなくなる可能性があります」


「三十二パーセントって、低すぎるだろ。そんなものを春馬で試せるわけない」


ひろしが声を荒らげると、四宮は視線を伏せたまま言葉を続けた。


「何もしなかった場合、春馬の肉体が十分以内に限界を迎える確率は八十七パーセントです。選択しなければならないのは、危険な方法を試すか、さらに高い確率で春馬を失うか、その二つです」


数字だけを並べる声は冷たく聞こえたが、紙へ式を書き込む四宮の指はわずかに震えていた。四百年前、自らの計算を信じた結果、千人もの命が失われた。その過去を思い出した直後に、再び一人の命を数字として扱わなければならないことを、四宮自身も恐れているのだ。


「三十二では足りぬ。妾の二ノ火を重ねれば、確率を上げられるはずじゃ」


りかの意識の奥で、紫乃が強く言い切った。四宮は初めて顔を上げ、りかの左手にある「二」の印を見つめる。


「二ノ火は二つの魂を分ける力を持つ。しかし、今回は春馬の内部に三つの魂が存在しています。さらに、あなたと松永りかの同調を維持しながら力を使えば、二人の記憶が混ざり合う危険があります」


「それでもやります」


りかは恐怖をごまかさず、自分の両手が震えていることも隠さなかった。紫乃の力を受け入れるたびに、再び体を奪われるのではないかという不安が胸をよぎる。それでも春馬を助けたいという気持ちは、その恐怖より強かった。


「怖くないわけじゃありません。紫乃の記憶が流れ込むことも、自分が自分ではなくなることも怖いです。でも、何もしないまま春馬を失ったら、私はきっと一生、自分を許せません」


その言葉を聞いた紫乃は、すぐには答えなかった。四百年前、腕の中で大切な者を失い、何もできなかった後悔を今も抱えているからこそ、りかの決意を軽々しく受け入れることも、止めることもできない。


「妾が道を開く。じゃが、無理だと思ったならば、すぐ妾の手を離すのじゃ。春馬を救うために、お主まで失うようなことは、妾が許さぬ」


「紫乃の手も離さないよ。二人で一つだって決めたでしょ」


「本当に注文の多い娘じゃな」


呆れた口調とは裏腹に、紫乃の感情には確かな温かさがあった。りかはその思いを受け止め、左手を透明な炎へ向かって伸ばす。「二」の印から紫色の光があふれ、四宮の紙が作った円へ静かに流れ込んでいった。



春馬は、色も地面もない闇の中に立っていた。自分の体を動かそうとしても指一本動かせず、遠くから刀がぶつかる音と、誰かが自分を呼ぶ声だけが途切れ途切れに聞こえてくる。


「塚原……」


呼びかけても返事はなく、代わりにすぐ背後から、春馬の体を奪った男の声が響いた。


「案ずるな。塚原を殺しはせぬ。あの男には、己が何を解き放ったのかを思い出してもらわねばならぬからな」


男の姿は見えなかったが、春馬の周囲を歩く気配だけは感じられた。ゆっくりと円を描く足音が近づくたびに、体の自由がさらに奪われていく。


「俺の体で勝手なことをするな。塚原を傷つけるのも、りかやひろしへ刀を向けるのも許さない」


「力が欲しかったのであろう? 誰も傷つけさせたくない、己が傷つくだけで済むなら構わぬと、お主の魂が叫んでおったぞ」


その言葉は図星だった。三冬に斬られ、りかが自分の代わりに命を差し出そうとした時、春馬は心の底から力を求めていた。誰かを守るためなら、自分の体がどうなっても構わないとさえ思っていた。


「確かに力は欲しかった。でも、お前に体を貸すなんて言ってない。俺が傷つくかどうかは、俺が決める」


「器が随分と偉そうな口を利くものじゃな」


その言葉を聞いた瞬間、春馬の中に小さな違和感が生まれた。男は赤井の血や塚原の過去を知っているように話していたが、春馬本人については何一つ知らない。


「お前、さっきから俺を器としか呼ばないよな。俺の名前だって、塚原が呼ぶまで知らなかった。それなのに、最初から俺を知っていたみたいな顔をしてる」


闇の中を歩いていた足音が止まり、男の気配から初めて余裕が消えた。


「何が言いたい」


「俺は頭がいい方じゃないけど、それくらいはわかる。お前は塚原の記憶を知ってるだけで、俺のことは何も知らない。赤井の血とか、最初の一ノ火とか、それっぽいことを並べて俺を信じ込ませようとしてるだけじゃないのか?」


「黙れ」


男の声とともに、見えない手が春馬の首をつかんだ。体が宙へ持ち上げられ、喉へ指が食い込む感覚が広がる。息ができず、意識が遠のき始めても、春馬は目をそらさなかった。


「この力がなければ、お主は誰も守れぬ。塚原の力を借りれば、今度こそ本当に魂を失う。それでも、あの男を信じると申すか」


「塚原は俺を助けた。確かに力を使ったせいで死にかけたけど、あいつは自分が消えるかもしれないのに俺を先に逃がした。俺の体を勝手に使って、自分だけ残ろうとするお前とは違う」


見えない手が、春馬の喉をさらに強く締めつける。視界が暗くなりかけた時、闇の遠くから、りかの声が聞こえてきた。


「春馬、聞こえるなら返事をして! 一人で戦わないって約束したでしょ!」


声が届くたび、周囲の闇へ紫色の亀裂が広がっていく。その隙間から差し込んだりかの左手を見た春馬は、苦しさの中でも小さく笑った。


「また、助けに来たのかよ……」


「いつまで捕まっておる、春馬! 己の体であろう。怖がっておる暇があるなら、さっさと取り返すのじゃ!」


紫乃の荒々しい声も重なり、さらに遠くからは、ひろしの必死な叫びまで聞こえてきた。


「帰ってこなかったら、車の修理代を全部お前に請求するからな! 俺だけ普通の人間なのに、これ以上面倒事を増やすんじゃねえ!」


「脅し方が弱いだろ……」


かすかに声が出ると、それまで動かなかった右手の指もわずかに動いた。春馬は全身へ力を込め、闇の亀裂から伸びるりかの手へ向かって腕を伸ばす。


「戻ったところで、お主は再び無力な若者になる。守りたい者が傷つく姿を、何度も見続けることになるぞ」


「それでもいい。借りものの力でも、自分で選んで使う。勝手に体を使われるより、そっちの方がずっといい」


春馬はりかの手をつかんだ。その温度が伝わった瞬間、体を縛っていた力がわずかに緩み、闇の向こうから光が流れ込んでくる。


「俺の名前は赤井春馬だ。誰かの器になるために生きてるんじゃない」


紫色の亀裂が大きく広がり、見えない男の手が喉から外れた。春馬はりかの手を両手で握り、自分の体を奪っている存在へ向かって叫ぶ。


「俺の体から出ていけ!」



透明な炎が内側から弾け、強い衝撃が洋館を走り抜けた。四宮の紙が三つの魂の境界を固定し、りかと紫乃の紫炎が春馬の魂を引き戻す。その二つの力に押し出されるように、春馬の背中から黒い人影が現れた。


人影には、はっきりとした顔も体もなかった。煙のように輪郭を変えながら揺らぎ、金色に輝く右目だけを残して塚原を睨んでいる。


塚原は迷わず刀を振るい、紫色の刃で人影の胸を横断した。しかし手応えはなく、切り裂かれた影は黒い煙へ変わると、天元の姿が映るモニターへ吸い込まれていった。


「残念だったな。もう少しで完全に目覚められたというのに」


画面の中で天元が両手を広げ、戻ってきた影を迎え入れる。その表情には失敗への怒りではなく、春馬たちがどのように抗うのかを楽しむような笑みが浮かんでいた。


一方、体の自由を取り戻した春馬は、その場へ崩れ落ちた。りかが駆け寄り、床へ倒れる寸前で抱き止めると、何度も名前を呼びながら顔をのぞき込む。


「春馬、お願いだから目を開けて。今度こそ、ちゃんと帰ってきたって言って」


春馬は重い瞼をゆっくり開いた。右目は金色ではなく元の茶色へ戻っており、その目に泣きそうなりかの顔が映る。


りかの瞳から涙がこぼれた。安心と怒りが入り交じった表情で春馬の額を指先で押し、震える声で言い聞かせる。


「病院に戻ったら今度こそ絶対に寝てもらうから。勝手に抜け出すのも、誰かに体を貸すのも禁止だからね」


ひろしも座り込んだ。顔色が戻ったことを確かめるように友人を見つめ、ようやく肩から力を抜く。


「俺の声も聞こえてたか?」


「車の修理代の話なら聞こえた。あれで戻らなきゃと思った」


「そこしか聞こえてないのかよ。俺、もっと友達らしいことも言った気がするんだけど」


不満そうに顔をしかめるひろしへ、春馬は素直に礼を告げた。


「でも助かった。ありがとな」


予想していなかった言葉に、ひろしは一瞬だけ黙り込んだ。照れを隠すように目をそらしながらも、血のにじむ包帯へ気づくと、春馬の肩へ触れようとした手を止める。


「礼を言うくらいなら、もう倒れるな。見てるこっちの身にもなれよ。何回死にそうになれば気が済むんだ」


「努力する」


「努力じゃなくて約束しろ。りかちゃんと俺の二人分だから、破ったら二人に殴られると思え」


「俺、病人なんだけど」


「病人が勝手に戦うな」


二人のやり取りを聞き、りかは涙を拭いながら小さく笑った。


少し離れた場所では、塚原が消えた人影の残滓を見つめていた。自分はあの存在を知っているのか、それとも知っていると思い込まされているだけなのか、失われた記憶が答えを隠している。


「奴は、何者じゃったのか」


「現段階では確認できません。ただし、あの存在が春馬の中へ元からいたわけではないことは確定しました」


四宮は傷ついた右手を押さえながら、停止したモニターへ近づいた。


「分離された直後、あの影は天元の側へ戻りました。春馬へ侵入した経路も、天元によって作られた可能性が高い。あなたの記憶から情報を抜き取り、事実へ嘘を混ぜた上で、自らを最初の一ノ火と思わせようとした可能性があります」


「では、奴が千人を殺した者であるかも、最初の一ノ火であるかも、まだわからぬということか」


「はい。現時点で断定できる証拠はありません」


また確認できないのかと塚原は顔をしかめたが、春馬は床へ座ったまま四宮の説明を聞き、別の点へ目を向けていた。


「でも、天元が俺に何かを入れたことはわかった。あいつは塚原の消された記憶も知ってる。だったら、塚原の記憶を消した奴にも近いんじゃないか?」


四宮は数秒間考えたあと、春馬の推測を完全には否定しなかった。


「その可能性はあります。しかし天元の現在地は特定できず、彼が何者なのかも確認できません」


「なら、これから情報を集めればいい。すぐ無理って言ってたら、何も始まらないだろ」


春馬は立ち上がろうとしたが、右肩と脇腹に走った痛みで顔をゆがめ、そのまま床へ座り直した。りかは呆れたように彼の前へ立つと、怒鳴る代わりに静かな笑顔を浮かべる。


「今、私が何を言いたいかわかる?」


「病院に戻れ?」


「わかっているなら、立とうとしないで。今度同じことをしたら、本当に怒るからね」


春馬はその笑顔へ逆らえる気がせず、素直にうなずいた。



午前十時三十八分。


黒い車で総合病院へ戻った春馬は、外出に気づいた看護師から厳しく叱られ、開きかけた傷を再び処置されることになった。今度こそベッドへ寝かされ、勝手に動けないよう点滴まで追加されている。


四宮も春馬の円形紋章を監視するために同行し、病室の隅で手帳へ数字を書き続けていた。病院には春馬の遠縁だと説明したらしいが、春馬は四宮の整った顔と自分の顔を比べ、無理のある設定ではないかと疑っていた。


「事前に必要な手続きは済ませています。天元が再び干渉する可能性がある以上、あなたを一人にはできません」


「手続きって、何をしたんだよ。あと、どう見ても親戚には見えないだろ」


「遠縁であれば、外見が似ていないことに不自然さはありません」


説明を聞いていたひろしは、四宮がどこから資金を得ているのか尋ねたが、「説明する必要性を感じません」と返され、さらに疑いを深めた。


その時、担当の看護師が病室へ入ってきた。春馬の点滴と包帯を確認すると、今度こそ一日中安静にするよう念を押し、本人の返事だけでは信用できないと判断したのか、付き添っているりかへ監視を頼んだ。


「任せてください。今度は絶対に病室から出しません」


力強く答えたりかを見て、看護師は安心したように病室を出ていった。春馬は自分への信用のなさに不満を漏らしたが、ひろしから「自分でなくしたんだろ」と返され、反論できずに枕へ頭を沈めた。


疲労で目を閉じかけた、その時だった。


――来い。


耳元から聞こえた声ではない。低く、獣の唸り声にも似た呼びかけが、春馬の頭の奥へ直接響いた。


春馬が勢いよく目を開けたことで、りかはすぐに異変へ気づいた。


「どうしたの? また、あの男の声が聞こえたの?」


「違う。今、誰かに来いって呼ばれた。さっきの奴より低くて、人間というより動物みたいな声だった」


塚原と紫乃は周囲の気配を探ったが、二人には何も聞こえていなかった。四宮だけは手帳へ走らせていたペンを止め、春馬の表情と右手を注意深く観察する。


「声は、どの方向から聞こえましたか」


「方向なんてわからない。でも、たぶん……下だ」


春馬が床へ視線を落とした瞬間、右手の奥に隠れた円形紋章が熱を発した。さらに指の付け根から手首へ向かって六本の黒い筋が伸び、皮膚の上で脈を打ち始める。


その印を見た四宮は、これまで保っていた冷静さをわずかに崩した。


「六ノ火が、この病院の地下から春馬へ干渉しています」


病院の地下に火人がいると聞き、ひろしは信じられないという顔で床を見た。四宮はすぐに院内の案内図を表示させ、地下設備の構造と監視記録を調べ始める。


「この病院には地下二階まで存在します。地下一階は検査設備と保管庫、地下二階は現在使用されていない旧設備区域です。病院や戦場のように、人間の強い恨みや後悔が残る場所は幻真層と接続しやすい」


画面へ地下二階の図面が表示されたが、ほとんどの部屋には用途が記されていなかった。一番奥にある区画だけが「旧隔離区画」と表示され、そこへ至る廊下の監視カメラは午前六時以降、全て停止している。


ひろしが停止直前の映像へ目を凝らすと、廊下の奥に一人の人影を見つけた。黒い着物を身につけ、腰には一本の刀を差し、右手では紐のついた木製の徳利を揺らしている。顔が映っていなくても、その姿を見間違える者はいなかった。


「三冬だ。県道で俺たちと戦ったあと、この病院に来てたのか?」


四宮は映像の受信時刻を確認し、午前六時三十分に沖田三冬が地下二階へ入った可能性が高いと判断した。


「三冬が十一ノ火の命令で動いているなら、どうして六ノ火を封じる必要があるんだよ」


ひろしの疑問に、四宮はしばらく画面を見つめてから答えた。


「沖田三冬は十一ノ火の命令に従っているように見えますが、本心までは確認できていません。彼が六ノ火を封じているのか、解放しようとしているのか、それを知るには本人を捜す必要があります」


春馬は点滴の管を見つめながら布団をめくろうとしたが、その動きを予想していたりかがすぐに進路を塞いだ。


「行くつもりなの? さっき看護師さんから絶対安静って言われたばかりだよ」虚無な目で春馬をみる


「三冬を捜して話を聞くだけだ。戦わないし、危なくなったらすぐ戻る」


「その言葉を信じられると思う? 春馬は危なくなったら戻るんじゃなくて、自分だけ残って私たちを逃がそうとするでしょ」


りかの声は怒っているように聞こえたが、握り締めた手は震えていた。春馬が何度も命を失いかける姿を見たからこそ、再び危険な場所へ送り出すことが怖いのだ。


春馬は軽い返事で納得させることを諦め、りかの目を見ながら一つずつ約束した。


「一人では行かない。傷が痛んだら止まるし、勝手に塚原へ体も貸さない。危ないと思ったら四宮の指示に従って、すぐ病室へ戻る。それでも駄目なら、車椅子から降りない」


「俺まで行く前提にするなよ」


ひろしは文句を言いながらも、すでにソファから立ち上がっていた。りかはその姿と四宮、塚原を順番に見たあと、深く息を吐く。


「私も行く。でも、春馬を一人では歩かせないから。嫌なら病室に残って」


「車椅子でお願いします」


春馬が即答すると、ひろしは緊張を隠すように笑った。


「俺が!って言ったのひ全然格好つかねえな」


「怪我人に格好よさを求めるなよ」


四宮は印刷した地下二階の図面を折りたたみ、黒い手袋の内側へ入れた。


「地下では私の指示に従ってください。沖田三冬が敵か味方か、六ノ火がどの状態にあるかは確認できません。想定外の事態が起きれば、病院全体が巻き込まれる可能性があります」


「三冬が襲ってきたなら、今度こそワシが止める」


塚原が刀へ手を添えると、春馬は車椅子へ移りながら念を押した。


「俺の体を使うのは禁止だからな」


「傷が治るまでは承知しておる。武士に二言はない」


「その言葉、前にも聞いた」


「何度言わせるのじゃ!」


小声で言い争う二人の横で、りかは車椅子の取っ手を握り、春馬を乗せたまま病室を出た。



エレベーター前へ到着した四宮が操作盤へ右手をかざすと、通常は表示されていなかった「B2」の文字が赤く点灯した。ゆっくりと開いた扉の奥からは、冷たい空気とともに、獣の荒い呼吸のような音が伝わってくる。


「今からでも病室へ戻らない?」


ひろしは青ざめた顔で尋ねたが、春馬の右手に伸びた六本の黒い筋は、地下へ近づくほど強く脈打っていた。


「三冬を見つけて、六ノ火が何なのか確かめる。勝手に戦わないし、危なくなったら戻る。さっき約束したことは守るよ」


「お前の『確かめるだけ』ほど信用できない言葉はないけどな」


文句を言いながらも、ひろしはエレベーターへ乗り込んだ。続いて四宮、りか、春馬が入り、塚原と紫乃もそれぞれの器のそばで地下の気配を警戒する。


扉が閉まり、階数表示が一階から地下一階へ変わる。地下二階へ向かってさらに下降を始めた瞬間、天井の照明が消え、狭い箱の中が完全な暗闇に包まれた。


りかは不安を押し殺しながら春馬の肩へ手を置いた。


「何が起きても、今度は一人で行かないで。私も紫乃も、ひろし君も四宮さんもいるから」


その言葉は春馬へ向けたものだったが、同時に自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。春馬は肩へ置かれた手に自分の左手を重ね、暗闇の中でも伝わるように強くうなずく。


やがて赤い非常灯が点灯し、エレベーターが地下二階へ到着した。扉が開いた途端、冷え切った空気と濃い血の臭いが車内へ流れ込み、全員の表情からわずかな余裕さえ消えていく。


非常灯に照らされた廊下の壁と床には、三本ずつ並んだ刀傷が無数に刻まれていた。奥からは何か重いものを引きずる音が一定の間隔で近づき、低い唸り声が天井の配管を震わせている。


塚原は一行の前へ進み、いつでも刀を抜けるよう柄へ手を添えた。


「三冬、おるならば返事をせよ。貴様が何を企んでおるかは知らぬが、まず姿を見せるのじゃ」


返事の代わりに、廊下の角から木製の徳利が転がってきた。表面には大きな亀裂が入り、普段三冬が手にしていた紐も途中で引きちぎられている。


「三冬……?」


春馬が名前を呼ぶと、廊下の奥から弱々しい笑い声が返ってきた。


「来るの……遅いですよー……」


赤い非常灯の下で、沖田三冬が壁へ背中を預け、床へ座り込んでいた。黒い着物は大量の血で濡れ、右腕には獣の牙で食いちぎられたような深い傷が残っている。それでも春馬たちを安心させようとしているのか、青白い顔にはいつもの人懐こい笑みが浮かんでいた。


「朝にあれだけ斬られて、まだ動くんですか。春馬君は、見かけによらず頑丈ですねえ」


春馬が車椅子から立ち上がろうとした瞬間、三冬の笑みが消えた。


「そこから動かないでください。特に春馬君と、その隣の友人は、僕から四歩以上前へ出ない方がいい」


普段の軽い調子ではなく、命令に近い鋭い声だった。三冬は動く左手で刀を握り、廊下のさらに奥へ切っ先を向ける。


「何がいるんだよ。お前、その腕を誰にやられた?」


春馬が問いかけた直後、暗闇の中で二つの目が開いた。紫色に輝く瞳は人間の位置より遥かに高く、巨大な爪が床を引っかくたび、コンクリートへ四本の深い溝が刻まれていく。


「六ノ火ですよ」


三冬は口元から流れた血を袖で拭い、笑おうとして失敗したように顔をゆがめた。


「この病院に残っている恨みも、妬みも、悲しみも、全部食べてしまった。僕がここへ来た時には、もう手のつけられないくらい大きくなっていましてねえ」


暗闇から姿を現したのは、人の背丈を遥かに超える巨大な狼だった。黒い毛並みの隙間から紫色の炎が漏れ、額には黒く染まった「六」の印が刻まれている。


狼は塚原でも紫乃でもなく、真っ先にひろしへ視線を向けた。その瞳に見つめられた瞬間、ひろしの胸の奥へ隠していた感情が、自分の意思とは関係なく引きずり出されていく。


幼い頃から春馬の隣にいた記憶。いつでも迷わず前へ出る春馬への憧れと、置いていかれるような寂しさ。そして、りかが春馬を見つめるたびに胸へ生まれ、それでも友人へ伝えることができずに押し殺してきた嫉妬。


「やめろ……俺の中を見るな」


ひろしは胸元を押さえて後ずさったが、狼の紫色の瞳から逃れることができなかった。


「ようやく見つけた」


獣の口から発せられた声が、地下二階全体を震わせる。狼はひろしの中に渦巻く感情を味わうように目を細め、鋭い牙の並ぶ口をゆっくりと開いた。


「恨みを持ちながら、友を憎みきれぬ。愛する者を奪われたと思いながら、その幸せを願っておる。矛盾に満ちた、実に美しい魂じゃ」


春馬がひろしを守ろうと車椅子から身を乗り出すと、三冬は残った力を振り絞り、刀で進路を塞いだ。


「動かないでくださいと言ったでしょう。六ノ火は強い人間を選ぶんじゃない。誰にも言えない感情を、最も深く抱えている人間を選ぶんです」


狼の額にある「六」の印が激しく輝き、ひろしの足元から黒い影が伸び始める。その影は両足へ絡みつき、逃げようとする体を暗闇の奥へ引き寄せていく。


「我の器となれ」


六ノ火の低い声が響くと、ひろしの右手に六本の黒い筋が浮かび上がった。


――第十話・完――




第十話をお読みいただきありがとうございます。春馬を乗っ取った存在は天元の側へ戻りましたが、「最初の一ノ火」という名も、四百年前の惨劇との関係も未確定のままです。一方、病院地下二階では三冬が六ノ火を封じ続けていました。人間の負の感情を食らう狼が選んだのは、火の力を持たないはずのひろしでした。

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