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憑依戦々  作者: N
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第九話  計算の外

九ノ火・九条翡翠が残した警告と、四ノ火を名乗る者から届いた一通のメール。塚原が解き放った「千人を殺した者」とは何者なのか。そして天元零士が、塚原ではなく春馬こそ選ばれた存在だと語った理由とは。傷を負った一行は、全てを計算する男・四宮千景との接触を試みます。




第九話「計算の外」


一月一日、午前六時四分。


朝靄の残る県道で、ひろしはスマートフォンの画面を見つめていた。


差出人は不明。


件名は「四」。


本文に記されているのは、現在地から三十二キロほど離れた住所と、たった一行の警告だけだった。


――九条翡翠の言葉を信じるな。


「四宮千景って奴が送ってきたのか?」


ひろしが画面を春馬へ向ける。


「たぶん」


春馬は答えながら、地面へ手をついた。


立ち上がろうとした瞬間、右肩と脇腹に激痛が走る。息を詰まらせた春馬の膝から力が抜け、再び雪の上へ崩れかけた。


「春馬!」


すぐ隣にいたりかが、倒れそうになった体を抱き止める。


「無理しないで。今の春馬は、立っているだけでも危ないんだよ」


「大丈夫。ちょっと足に力が入らなかっただけだから」


「それを大丈夫とは言わぬ」


塚原が厳しい声で言い切った。


春馬が恨めしそうに顔を向けると、塚原は腕を組んだまま眉間のしわを深くする。


「お主は先ほどまで、ワシの魂にのみ込まれかけておったのじゃぞ。三冬に斬られた傷も残っておる。今すぐ動けば、傷口が開く」


「でも、四ノ火が待ってるんだろ。翡翠が言ってた十一時十一分まで、あと十日しかない」


「十日あるんでしょ?」


りかの声が、春馬の言葉を遮った。


普段の穏やかな彼女からは想像できないほど、強い口調だった。


「十日あるのに、どうして今すぐ死にそうな動き方をするの? 病院へ行って、それから四宮さんを捜せばいい。春馬が死んだら、何もできなくなるんだよ」


りかの瞳が潤んでいる。


先ほど春馬の意識へ入り、その魂が消えかけるところを目の前で見たばかりだ。もう一度同じ恐怖を味わうことに、耐えられないのだろう。


「……わかった」


春馬が素直にうなずくと、りかは意外そうに目を瞬いた。


「聞いてくれるの?」


「俺だって、たまには人の話を聞くよ」


「昨夜から妾たちの忠告を何度無視したと思っておる」


りかの意識の奥で、紫乃が呆れた声を漏らす。


「それ、紫乃が言ったの?」


「何でわかった?」


「春馬を責める時だけ、紫乃と塚原さんは息が合うから」


思わぬ反撃を受け、塚原が不満そうに鼻を鳴らす。


そのやり取りを聞いていたひろしは、すぐには笑わなかった。


手にしたスマートフォンを強く握り、倒れた春馬を見つめている。


「病院へ行くぞ」


低く押し殺した声だった。


春馬が冗談で空気を軽くしようと口を開くよりも早く、ひろしは続ける。


「俺は塚原さんみたいに戦えない。りかちゃんみたいな力もない。さっきだって、三冬に刀を向けられて、何もできなかった」


「そんなこと――」


「あるんだよ」


ひろしの声が、県道へ響いた。


怒っているように聞こえた。


だが、下を向いた顔には、悔しさと恐怖が入り交じっている。


「目の前でお前が斬られて、りかちゃんまで倒されて、俺は見てることしかできなかった。塚原さんや紫乃さんがいなかったら、全員死んでた。そんな俺でも、救急車を呼ぶことくらいはできる。お前を病院へ連れていくくらいはできる」


ひろしの上着には、春馬の血が染みついている。


倒れた春馬の傷口を押さえ、意識が戻るまで何度も名前を呼び続けていた。


力がないから何もしていないのではない。


力がなくても、できることを探して残っていた。


そのことを、春馬は今になって気づいた。


「悪かった」


「何がだよ」


「何もできなかったみたいに思わせた」


春馬は痛みに耐えながら体を起こし、ひろしへ右手を伸ばした。


「お前がいなかったら、俺たちはここまで来られなかった。車も、お前の携帯も必要だった。何より、お前が助けを呼んでくれなかったら、俺はあのまま倒れてた」


ひろしは差し出された手を見つめた。


しばらく迷ったあと、その手を乱暴につかむ。


「急に真面目なことを言うなよ。死ぬ前の挨拶みたいで気持ち悪い」


「勝手に殺すな」


「だったら病院へ行け。今度無茶したら、俺がお前を殴る」


「三冬に斬られた傷より痛くなさそう」


「そこは黙って怖がれよ!」


ようやく、いつもの調子が戻った。


りかが安心したように小さく笑う。


その時、ひろしのスマートフォンが再び鳴った。


全員の視線が画面へ集まる。


先ほどと同じ、差出人不明のメール。


件名には、やはり「四」とだけ記されていた。


――救急車を呼ぶ必要はない。


――四分後、迎えが到着する。


「気味悪いな……」


ひろしは反射的に周囲を見回した。


県道の両側には、枯れた田畑が広がっている。人影はなく、監視カメラらしきものも見当たらない。


「俺たちの会話、どこかで聞かれてるのか?」


「妾には、見張っておる者の気配は感じられぬ」


りかの内側で、紫乃が警戒を強める。


塚原も道路の先を睨み、腰の刀へ手を添えた。


「ワシにも何者かの気配は捉えられぬ。じゃが、油断するでない。四ノ火とやらが、どのような術を使うのか確認できぬ」


「でも、迎えが来るなら助かるだろ」


春馬の言葉に、りかが眉をひそめる。


「知らない人の車に乗るつもり?」


「ここで凍えるよりはいい。四宮が俺たちを殺すつもりなら、わざわざ住所を送る必要もないだろ」


「それは、私たちをどこかへ連れていきたいからかもしれないよ」


「どっちにしても、四宮には会わなきゃいけない」


春馬の答えを聞き、りかは諦めたように息を吐いた。


一人で行かせるという選択肢は、最初からない。


車内のデジタル時計が午前六時八分へ切り替わる。


その瞬間、県道の先に二つのライトが現れた。


朝靄を押し分けるように、黒い大型車が近づいてくる。


「本当に四分だ……」


ひろしの顔から、わずかに血の気が引いた。


黒い車は壊れた車両の前で静かに停車した。


運転席から降りてきたのは、灰色のスーツを着た中年の男性だった。


男は血まみれの春馬を見ても驚かず、三人の前で深く頭を下げる。


「赤井春馬様ですね。四宮から、皆様を病院へお連れするよう申しつけられております」


「様?」


春馬は自分を指さした。


「人違いじゃないですか? 俺、今まで様なんて呼ばれたことないですけど」


「氏名と年齢、外見も一致しています。人違いではありません」


「外見まで聞いてるのかよ……」


ひろしが不審そうに男を見つめる。


「四宮千景に会ったことはあるんですか?」


「ありません」


「じゃあ、どうして言うことを聞いてるんです?」


「報酬を先に受け取っております」


男は一切悪びれずに答えた。


「娘の大学進学には金がかかりますので」


「正直すぎるだろ」


春馬が思わず漏らすと、男は無表情のまま後部座席の扉を開けた。


「車内には救急箱があります。病院にも連絡済みです。壊れた車についても、修理業者が到着する手配となっております」


「そこまで準備してるのか……」


ひろしは自分の車と、目の前の黒い車を交互に見た。


「修理代は?」


「すでに支払われています」


「四宮、怖いけどいい奴なのか?」


「金で判断するでない」


塚原が呆れたように言い放つ。


しかし、その姿は運転手には見えていない。


ひろしは返事をせず、春馬を支えて車へ乗せた。


りかも春馬の隣へ座る。


塚原は車の外に立ったまま、内部を用心深くのぞき込んでいた。


「何してるんだよ。乗らないの?」


春馬が声をかけると、塚原は気まずそうに目をそらした。


「ワシは乗らずともついて行ける」


「じゃあ、走る?」


「乗る」


即答だった。


「昨日も思ったけど、車好きだろ」


「好いてなどおらぬ。この鉄の箱が、いかなる仕組みで動いておるのか見極めているだけじゃ」


「今、ちょっと嬉しそうだったけど」


「黙れ」


春馬の隣へ塚原が座る。


黒い車は、朝靄の残る県道を病院へ向けて走り始めた。



一月一日、午前六時三十四分。


春馬たちは、麓の総合病院へ到着した。


正月の早朝にもかかわらず、救急入口には医師と看護師が待機していた。


春馬はそのまま処置室へ運ばれ、右肩、左脇腹、右太腿の傷を縫合された。


いずれも深い傷だったが、主要な血管と内臓だけは不自然なほど正確に外れている。


「三か所とも、あと数センチずれていたら命に関わっていました」


治療を終えた医師は、困惑した表情で告げた。


「本当に、山で転んでできた傷ですか?」


ベッドへ横たわった春馬は、一度だけ天井を見上げた。


「山に、すごく尖ったものが三つありまして」


「同じ深さで、同じ角度に?」


「自然って、不思議ですよね」


「警察へ連絡します」


「待ってください」


隣にいたひろしが慌てて割って入った。


結局、三人は「古い資材置き場へ入り、突き出していた金属片で負傷した」と説明した。


医師が信じた様子はなかった。


それでも、今は治療が優先された。


りかの腹部にも三冬に打たれた痕が残っていたが、骨や内臓に異常はない。念のため検査を受けたあと、春馬と同じ病室で休むことになった。



午前八時四十分。


春馬は白い天井を見上げて目を覚ました。


窓から差し込む朝日が、病室の床へ細長く伸びている。


右肩から脇腹へかけて、重い痛みが残っていた。無意識に体を起こそうとすると、右手が何かに引かれる。


ベッド脇の椅子で、りかが眠っていた。


両手で春馬の右手を握り、ベッドへ額を預けている。


長い髪が頬へかかり、目元には泣いた痕が残っていた。


春馬は起こさないように、ゆっくりと手を抜こうとした。


その瞬間、眠っているりかの指に力が入る。


「行かないで……」


かすれた声だった。


悪夢を見ているのか、細い肩が震えている。


「春馬……消えないで……」


自分の名前を呼ばれ、春馬は動けなくなった。


りかは自分の意識へ入り、塚原の記憶にのみ込まれかけていた春馬を助け出した。


あの時、伸ばされた手を握ってくれなければ、春馬という人間は消えていたかもしれない。


「行かないよ」


聞こえているかはわからない。


それでも春馬は、小さな声で答えた。


りかの表情から、少しだけ力が抜けた。


「今の言葉、忘れるでないぞ」


窓際に立っていた塚原が、朝日を背にして春馬を見ている。


「起きてたの?」


「ワシは眠らぬ」


「便利だな」


何気なく答えた春馬だったが、塚原の寂しそうな横顔を見て口を閉じた。


眠らないのではない。


眠れない。


四百年間、空腹も眠気もない代わりに、誰かと食事をすることも、疲れた体を休めることもできなかった。


誰にも姿を見られず、声も届かない時間の方が長かったはずだ。


「なあ、塚原」


春馬は、眠っているりかの手を握り返したまま尋ねた。


「翡翠が言ってたこと、覚えてる?」


「千人を殺した者を、ワシが解き放ったという話か」


塚原は窓の外へ目を向けた。


病院の駐車場では、何も知らない人々が普段どおり行き交っている。


「思い出そうとすれば、燃える村が見える。門下生の骸、紫色に光る石。そして、誰かの背中じゃ」


「誰の背中?」


「確認できぬ」


「そいつに何かしたのか?」


しばらく沈黙したあと、塚原は自分の右手を見つめた。


「ワシは、その者へ刀を渡した」


「何のために?」


「わからぬ」


声が震えていた。


塚原は記憶がないことよりも、自分が恐ろしい過去を思い出すことを怖がっている。


「翡翠の申したことが真実ならば、ワシが全ての元凶である可能性もある」


「そうかもな」


春馬が否定しなかったことで、塚原の目がわずかに揺れる。


「お主も、ワシを疑うのか」


「疑ってる」


春馬は迷わず答えた。


塚原が目を伏せる。


その姿を見ながら、春馬は言葉を続けた。


「だから、一緒に確かめる」


「何?」


「何もわからないのに信じるって言う方が、嘘っぽいだろ。もし塚原が悪いことをしたなら、ちゃんと怒る。やってないなら、一緒に犯人を見つける」


「ワシが千人を殺した者を解き放っていたとしてもか」


「その時は、その責任も半分貸せよ」


春馬は自由になっている左手を、塚原へ差し出した。


「体は貸してるんだから、後悔も責任も半分。昨日、そう言っただろ」


「後悔するぞ」


「その時は、半分そっちに返す」


あまりにも勝手な言い分に、塚原はしばらく言葉を失っていた。


やがて、触れることのできない手を春馬の左手へ重ねる。


「本当に、勝手な男じゃな」


「お互い様だろ」


「半分じゃないよ」


突然聞こえた声に、春馬が右側を振り返る。


眠っていたはずのりかが、薄く目を開けていた。


「起きてたの?」


「今、起きたところ」


「絶対聞いてただろ」


春馬の疑いを無視し、りかは握っていた右手へさらに力を込めた。


「私と紫乃もいるから、四分の一。塚原さんが背負ってるものを、春馬だけに半分も渡したくない」


「妾まで勝手に入れるでない」


口では不満を言いながらも、りかの内側にいる紫乃の声は、どこか嬉しそうだった。


病室の奥にあるソファから、掛けられていた毛布が持ち上がる。


「俺を入れたら五分の一だろ」


寝癖だらけの頭を出したひろしが、眠そうな目で三人を睨んだ。


「起きてたのかよ」


春馬が驚くと、ひろしは大きなあくびをしながら上半身を起こした。


「お前らが朝から重い話をしてるから、寝たふりしてたんだよ。入るタイミングがわからなくなっただろ」


「でも、ひろしは普通の人だぞ」


「仲間から外したら、車の修理代を全部お前に払わせる」


「そういう時だけ仲間を主張するなよ」


病室に、久しぶりの笑い声が響いた。


塚原は三人の姿を見つめながら、ほんのわずかに口元を緩める。


四百年間、一人で背負い続けてきた罪。


まだ何一つ解決していない。


それでも今だけは、その重さが少し軽くなった気がした。



午前九時四十四分。


春馬たちは病院の正面玄関前にいた。


医師からは、当然ながら安静を命じられている。


右肩と脇腹には包帯が巻かれ、歩くと右太腿の傷が痛む。そのため春馬は、ひろしに押される車椅子へ座っていた。


「俺たち、完全に怒られるからな」


玄関を抜けたひろしが、何度目かわからない忠告をする。


「昼までには戻るって言ったんだろ?」


「りかちゃんが看護師さんに言っただけだ。外出許可は出てない」


「無断じゃないなら大丈夫だろ」


「外出を宣言しただけで許可されたと思うな」


りかは不安そうに病院を振り返った。


「四宮さんに会ったら、すぐ戻るからね。春馬の顔色が悪くなったら、話の途中でも帰るから」


「わかったよ」


「今の返事、軽い」


「ちゃんとわかったって」


「なら、私の顔を見て言って」


りかが車椅子の前へ回り込む。


「わかりました」


春馬が目を合わせて答えると、りかはようやく道を空けた。


玄関前には、県道へ迎えに来た黒い車が待っている。


後部座席へ乗り込んだ春馬は、表示された時刻を見て首をかしげた。


「九時四十四分。四が二つある」


「偶然ではなかろう」


塚原が車内の時計を見つめる。


「数字が重なる時、火人と現世の結びつきは強くなる。四ノ火がこの時刻を選んだのならば、何らかの意味があるはずじゃ」


「一月十一日の十一時十一分も、同じ理由なのかな」


りかの問いに、紫乃が低い声で応じる。


「十一ノ火が最も強く現世へ干渉できる時を選んだのであろう。日付と時刻に十一が重なるほど、門を開く力も増す」


「あと十日か……」


ひろしが窓の外へ目を向ける。


正月を迎えた街では、家族連れが神社へ向かって歩いている。


母親の手を握る子供。


笑い合う若い男女。


店先で新年の挨拶を交わす人々。


一月十一日になれば、その全員が火人の器にされるかもしれない。


耐えられない者は、魂を焼かれて死ぬ。


だが、誰もその未来を知らない。


「止めよう」


春馬が静かに口を開いた。


ひろしが窓から視線を戻す。


「何を急に言ってんだ?」


「あの人たち、何も知らないから。知らないまま巻き込まれて死ぬなんて、嫌だろ」


「方法もわからないぞ」


「だから、方法を知ってる奴に会いに行くんだよ」


「そいつが敵だったら?」


「その時考える」


ひろしは大きく息を吐いた。


「少しは先に考えろよ」


黒い車は街を抜け、山間部へ入った。


やがて、木々の向こうに古い洋館が見えてくる。


黒い屋根。


ひび割れた石壁。


閉ざされた窓。


長く使われていない廃屋のように見える。


しかし屋上には複数のアンテナが立ち、壁面には真新しい監視カメラが取りつけられていた。


車が門の前へ到着する。


運転手が何もしていないのに、黒い鉄門が左右へ開いた。


「帰りたくなってきた」


ひろしが本音を漏らす。


「病院へ行けって言った時は、あんなに強気だっただろ」


「病院までの話だよ。どう見ても、入ったら出られない建物じゃん」


車が敷地へ入った瞬間、春馬の右手にある「一」の印が熱を帯びた。


続いて、りかの左手にある「二」の印も紫色に輝く。


洋館の二階。


中央の窓に、一人の青年が立っていた。


細い銀縁眼鏡。


黒い服。


右手を覆う黒い手袋。


九条翡翠が霧の中に映し出した、四宮千景と同じ姿だった。


四宮は腕時計へ目を落とす。


時刻は、午前九時四十四分四十四秒。


「到着誤差、零秒」


窓越しに呟いた直後、春馬たちの背後で鉄門が閉じた。



洋館の扉を開けると、広い吹き抜けの玄関ホールが現れた。


床一面に、何百枚もの白い紙が並べられている。


その一枚一枚には、名前、日付、時刻、数式のようなものが記されていた。


壁には無数の時計がかけられている。


東京。


ロンドン。


ニューヨーク。


都市名に交じって、「幻真層」と書かれた時計があった。


その時計だけは、文字盤に針がない。


「趣味悪いな……」


ひろしが小声で呟く。


「同感です」


二階から声が返ってきた。


階段を下りてきたのは、先ほど窓に立っていた青年だった。


年齢は二十代後半ほど。


細身で、血色の薄い顔には感情らしいものがほとんど浮かんでいない。


「この建物を選んだのは、私ではありません」


四宮は階段を下りきると、春馬たちから四歩離れた位置で止まった。


その距離すら、最初から計算されていたように正確だった。


「四ノ火、四宮千景で間違いないか?」


塚原が前へ進み出る。


四宮の目は、春馬ではなく塚原を正確に捉えた。


「一ノ火・塚原一。二ノ火・二階堂紫乃。そして、その器となった赤井春馬、松永りか」


四宮の視線が最後にひろしへ向く。


「森田ひろし。火人との接触が確認されていない一般人。あなたは帰ることを推奨します」


「会って最初の言葉がそれかよ」


ひろしが不機嫌そうに眉を寄せる。


「俺がいると何か困るのか?」


「戦闘能力を持たず、幻真層への耐性も確認できません。同行すれば、全体の生存率を下げます」


「こいつがいなかったら、俺たちはここまで来られなかった」


春馬がすぐに言い返した。


「運転なら、他の者にもできます」


「夜中に何も聞かず迎えに来て、捕まっても俺を逃がそうとして、刀を向けられても残る奴は、そんなにいない」


四宮は春馬の顔を見つめた。


「感情による評価です」


「仲間を数字だけで決める奴より信用できる」


二人の視線がぶつかる。


しばらく沈黙したあと、四宮は胸元から小さな手帳を取り出した。


何かを書き込み始める。


「何を書いてるんだ?」


春馬が尋ねると、四宮は顔を上げないまま答えた。


「赤井春馬。合理性に欠ける。周囲の人間へ、危険な自己犠牲を選択させる傾向あり」


「会ってすぐ悪口を書くなよ」


「同時に、集団の行動率を上昇させる可能性があります」


四宮の視線が、りかへ移る。


「本来なら逃走を選択する人間が、あなたのために危険な場所へ残っている」


「違います」


りかが静かに否定した。


声は大きくない。


それでも、四宮の手を止めるには十分な強さがあった。


「春馬が私たちを残らせているんじゃありません。私たちが、自分で残ることを選んでいます」


「結果は同じです」


「同じじゃないです」


りかは自分の左手を胸元へ引き寄せた。


「誰かに選ばされることと、怖くても自分で選ぶことは全然違います。数字だけを見ても、その人が何を怖がって、それでも何を守りたかったのかまではわからないと思います」


四宮は数秒間、りかを見つめた。


やがて手帳へ新しい文章を書き加える。


「松永りか。精神状態に大幅な変化を確認」


「観察しないでください」


「それはできません」


「やっぱり感じ悪いな」


春馬が呆れた声を漏らす。


「すでに森田ひろしから聞きました」


表情一つ変えない四宮へ、塚原が歩み寄った。


「九条翡翠の言葉を信じるなとは、どういう意味じゃ」


四宮は手帳を閉じた。


「九条翡翠は、十一ノ火によって幻真層へ囚われています。彼女の意識は、すでに霜月士郎から干渉を受けている可能性がある」


「翡翠の言葉が、十一ノ火によって作られたものだと言うのか?」


春馬の問いに、四宮は首を横へ振る。


「確認できません」


「だったら、信じるなって言い切るなよ」


「真偽を判定できない情報を、行動の基準にすべきではありません」


「四宮のメールだって、本当か確認できなかっただろ」


春馬に言い返され、四宮は初めて黙った。


その沈黙を破るように、塚原が低い声で尋ねる。


「九条翡翠は、千人を殺した者をワシが解き放ったと申した。その者が誰なのか、貴様は知っておるのか」


四宮はすぐには答えなかった。


黒い手袋に覆われた右手を、左手で押さえる。


「全てを話す前に、確認する必要があります」


「何をだよ」


春馬が問い返した瞬間、四宮は右手の手袋を外した。


手の甲には「四」の印が刻まれている。


だが、春馬やりかの印とは明らかに違う。


紫色ではない。


印全体が黒く染まり、周囲の皮膚へ細い亀裂が走っている。


その亀裂から、紫色の光が弱々しく漏れていた。


「その手……」


りかが息をのむ。


「私には、残された時間がありません」


四宮は自分の手を見つめたまま告げた。


「一月四日、午前四時四十四分。それまでに新たな器を得られなければ、私は現世から消滅します」


「器を探してるのか?」


春馬の表情が険しくなる。


「誰かの体を奪うつもりなら、協力できない」


「私も、その方法は望んでいません」


「じゃあ、どうするんだ」


四宮は春馬とりかを交互に見た。


「一ノ火と二ノ火が見せた同調。二つの魂が、互いの意識を保ったまま一つの体に存在する現象。それが他の火人にも再現できるのか確認します」


「私たちを実験するつもりですか?」


りかが警戒して一歩下がる。


「必要な検証です。幻真層へ到達するには、最低でも四つの火が必要になる」


「四つ?」


「一は道を開き、二は二つの層を分ける。四は幻真層までの距離を測る」


四宮はそこで言葉を止めた。


「そして、残る一つは?」


春馬が尋ねる。


四宮は、壁に掛けられた針のない時計を見上げた。


「九ノ火です」


洋館の空気が張り詰める。


「九条翡翠は、幻真層の内部から現世へ意識を具現化できる。彼女の力がなければ、門の位置を特定できません」


「だったら、翡翠を信じなきゃ始まらないだろ」


春馬の指摘にも、四宮は冷静な表情を崩さなかった。


「彼女の力は必要です。しかし、言葉まで信じる必要はない」


「何だよ、それ」


「人は嘘をつきます。火人も同じです」


四宮の視線が、塚原へ向く。


「特に、罪を抱えた者は」


塚原の手が刀の柄へ触れる。


「ワシが嘘をついておると申すか」


「あなたは嘘をついていません」


意外な答えだった。


四宮は塚原の目を真っすぐ見つめる。


「あなたの記憶そのものが、誰かに消されています」


「誰にじゃ」


「確認できません」


塚原の額へ青筋が浮かぶ。


「貴様、何一つ確認できておらぬではないか!」


「確認できない事実を、推測で断定するよりは正確です」


「その物言いが癇に障るのじゃ!」


塚原の怒声が洋館へ響く。


春馬は車椅子の上で肩を震わせ、笑いをこらえていた。


「何がおかしい」


塚原が振り返る。


「相性悪そうだなと思って」


「このような血の通わぬ男と、誰が合うものか!」


「私の肉体には、現在も血液が流れています」


四宮が真顔で訂正する。


「そういう意味ではない!」


紫乃がりかの内側で、愉快そうに笑った。


緊張に包まれていた空気が、ほんの少しだけ緩む。


しかし四宮だけは笑わなかった。


塚原の怒りも、春馬の軽口も、りかと紫乃の反応も、全て観察するように見つめている。


やがて四宮は、床に並べられた紙の一枚を拾い上げた。


そこには、赤井春馬の名前と、生年月日が記されている。


「一つ、確認したいことがあります」


四宮は紙を春馬へ向けた。


「あなたは、本当に一ノ火の器ですか?」


「何を言ってるんだよ。手に一の印があるだろ」


春馬が右手を見せる。


紫色の「一」が、手の甲に残っている。


四宮はその印へ近づき、眼鏡の奥の目を細めた。


「この印は、塚原一との契約によって現れたものではありません」


塚原の表情が変わる。


「どういう意味じゃ」


「あなたが赤井春馬へ入る以前から、この印の土台は存在していました」


四宮は部屋の奥にあるモニターを操作した。


画面へ、春馬の右手を拡大した画像が表示される。


紫色に輝く「一」の下。


肉眼では見えない場所に、円形の紋章が浮かんでいる。


それは天元零士の手に刻まれた「零」とよく似ていた。


だが、円の中央には一本の縦線が走っている。


零の中にある、一。


「何だよ、これ……」


春馬は自分の右手と画面を何度も見比べた。


「確認できる記録の中に、同じ紋章は存在しません」


四宮の声から、初めてわずかな迷いがにじむ。


「だから、あなたは私の計算に入っていない」


「それが、天元の言ってたことなのか?」


天元が話していた。


最初から選ばれていたのは、塚原ではない。


赤井春馬だ。


その瞬間だった。


洋館に設置された全ての時計が、同時に止まる。


カチッ。


秒針の音が消えた。


窓の外で鳴いていた鳥の声も、風に揺れていた木々の音も途絶える。


静かすぎる。


世界そのものが、息を止めたようだった。


「伏せてください」


四宮の声が低くなる。


「何?」


意味を理解できず、春馬が聞き返す。


四宮は右手を床へつき、今度は怒鳴った。


「全員、今すぐ伏せろ!」


床に並んでいた何百枚もの紙が、一斉に宙へ舞い上がる。


紙は春馬たちの周囲を円状に回り、巨大な壁を作った。


次の瞬間。


天井から、金色の光が落ちた。


轟音とともに床が砕ける。


四宮の紙がなければ、春馬たちは光の直撃を受けていた。


ひろしが車椅子ごと春馬を引き倒し、りかは二人をかばうように覆いかぶさる。


塚原と紫乃が同時に前へ出た。


紫色の炎が、金色の光を押し返す。


「何者じゃ!」


塚原が刀を抜き、崩れた天井を睨む。


返事の代わりに、二階のモニターが一斉に点灯した。


全ての画面に、白い髪の青年が映し出される。


天元零士。


右手には数字の印がない。


手のひらの中央で、丸い「零」が金色に輝いていた。


「やっと会えたな」


天元は春馬を見つめ、古い友人へ語りかけるように笑った。


「赤井春馬」


「お前……何者だよ」


春馬は痛む右肩を押さえながら、割れた床の上で体を起こした。


「私は天元零士…ま、そのうち思い出す…」


「そういうことを聞いてるんじゃない。火人なのか? 十二なのか? 何で俺を知ってる?」


「質問が多いな」


楽しそうに笑う天元とは対照的に、四宮の顔から余裕が消えている。


「彼の言葉を聞いてはいけません」


「冷たいな、千景」


天元が肩をすくめる。


「少し前まで、一緒に世界を救おうとしていた仲だろ」


春馬たちの視線が、四宮へ集まった。


「一緒に?」


「違います」


四宮は短く否定した。


「彼の目的を確認するため、近くで行動を観察していただけです」


「計画の内容が面白い。強さにも興味がある。そう言って俺のそばにいたじゃないか」


天元の言葉に、四宮は答えなかった。


その沈黙が、完全な否定ではないことを物語っている。


「四宮。お前、何を隠してるんだ?」


春馬が問いかける。


四宮は唇を結び、床に散らばった紙を握り締めた。


「今は、彼をここから排除することが最優先です」


「相変わらず、都合が悪くなると計算へ逃げるんだな」


天元の金色の瞳が細められる。


「九条翡翠を信じるな。塚原一を疑え。感情を捨て、数字だけを見ろ。そうしておけば、自分が間違えた時も傷つかずに済む」


「黙れ」


四宮の右手に刻まれた「四」が、黒く染まる。


「四百年前、最初の門を開く場所を計算したのは誰だった?」


「黙れ!」


「千人が死ぬ未来を見落としたのは、誰だ?」


塚原の脳裏に、燃える村がよみがえる。


紫色の石。


無数の門下生の骸。


誰かへ渡した一本の刀。


そして、炎の中を舞う大量の紙。


それらの紙には、今この洋館にあるものと同じ数式が書かれていた。


「四宮……」


塚原の低い声に、四宮の肩がわずかに動く。


「貴様、あの村におったのか」


四宮は答えない。


「答えよ!」


塚原の刀が、四宮の喉元へ突きつけられた。


それでも四宮は逃げなかった。


冷静な仮面が崩れ、初めて苦しそうに顔をゆがめる。


「そのとおりです」


かすれた声だった。


「四百年前、私は計算を誤った」


天元の笑い声が、全てのモニターから響く。


「あなたが千人を殺した者を現世へ解き放ったのなら――」


四宮は塚原の刃を見つめた。


右手の「四」に新たな亀裂が走り、紫色の血が床へ落ちる。


「その者が現世へ渡る道を作ったのは、私です」


塚原の刀を握る手が震える。


春馬は四宮の顔を見つめた。


感情を否定し、全てを数字として扱っていた男。


その瞳には、四百年間消えなかった後悔が宿っていた。


「さあ、答え合わせを始めよう」


天元が右手を画面へ押し当てる。


その瞬間、春馬の右手から「一」の印が消えた。


下に隠されていた円形の紋章が、皮膚の上へ浮かび上がる。


零の中にある、一。


「熱い……!」


春馬が右手を押さえる。


紫色ではない。


色のない透明な炎が傷だらけの体から立ち上り、洋館の天井へ到達した。


「春馬!」


りかが手を伸ばす。


しかし透明な炎に触れた瞬間、激しい衝撃に弾き飛ばされた。


「りか!」


春馬が駆け寄ろうとする。


だが、体が動かない。


自分の意思とは関係なく、右手が塚原へ向かって伸びていく。


「ワシが抑える!」


塚原が春馬の体へ戻ろうとする。


ところが透明な炎に阻まれ、春馬へ近づくことができない。


「これは、ワシの火ではない……」


塚原の顔に、明確な恐怖が浮かんだ。


「春馬から離れよ! 何者じゃ!」


返事は、春馬の頭の中から聞こえた。


低い男の声。


塚原でも、天元でもない。


聞いたことのない声なのに、なぜか遠い昔から知っていたような感覚がある。


――遅かったな。


「誰だ……」


春馬が問いかける。


――四百年も待たせおって。


「俺は、お前なんか知らない」


――お主が知らずとも、ワシは知っておる。


春馬の右目が、紫色から金色へ変わる。


その瞳を見た瞬間、塚原の記憶に封じられていた光景が一つだけ戻った。


燃える村。


紫色の石の前に立つ、一人の男。


塚原が自ら刀を手渡した相手。


顔だけが黒く塗り潰され、どうしても思い出せなかった男。


その男の右目も、春馬と同じ金色に輝いていた。


「まさか……」


塚原の唇が震える。


透明な炎に包まれた春馬が、ゆっくりと顔を上げた。


口元へ浮かんだ笑みは、春馬のものではない。


「久しいな、塚原一」


春馬の口から、知らない男の声が発せられた。


塚原は刀を構えたまま、一歩後ずさる。


「貴様は……誰じゃ」


男は金色の瞳を細めた。


「ワシを忘れたか」


透明な炎が洋館を包み込む。


「お主がこの世へ解き放った――」


春馬の右手に、見たことのない刀が現れた。


白い刃。


黒い柄。


鍔の中央には、零の中へ一本の線を刻んだ紋章。


「最初の一ノ火じゃ」


――第九話・完――



第九話をお読みいただきありがとうございます。四ノ火・四宮千景は、幻真層へ至る道を知る一方、四百年前に千人の死へつながる計算を行った当事者でした。そして春馬の「一」の印の下から現れた、未知の紋章。塚原とは異なる「最初の一ノ火」が目覚め、春馬の出生と赤井家の謎も動き始めます。

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