第十一話 最初に出会ったのは俺だった
病院地下で六ノ火が選んだのは、火の力を持たないひろしでした。りかと最初に出会ったのは春馬ではなく、ひろしです。しかし、後から二人の間へ入った春馬は、いつしかりかにとって最も大切な存在になっていました。誰にも話せなかった嫉妬と罪悪感を、六ノ火が暴き始めます。
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第十一話「最初に出会ったのは俺だった」
一月一日、午前十時五十二分。
「我の器となれ」
六ノ火の声が地下二階を震わせた瞬間、ひろしの右手に浮かんだ六本の黒い筋が、手首を越えて腕へ伸び始めた。
足元から立ち上った黒い影は両足へ絡みつき、逃げようとするひろしの体を巨大な狼のもとへ引きずっていく。靴底が床を擦り、廊下へ甲高い音を響かせたが、どれほど踏ん張っても影の力を止めることはできなかった。
「離せ!」
ひろしは壁の手すりへ手を伸ばしたものの、指先が触れる寸前で体を引かれ、その場へ膝をついた。床へ打ちつけた痛みさえ遠く感じるほど、右手から流れ込んでくる熱と、頭の中を探られる不快感が強くなっている。
春馬は車椅子の肘掛けをつかみ、立ち上がろうとした。右太腿の傷が激しく痛み、包帯の下から再び血がにじんだが、それでも目の前で友人が連れ去られる姿を見ていられなかった。
「ひろしから離れろ!」
「座っておれ、春馬!」
塚原が叫ぶより早く、春馬は車椅子から腰を浮かせた。しかし右脚に力が入らず、体が前へ崩れかける。その肩をりかが抱き止め、無理に進もうとする春馬を車椅子へ押し戻した。
「駄目だよ。今の春馬が立ったら、傷がまた開いちゃう」
「でも、ひろしが!」
「私も助けたいよ! だからこそ、今は勝手に動かないで!」
りかの声には、ひろしを失う恐怖と、春馬まで倒れることへの不安が入り交じっていた。彼女は春馬の肩を支えたまま廊下の奥を見つめ、黒い影に捕らえられたひろしへ必死に呼びかける。
「ひろし君、こっちを見て! その狼の声を聞いちゃ駄目!」
自分の名を呼ぶ声が聞こえ、ひろしは顔を上げた。りかの表情には隠し切れない心配が浮かび、その視線は真っすぐ自分へ向けられている。
そのはずなのに、胸の奥には喜びより先に、苦い感情が生まれた。
今は自分を見ている。
けれど、危険が去れば、りかの目は再び春馬を追うのだろう。
そんな考えを抱いた自分が嫌になり、ひろしは唇を強く噛んだ。
「違うんだ……」
何を否定したいのか、自分でもわからなかった。りかを心配させたいわけではなく、春馬を嫌いになりたいわけでもない。ただ、ずっと言えなかった思いだけが、六ノ火に触れられたことで抑え切れなくなっていた。
狼の紫色の瞳が細められ、ひろしの葛藤を味わうように喉を鳴らす。
「そうじゃ。その感情を隠す必要はない。お主は初めから、その娘を友へ渡すつもりなどなかった」
「勝手なことを言うな……」
「では、なぜ苦しむ?」
六ノ火が一歩進むと、巨大な爪がコンクリートの床へ食い込み、四本の深い亀裂を刻んだ。黒い影はひろしの胸元まで這い上がり、押し殺してきた記憶を無理やり引きずり出していく。
春馬より先に、りかと出会ったのはひろしだった。
まだ春馬がりかの名前さえ知らなかった頃から、それは一夜の過ち…お互い酒も入っていた。朝目覚めた時気まずそうに服を着て「やば!バイトおくれちゃう!私先いくね!」そう言ってホテルのドアを開けるりかの後ろ姿。ひろしはあの日からずっとりかを思っていた。その後もりかたと顔を合わせる機会は何度もあったがあの日の様な展開もなければそれに触れる話しもお互いにしなかった。りかは天然だし、誰とでも親しくするタイプではあった。
二人だけで話せる時間があり、りかが笑えば、それだけで一日が少し良いものになった。いつか自分の気持ちを伝えようと思いながら、関係が壊れることを恐れ、ひろしは何度も言葉をのみ込んだ。
その後、春馬と遊んでいると、「りかちゃーん!」春馬が反対側の歩道を歩く女性にてを振る。ひろしは息をのんだ。春馬とりかは知り合いだったのだ。
「紹介するわ!俺の彼女候補のりかちゃん!」目の前の状況にりかとひろしは数秒の空白の後「はじめまして!」気まずい空気を避ける為お互いに空気を読んだ。
そのままカラオケに行く事になり気まずさをかき消す為に全力で歌った。何時が過ぎただろう…2人がトイレに行って戻って来ない。ドアわわ開けて右の突き当たりがトイレ
「いつまでトイレなんだよー1人で歌うの寒いってー」ドアを開けてトイレの方をみる…そこにはりかと春馬がキスしている姿が見えた。慌ててドアを閉めソファーに座る。胸の奥をギュッと掴まれて息ができない感覚…苦しい…誰が悪い訳でもない。それは至って自然な流れだった。春馬は女好き、りかちゃんは天然で雰囲気に流されやすい…あの日だって…
ガチャ!
「ひろしー!なんで歌ってないんだよー!」春馬が笑顔で抱き付いてきた。「歌ったばっかりだって!春馬歌えよ!」
俺は。
俺は…
必死に笑って必死に隠した。
それが一番いい…そう自分に思い込ませてたんだ。
初めは三人で笑っていられた。
ひろしがりかを誘い、そこへ春馬が加わることもあれば、春馬が思いつきで二人を連れ出すこともあった。ひろしにとって春馬は大切な友人であり、りかもまた失いたくない存在だったから、三人でいられる時間を壊したくなかった。
だが、いつからか変わっていった。
りかは何かあれば春馬を頼り、危険な時には春馬の名を呼び、春馬が傷つけば自分の命まで差し出そうとした。ひろしが最初にりかと出会ったという事実は変わらないのに、彼女の心の中で最も近い場所には、いつの間にか春馬が立っていた。
「違う……」
ひろしは何度も首を横へ振った。六ノ火が見せているものは偽りではない。だからこそ、否定しなければ自分の中に隠してきた醜い感情まで、りかと春馬へ知られてしまう。
「何が違うのじゃ?」
狼の声が耳元で響いた。
「先に出会ったのは、お主であろう。娘の優しさを知り、笑顔を見て、長く思い続けてきたのもお主じゃ。それなのに、後から現れた友に全てを奪われた。恨んで当然ではないか」
「春馬は、何も奪ってない」
ひろしは苦しげに答えた。右手の黒い筋は肘へ迫り、息をするたびに胸の奥から何かを吸い取られていく。
「春馬は、りかちゃんが俺と先に知り合ってたことも、俺が何を考えてたかも知らなかった。俺が何も言わなかっただけだ」
「言わなかったのではない。言えなかったのであろう?」
六ノ火の言葉が、ひろしの最も触れられたくない部分へ食い込んだ。
思いを告げて拒まれることが怖かった。
りかとの関係が変わり、二度と以前のように話せなくなることが怖かった。
春馬に知られ、気を遣われることも耐えられなかった。
だから何も言わず、いつか自然に自分を選んでくれるのではないかと期待していた。その間にも、りかと春馬の距離は少しずつ縮まっていた。
ひろしは何も選ばなかった。
選ばなかった結果を、誰にも知られない場所で悔やみ続けてきた。
「お主が先に出会った。その娘の隣は、元よりお主の場所であった。それを友が奪ったのじゃ」
狼の声が甘く低くなり、ひろしの心へ入り込んでくる。
「妬め。憎め。恨め。その全てを我へ渡せば、お主は苦しまなくて済む」
ひろしの足元に広がった影の中へ、三人の記憶が映し出された。
りかと二人で話していた頃。
そこへ春馬が現れ、三人になった日。
春馬のくだらない冗談に、りかが声を上げて笑った場面。
少し離れた場所に立っていたひろしは、その笑顔を見て嬉しいと思う一方、自分だけではあれほど笑わせられなかったことを悔しく感じていた。
県道で春馬が斬られた時には、本気で死なないでほしいと願った。それでも、りかが泣きながら春馬を抱き締めた瞬間、胸のどこかに痛みが走った。
友人の無事を願いながら、その友人へ向けられるりかの思いに嫉妬した。
その矛盾が、ひろし自身を苦しめていた。
「俺は……」
言葉を続けられず、ひろしがうつむく。その様子を見たりかは、今にも駆け出しそうになったが、三冬が左手の刀を横へ伸ばし、彼女の前へ紫色の刃を置いた。
「行かない方がいいですよー。今、近づけば、あなたの感情まで六ノ火に食べられます」
「でも、ひろし君が苦しんでるんです。あの狼は、ひろし君の気持ちを勝手に――」
「勝手に暴いているだけではありません」
壁へ背中を預けた三冬は、食いちぎられた右腕を押さえながら立ち上がろうとした。着物から落ちた血が床へ広がり、足元へ小さな水たまりを作っている。
「あれは、本人が見ないようにしてきた感情を大きくしているんです。誰かが外から否定しても、本人が手放さない限り止まりません」
「では、ひろし自身に打ち勝たせるしかないということか?」
塚原は刀を構えたまま六ノ火の動きを見ていた。今すぐ斬りかかりたい気持ちはあるものの、狼から伸びた影とひろしの体がつながっている。六ノ火を傷つけた時に、ひろしまで無事でいられる保証がなかった。
三冬は青白い顔で笑い、傷の痛みを隠すように息を整えた。
「そこが面倒なんですよねえ。六ノ火は感情を食べますけど、無理やり器を奪うことはできない。本人が自分の感情を受け入れ、力を欲した時に初めて、魂へ入り込めるんです」
「だったら、ひろしが断れば終わるんだろ!」
車椅子から春馬が叫ぶと、六ノ火はゆっくり顔を向けた。紫色の瞳へ映った春馬の姿に、明確な敵意が宿る。
「何も知らぬ者が、容易く口を挟むでない」
狼の前脚が床を踏み砕き、衝撃とともに黒い炎が廊下を走った。塚原は春馬たちの前へ立って刀を振るい、迫る炎を紫色の一閃で切り裂く。
二つに分かれた黒い炎は左右の壁へ激突し、配管と照明をまとめて破壊した。赤い非常灯が激しく明滅し、天井から火花と細かなコンクリート片が降り注ぐ。
その衝撃で春馬の車椅子が後ろへ滑った。りかは取っ手を強く握って転倒を防ぎながら、春馬の肩へ覆いかぶさるようにして破片から守る。
「大丈夫か?」
自分の状態を気にするより先に尋ねた春馬へ、りかは無事だとうなずいた。そのやり取りを、ひろしは黒い影に捕らえられたまま見ていた。
六ノ火の声が、再び頭の奥へ忍び込んでくる。
「見よ。あの娘は、危険の中でも友だけを守っておる。お主の方を見ようともせぬ」
「違う……」
「何が違う?」
「りかちゃんは、俺のことも心配してくれた」
「心配と愛は異なる」
ひろしの右手に刻まれた六本の筋が、さらに黒く染まった。
言い返せなかった。
りかが自分を大切な友人だと思っていることは、ひろしにもわかっている。だが、自分が望んでいるものと同じ気持ちを、りかが返してくれるとは限らない。
その事実を、六ノ火は容赦なく突きつけてくる。
「我を受け入れよ。さすれば、友より強い力を与えよう。今度はお主が前へ立ち、娘を守るのじゃ」
影の中に新たな光景が浮かんだ。
六ノ火の力を得た自分が、巨大な狼の炎をまとい、春馬や塚原でさえ倒せなかった敵を打ち破っている。りかは傷ついた春馬ではなく、ひろしの名を呼びながら駆け寄ってくる。
ずっと欲しかった場所へ、自分が立っている。
「俺にも……守れるのか?」
ひろしの口から漏れた言葉を聞き、春馬の表情が変わった。
「やめろ、ひろし! そいつの力なんか借りるな!」
「お前には、わからないだろ!」
ひろしの声が地下二階へ響き、全員の動きが止まった。
これまで春馬へ向けたことのない、強い怒りだった。声を出したひろし自身も驚いていたが、一度あふれた感情を止めることはできなかった。
「お前は、いつもそうだ。怖いとか無理だとか言いながら、最後には前へ出る。塚原さんの力まで手に入れて、りかちゃんが危なくなったら助けに行ける。でも俺は、後ろから見てることしかできない!」
「そんなことない。お前がいなかったら――」
「車だろ?」
ひろしは自嘲するように笑った。
「俺にできるのは運転して、お前を運んで、救急車を呼ぶことだけだ。俺がどれだけ先にりかちゃんと知り合ってても、結局、りかちゃんが助けを求めるのはお前なんだよ」
春馬は言葉を失った。
ひろしがりかと先に出会っていたことは知っていた。しかし、その時間がひろしにとってどれほど大切だったのか、りかへどのような思いを抱いていたのかまでは考えたことがなかった。
ごめ…春馬が呟く
春馬が謝ろうとした気配を察し、ひろしはさらに声を荒らげた。
「そこで謝るなよ。お前は何も悪くない。りかちゃんが誰を好きになるかも、りかちゃんが決めることだ。そんなことは、俺だってわかってるんだよ!」
怒鳴った声が途中から震え始める。
「わかってるのに、悔しいんだよ。お前が死にそうになったら助かってほしいと思う。でも、りかちゃんがお前を抱き締めて泣いてるのを見ると、苦しくなる。お前を嫌いになれたら楽なのに、友達だから嫌いになれないんだよ!」
六ノ火は満足そうに牙を見せた。黒い影がひろしの胸へ入り込み、右目の色がわずかに紫へ変わり始める。
「それでよい。友を憎めぬのなら、その苦しみごと我へ渡せ」
ひろしの意識が黒い炎へ沈んでいく。
その時、りかが車椅子の取っ手から手を離した。
三冬が止めるより早く、彼女は廊下を駆け、ひろしへ向かって伸びる黒い影の手前まで踏み込んだ。紫乃の警告が意識へ響いていたが、それでも足を止めなかった。
「ひろし君、聞いて!」
ひろしが顔を上げる。紫色へ染まりかけた瞳に、息を切らしたりかの姿が映った。
「私は、ひろし君に最初に出会えたことを忘れてないよ。春馬と知り合う前から、ひろし君がそばにいてくれたことも、ずっと助けてくれたことも忘れてない」
りかは胸の前で両手を握り締めた。曖昧な言葉で希望を持たせることも、ここで気持ちを否定して傷つけることもできなかった。
「今は私が何を言っても、ひろし君を余計に苦しめると思うから」
ひろしの表情が曇る。それでもりかは目をそらさず、自分の気持ちを慎重に言葉へ変えた。
「でも、ひろし君を春馬より下だと思ったことは一度もないよ。戦えないから必要ないなんて思ってない。昨日の夜、ひろし君が車を出してくれなかったら、私は今ここにいなかった。春馬だって助からなかったかもしれない」
「それは、俺じゃなくてもできる」
「ひろし君じゃなきゃ駄目だったよ」
りかは迷わず言い切った。
「何が起きるかわからないのに来てくれた。怖いのに逃げずに残ってくれた。春馬が倒れた時、血を止めて、何度も名前を呼んでくれた。力がなかったから何もできなかったんじゃない。力がなくても、できることを全部してくれたんだよ」
ひろしの右目から、紫色の光がわずかに薄れた。
「お主を哀れみ、つなぎ止めようとしておるだけじゃ」
六ノ火の声が割り込むと、りかは巨大な狼へ顔を向けた。足は震えていたが、紫乃の感情が背中を支え、左手の「二」の印が静かに輝き始める。
「ひろしくんを惑わさないで。貴方は器にしたいだけで何もわかってない。」りかは強い眼差しで六ノ火を見つめた。
小娘が!
狼が牙をむき、りかへ飛びかかろうと前脚へ力を込める。その瞬間、傷だらけの三冬が床を蹴った。
「女性へ向かって怒鳴るのは、感心しませんねえ」
三冬は左手一本で刀を振り抜き、狼とひろしをつなぐ影を斬り裂いた。紫色の刃が黒い影へ食い込んだ瞬間、六ノ火の咆哮が地下二階を揺らす。
完全には切れない。
それでも、ひろしを引き寄せる力が一瞬だけ弱まった。
「春馬君! 今なら引っ張れますよ!」
車椅子へ座った春馬は、ひろしとの距離を見た。立てば傷が開く。りかと交わした約束も破ることになる。
それでも、ひろしへ手が届く位置にはいない。
春馬が肘掛けをつかんだ時、後ろから四宮が車椅子を強く押した。勢いをつけて走り出した車輪が床の破片を跳ね飛ばし、ひろしのそばまで一気に距離を縮める。
「降りる必要はありません。腕を伸ばしてください」
四宮の指示に従い、春馬は左手を伸ばした。ひろしも反射的に手を伸ばし、二人の指先が触れる。
「つかめ、ひろし!」
「簡単に言うなよ……!」
「先にりかと出会ったのは、お前だ。それを俺は変えられない。お前がりかを好きだったことも、気づけなかった」
ひろしの手が迷う。
春馬は目をそらさず、さらに身を乗り出した。
「でも、勝手にいなくなるのは許さない。お前が俺を嫌いでも、俺に嫉妬してても、そんなの全部聞いてから殴り合えばいいだろ!」
「怪我人が殴り合うなよ……」
ひろしの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「俺は、お前を嫌いになりたいわけじゃない」
「だったら戻ってこい。俺はお前を友達から外すつもりないから」
「勝手だな」
「知ってるだろ」
ひろしは春馬の左手を強くつかんだ。
その瞬間、塚原の刀から紫炎が立ち上り、紫乃の力を受け入れたりかの左手からも二本の光が伸びる。四宮が空中へ放った紙は狼とひろしの距離を測り、二人の間に一枚ずつ並んで境界線を作った。
「接続率、六十一パーセント。まだ完全な憑依には至っていません」
四宮が黒い手袋に覆われた右手を握り、紙へ書かれた数式を一斉に書き換える。
「今なら分離できます。ただし、六ノ火が残した印まで消せるかは確認できません」
「印は後じゃ。まず、ひろしを引き戻す!」
塚原の一閃が三冬の斬った箇所へ重なり、黒い影に大きな亀裂を走らせた。続いて紫乃とりかの二ノ火が、ひろしの魂と六ノ火を引き離すように亀裂の両側へ広がっていく。
狼は抵抗するように四本の脚で床を踏みしめたが、三冬が残る力を振り絞って刀を押し込み、春馬も車椅子から落ちそうになりながらひろしの腕を離さなかった。
「我を拒めば、お主は再び無力な者へ戻るぞ!」
六ノ火の声に、ひろしの心が揺れる。
力があれば、次は自分が守れるかもしれない。
春馬の代わりに前へ立ち、りかを助けられるかもしれない。
その誘惑が完全に消えたわけではない。
それでも、ひろしは春馬の手を握り返した。
「俺は確かに、力が欲しい。春馬ばかりが前に出るのも悔しいし、りかちゃんに俺を見てほしいとも思ってる」
ひろしは自分の中にある感情から逃げず、一つずつ認めていった。
「でも、それをお前に食わせるつもりはない。嫉妬も、悔しさも、りかちゃんを好きになった気持ちも、全部俺のものだ!」
ひろしが叫んだ瞬間、黒い影が内側から裂けた。
春馬と四宮が力を合わせてひろしの体を引き戻し、りかは倒れかけた彼を横から支える。六ノ火とつながっていた影は大きく引き裂かれ、狼の額にある「六」の印から黒い血のような炎が噴き出した。
解放された反動で、ひろしはりかの肩へ倒れ込んだ。近すぎる距離に気づき、すぐ離れようとしたが、全身から力が抜けて動くことができない。
「ご、ごめん……」
「今は謝らなくていいから。右手を見せて」
りかはひろしの体を支えながら、黒い筋が刻まれた右手を確認した。六本の筋は腕へ伸びることを止めているものの、皮膚から消えず、心臓の鼓動に合わせるように弱く脈打っている。
四宮はその印へ視線を落とし、冷静な声で状況を伝えた。
「完全な憑依は防ぎました。しかし六ノ火と森田ひろしの接続は残っています。一度選ばれた器とのつながりを、六ノ火が簡単に手放すとは考えにくい」
「つまり、また狙われるってことか?」
春馬が尋ねると、四宮はひろしの右手と狼を交互に見た。
「その可能性は高い。ただし、印がどのような条件で再び進行するかは確認できません」
「また、それですか」
床へ膝をついた三冬が、弱々しく笑った。左手から刀が滑り落ち、金属音を響かせて床へ転がる。
りかが振り返るより早く、三冬の体が横へ傾いた。塚原が支えようと手を伸ばしたが、実体を持たない手はその肩をすり抜ける。
「三冬!」
春馬の叫びと同時に、三冬は血の広がる床へ倒れた。
六ノ火は傷ついた三冬を見下ろしたあと、春馬たちを順番に見つめた。すぐに襲いかかることはせず、額から流れる黒い炎を舌で舐め取るようにして、低く笑う。
「器よ。今は戻るがよい」
その視線は、ひろしだけへ向けられていた。
「お主が力を求める限り、我は何度でも現れる。友を越えたいと願い、愛する娘を己へ振り向かせたいと願った時、右手の印が再び我を呼ぶであろう」
「二度と呼ばない」
ひろしは言い返したが、声から震えを消すことはできなかった。
六ノ火は答えず、巨大な体を黒い炎へ変えていく。狼の輪郭が崩れ、天井の配管や壁の亀裂へ吸い込まれるように消えていった。
最後まで残った紫色の瞳が、暗闇からひろしを見つめる。
「待っておるぞ、我が器」
声が消えると、地下二階に残ったのは壊れた照明の音と、三冬の荒い呼吸だけだった。
◇
午前十一時六分。
三冬は春馬が使っていた車椅子へ乗せられ、りかと四宮に支えられながらエレベーターへ運ばれていた。一方、車椅子を譲った春馬は右脚を引きずり、ひろしの肩を借りて歩いている。
「怪我人が怪我人を支えるって、どうなんだよ」
ひろしが呆れた声を漏らすと、春馬は痛みに顔をゆがめながらも笑った。
「俺より三冬の方が重傷だから仕方ないだろ。それに、お前が支えてくれるなら歩ける」
「さっきまで俺に引っ張られてただろ」
「細かいことを気にするなよ」
いつもと変わらない返事だった。
だが、ひろしは春馬の顔を見ることができなかった。六ノ火の前で、自分がりかを好きであることも、春馬へ嫉妬していたことも全て話してしまった。
春馬は何も聞かなかったことにしているのか、それとも今は三冬を助けることしか考えていないのか、その表情からはわからない。
エレベーターへ入る直前、春馬はひろしの肩を借りたまま、小さな声で尋ねた。
「なあ、ひろし」
「何だよ」
「りかと先に出会ったの、お前だったんだな」
「知ってただろ」
「知ってた。でも、それがお前にとってどれだけ大事だったのかは知らなかった」
ひろしは返事をせず、閉じかけた扉を見つめていた。
春馬は謝らなかった。
謝れば、ひろしの思いを自分が奪ったものとして扱うことになる。それが正しいのかどうか、今の春馬にはわからない。
代わりに、ひろしの肩へ預けていた体を少しだけ起こした。
「ちゃんと話そう。六ノ火に言わされた言葉じゃなくて、お前の言葉で聞きたい」
その様子を見ていたりかは、何も言わなかった。
ひろしの気持ちを知ってしまった。
けれど、今すぐ答えを出すことも、知らなかったふりをすることもできない。誰かを傷つけないための曖昧な言葉が、かえってひろしを苦しめる可能性もある。
りかが左手を握り締めると、意識の奥から紫乃の声が届いた。
「人の心とは、火よりも厄介なものじゃな」
「紫乃にも、わからない?」
「妾は昔、刀を預けると申され、求婚と思い込んだ女じゃぞ。頼る相手を間違えておる」
思わぬ返答に、りかの口元がわずかに緩んだ。
「でも、一つだけわかる。答えを急げば、誰かの望む言葉を選ぶことになる。お主自身が何を思うか、それを見失うでない」
「うん」
りかは小さくうなずき、三冬を乗せた車椅子の取っ手を握り直した。
エレベーターの扉が閉まり、地下二階の暗闇が見えなくなる。
階数表示がB2からB1へ変わった時、ひろしの右手に残った六本の黒い筋が一度だけ強く脈打った。
誰にも気づかれないよう手をポケットへ隠すと、頭の奥で狼の声が響く。
――お主は、すでに我を求めた。
ひろしの顔から血の気が引いた。
――契りは始まっておる。
エレベーターの鏡へ映ったひろしの右目が、一瞬だけ紫色に輝いた。
――第十一話・完――
第十一話をお読みいただきありがとうございます。りかと先に出会っていたのは、ひろしでした。後から現れた春馬への嫉妬と、友を憎めない苦しさを六ノ火に利用されましたが、完全な憑依は防がれました。しかし右手の「六」は消えず、契りは始まったと告げられます。三人の関係も、以前と同じではいられません。




