表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
憑依戦々  作者: N
11/20

第十二話 命を分ける火

六ノ火との完全な憑依を拒んだひろしでしたが、右手には六本の黒い筋が残り、「契りは始まった」と告げられました。一方、重傷を負った三冬の命も尽きかけています。助ける方法を求めたりかに、紫乃は隠し続けてきた二ノ火の本質を明かします。


第十二話「命を分ける火」


一月一日、午前十一時七分。


地下二階を離れたエレベーターの中で、ひろしは右手をポケットへ隠していた。


鏡へ映った右目はすでに元の色へ戻っていたが、六本の黒い筋は手首へ絡みついたまま消えていない。心臓が鼓動するたびに印も脈打ち、地下へ残してきたはずの六ノ火の声が頭の奥へよみがえる。


――お主は、すでに我を求めた。


――契りは始まっておる。


耳を塞いでも意味がないとわかっていたため、ひろしは誰にも異変を悟られないよう拳を握った。六ノ火が自分の中へ入り込んでいるのか、印を通して声だけを届けているのかはわからない。しかし、あの狼とのつながりが切れていないことだけは確かだった。


「右手、見せて」


隣にいたりかが声をかけると、ひろしは反射的にポケットの中で手を引いた。六ノ火の前で自分の感情を知られた直後だけに、これまでと同じような顔でりかを見ることができなかった。


「何ともないよ。少し痺れてるだけだから」


「何ともない人は、そんな隠し方をしないよ」


りかは無理に手を取ろうとはせず、逃げ道を残した距離からひろしを見つめていた。その瞳には心配しか浮かんでいなかったが、六ノ火に言われた言葉が胸へ残っている。


心配と愛は異なる。


その違いを理解していても、今ここでりかの優しさまで疑いたくはなかった。ひろしは短く息を吐き、ポケットから右手を出した。


六本の黒い筋は手首の内側へ集まり、獣の爪痕にも細長い牙にも見える形を作っていた。先ほど肘まで伸びていた部分は薄くなっているものの、完全には消えていない。


りかが触れようと指を伸ばした瞬間、左手の「二」が紫色に輝いた。


「待て、りか。その印へ素手で触れるでない」


紫乃の警告を受け、りかは寸前で手を止めた。六本の筋から黒い煙が立ち上り、彼女の指先を求めるように揺れたあと、触れられなかったことを惜しむかのように皮膚へ戻っていく。


「今、動いたよね」


青ざめたりかへ、四宮は印の変化を観察しながら答えた。


「六ノ火が二ノ火へ反応した可能性があります。力を警戒したのか、森田ひろしを介して松永りかの感情へ接触しようとしたのかは確認できません」


「こういう時まで確認できないのかよ」


ひろしは力なく笑ったが、四宮は表情を変えなかった。いつもならすぐに手帳へ記録するはずなのに、ペンを持った手は途中で止まっている。


「印の進行条件に関する情報が不足しています。地下二階へ戻って六ノ火を観察する方法もありますが、現在の負傷状況を考慮すれば推奨できません」


「当たり前だろ。誰が戻るんだよ」


春馬はひろしの肩を借りたまま、痛みをこらえるように眉を寄せた。右肩と左脇腹の包帯には血がにじみ、車椅子を三冬へ譲ったため、負傷した右脚にも体重がかかっている。


「今は三冬を助けるのが先だ。そのあとで、ひろしの印を調べればいい。六ノ火がまた出てきたら、今度は全員で追い返す」


「お前は簡単に言うけど、俺が肩を離したら立っていられないだろ」


ひろしが呆れた声を漏らすと、春馬は当然のように体を預け直した。


「だから離すなよ」


「そういうところが勝手なんだよ」


文句を言いながらも、ひろしは春馬を支える腕へ力を込めた。春馬への嫉妬は消えていないが、それ以上に、今ここで手を離せば友人が倒れるという現実がある。


六ノ火は、相反する感情を矛盾だと呼んだ。しかし春馬へ嫉妬する気持ちと、友人として助けたい気持ちが同時に存在することは、どちらかが偽物であることを意味しない。


ひろしが自分の感情を整理しようとした時、車椅子へ乗せられていた三冬の体が大きく揺れた。


「三冬さん?」


りかが呼びかけても返事はなく、青白い唇からかすかな呼吸だけが漏れている。食いちぎられたような右腕からの出血は四宮の紙で押さえられていたが、黒い着物の下には狼の爪で裂かれた傷がいくつも残り、車椅子の座面まで血が染み込んでいた。


塚原が顔をのぞき込み、厳しい声で名を呼ぶ。


「三冬、目を開けよ。貴様には聞かねばならぬことがある」


閉じていた瞼が、わずかに持ち上がった。


「怪我人へ……最初に言う言葉が、それですか。もう少し優しくできないんですかねえ……」


「口を利く余裕があるならば、まだ死なぬ」


「判断の基準が……厳しすぎますよー……」


普段の軽い調子を保とうとしているものの、声は弱く、呼吸も浅い。りかは車椅子の取っ手を握り直し、少しでも安心させようと三冬へ身を寄せた。


「もうすぐ上へ着きます。お医者さんに診てもらいますから、今は話さなくて大丈夫です」


三冬は申し訳なさそうに笑い、四宮へ目を向けた。


「それは困りますねえ。僕の体を普通の医者へ見せたら、血ではなく紫炎で肉体を保っていると気づかれてしまいます」


「ならば、どうやって治す?」


塚原の問いへ答える代わりに、三冬は重そうな瞼を閉じた。四宮はすぐに首元へ指を当てたが、表情をわずかに険しくする。


「三ノ火の肉体を維持している魂の密度が急速に低下しています。洋館へ戻れば固定用の設備がありますが、移動へ耐えられる状態ではありません」


「この病院では治せないのかよ」


春馬が声を強めると、四宮は空中へ四枚の紙を浮かべ、三冬の周囲へ並べた。数字と記号が次々に書き込まれたものの、途中で全ての式が黒く変色していく。


「通常の治療では傷口を塞ぐことしかできません。六ノ火の牙は肉体だけでなく、三ノ火の魂まで食い破っています。このままでは肉体を治療しても、魂の崩壊を止められません」


「あと、どのくらい持つんですか?」


りかの声が震える。


四宮は腕時計と三冬の状態を交互に確認した。


「確認できません。数分の可能性もあれば、次の瞬間に崩壊する可能性もあります」


その答えが告げられた直後、三冬の右腕から紫色の粒子がこぼれ始めた。傷口の周辺だけではなく、指先から肩へ向かって肉体そのものが薄くなっている。


「紫乃、三冬さんを助ける方法はないの?」


りかは胸元へ左手を当て、意識の奥へ呼びかけた。


返事はない。


「聞こえてるんでしょう? 二ノ火で六ノ火を切り離せるなら、傷に残った力も取り除けるんじゃないの?」


それでも紫乃は答えなかった。


これまでなら、危険な行動を取ろうとするりかを厳しい言葉で止めていた。何も言わないという反応そのものが、何かを隠している証拠に思えた。


「紫乃、お願い。三冬さんが死んじゃう」


「ならぬ」


ようやく届いた声は、拒絶するように低かった。


「どうして?」


「妾の力だけでは、あの傷を治せぬ」


「私と一緒なら?」


りかが問い返すと、紫乃の気配が揺れた。


わずかな動揺だったが、二人の感情が重なり始めたりかには伝わってしまう。知らないのではなく、言いたくないのだ。


「方法があるんだね」


「ない」


「嘘だよ」


「妾を疑うのか」


「疑ってるんじゃない。紫乃が怖がっているのがわかるから」


りかが目を閉じると、暗い意識の中に紫乃が立っていた。長い黒髪と白い装束を紫炎が照らしているが、いつもの荒々しい瞳はりかを避けるように伏せられている。


「教えて。何をすれば助けられるの?」


「聞けば、お主は必ず使う」


「使わなかったら三冬さんが死ぬんでしょう?」


「ゆえに教えたくないのじゃ!」


紫乃の怒声とともに炎が揺れた。しかし、りかは一歩も引かなかった。


「私が決めることだよ」


「決めさせたくないのじゃ!」


紫乃の声には怒りではなく、隠し切れない恐怖がにじんでいた。


「お主は春馬のためならば己の体を差し出し、ひろしが危険ならば六ノ火の前へ飛び出す。三冬が死にかけておれば、今度は己の命を分けようとする。そのような娘へ、この力を教えられると思うか?」


「命を分ける……?」


紫乃は答えず、両手を強く握り締めた。


現実では三冬の呼吸がさらに弱くなり、四宮の紙も一枚ずつ黒く焼け落ちている。残された時間が少ないことを感じたりかは、紫乃の前まで歩み寄った。


「すぐに死ぬの?」


「そうではない」


「一度使ったら、私は死ぬ?」


「死なぬ」


「じゃあ、何回使ったら死ぬの?」


紫乃は悔しそうに唇を結んだ。


「わからぬ。誰を治すか、どれほど深い傷を治すか、お主と妾がどこまで融合するかによって削られる命は変わる。あと何度使えるのかも、妾にはわからぬ」


「今使ったら、すぐ死ぬわけではないんだね」


「そういう問題ではない!」


紫乃はりかの両肩をつかみ、逃がさないように正面から見つめた。


「一度で死なぬから使ってよいのではない。今日失った命が、一年なのか、一日なのか、妾にもわからぬのじゃ。使うたび、お主が本来生きられた時間は確実に短くなる」


「それでも、今助けられる命を見捨てたら、私はきっと後悔する」


「その後悔を背負わせたくなかった。ゆえに妾は、何も申さなかったのじゃ」


紫乃の手が震えている。


りかはそこで初めて、紫乃が能力を隠していた理由を理解した。自分を信用していなかったのではない。りかが誰かを助けるためなら、代償を知った上でも迷わず使うとわかっていたからこそ、選択肢そのものを与えなかったのだ。


「紫乃は、私を守ろうとしてくれたんだね」


「妾は、また失いたくない」


四百年前の記憶が、紫乃の背後へ浮かんだ。


燃える村。


腕の中で動かなくなった青年。


黒く染まった「二」の印。


紫乃は救う力を持ちながら、当時はその力を完全に扱えなかった。助けられなかった者への後悔が、今も彼女を縛っている。


「妾の力は、初めから人を斬るためのものではない。魂をつなぎ、混ざり合った魂を分け、傷ついた肉体と魂を結び直すための火じゃ」


「じゃあ、今までの紫色の炎は?」


「憑依や魂の接続を斬り離し、押し戻していただけじゃ。妾には、塚原のように敵を斬り伏せる力はない」


りかは第八話で春馬の意識へ入り、塚原の魂と春馬を分けた時のことを思い出した。紫乃の炎は誰かを破壊したのではなく、絡み合った二つの魂へ境界を作っていた。


それこそが、二ノ火の本質だった。


「覚醒融合を行えば、妾の魂とお主の肉体は、これまで以上に深く重なる。傷ついた者へ生命を分け、肉体と魂を一度に修復できるが、融合しておる間は、お主の命が通常より遥かに速く燃える」


「時間を短くすれば、削られる命も少なくできる?」


「その可能性はある。じゃが、確かなことは申せぬ」


紫乃は最後まで止めようとしていたが、現実の三冬から伝わる気配は消えかけている。


りかは紫乃の手へ自分の手を重ねた。


「一人では使わない。紫乃と一緒に、必要なところまでやる。危険だと思ったら、紫乃が止めて」


「お主は止めても聞かぬであろう」


「今度は聞くよ」


「信用できぬ」


「じゃあ、私の体を止めてでも終わらせて」


その言葉を聞いた紫乃は、長い沈黙のあと、りかの手を強く握り返した。


「今回だけじゃ」


「うん」


「春馬が少し怪我をした程度で使うことも許さぬ」


「うん」


「妾に隠れて試そうとすれば、二度と力を貸さぬ」


「わかった」


素直に答えるりかを疑うように見つめたあと、紫乃は深く息を吐いた。


「本当に、注文を守らぬ娘じゃ」


「紫乃に似たんだと思う」


「妾はそのように無鉄砲ではない」


二人が同時に手を握り締めると、暗闇を満たしていた紫炎が一つの巨大な輪へ変わった。



現実へ戻ったりかが目を開く。


左目は青く、右目は紫色に輝いていた。これまでの同調と違い、二つの瞳の中心には同じ円形の紋章が浮かんでいる。


赤い髪の一部が根元から紫銀色へ変化し、床へ流れ落ちていた三冬の血が重力へ逆らうように浮き上がった。


「りか?」


春馬の呼びかけへ答える前に、りかは三冬の胸元へ右手を置いた。左手に刻まれた「二」から二重の円が広がり、三冬の体を包み込む。


「四宮さん、傷の場所を教えてください」


声にはりかの穏やかさと、紫乃の古風な響きが重なっていた。


四宮は驚きを隠せないまま、周囲へ紙を展開する。


「右腕、右脇腹、背中、左大腿部。最大の問題は六ノ火の牙によって三ノ火の魂へ生じた欠損です。しかし、現在の現象は記録にありません。何をしているのですか?」


「魂と肉体を結び直す」


りかと紫乃の声が同時に答えた。


「妾たちの命を火へ変え、三冬へ分け与える。四ノ火よ、三冬と周囲の境界を固定せよ。流した命を外へ逃がすでない」


四宮は問い返さず、四枚の紙を三冬の四方へ配置した。塚原もりかの変化を見つめながら、床へ刀を突き立てる。


「ワシにできることはあるか」


「六ノ火の残滓を近づけるな。妾には治す力はあれど、守りながら行う余裕はない」


「承知した」


塚原は処置台の前へ立ち、紫色の刀を構えた。


りかの左手から溢れた光が三冬の傷へ流れ込むと、裂けていた皮膚がゆっくりと閉じ始めた。食い破られた筋肉と血管が紫色の糸によって縫い合わされ、弱まっていた心臓の鼓動が少しずつ力を取り戻していく。


体の奥へ残っていた黒い炎も傷口から押し出された。塚原が一閃で切り裂くと、黒い炎は獣の断末魔に似た声を残して消えていった。


「回復速度が通常の肉体再生を超えています」


四宮は紙へ記録しながら、りかの状態にも目を向けた。


「しかし、松永りかの脈拍が急速に低下しています。体温も三分間で二・八度低下。このまま継続すれば危険です」


「三冬さんは?」


「魂の欠損は残り十二パーセントです」


りかは唇を噛み、さらに力を流そうとした。


「もう十分じゃ。手を離せ」


紫乃の声が意識へ響く。


「まだ残ってる」


「これ以上は必要ない。三冬自身の回復力で補える」


「でも、十二パーセントも――」


「約束したであろう!」


紫乃の強い意志が右腕へ伝わり、三冬の胸元から手を引き離した。光の輪が消えた瞬間、りかの膝から力が抜ける。


床へ倒れる寸前でひろしが抱き止め、その肩を春馬も支えようとしたが、負傷した右脚が耐えられず、二人まとめて壁へもたれかかった。


「りか、目を開けろ!」


春馬の呼びかけに、りかはゆっくり瞼を持ち上げた。青と紫に分かれていた瞳は元の色へ戻り、紫銀色へ変わっていた髪も赤色を取り戻している。


「大丈夫。少し眠いだけ」


「大丈夫な顔じゃないだろ」


ひろしはりかの冷えた手を握り、六本の黒い筋が触れないよう左手だけで体を支えた。


四宮が首元へ指を当て、脈拍を確認する。


「生命活動は安定し始めています。直ちに死亡する状態ではありません。ただし、覚醒融合によってどれほど生命が失われたか、今後何回まで使用できるかは確認できません」


「そんな危険な力なら、どうして先に言わなかったんだよ」


春馬の声には紫乃への怒りがにじんでいた。


りかの意識の奥から、紫乃が静かに答える。


「言えば、この娘はお主が転んだだけでも使おうとするであろう」


「そこまで馬鹿じゃないよ」


りかが弱々しく反論すると、春馬とひろし、塚原まで同時に彼女を見た。


「何で全員黙るの?」


「お主は、ワシより無茶をする」


塚原が厳しい顔で言い切る。


「塚原さんにだけは言われたくないです」


「今のお主に反論する権利はない」


意識の奥で紫乃も同意し、りかは不満そうに口を閉じた。


その時、処置台から小さな笑い声が聞こえた。


「人を治しながら……自分が倒れるなんて……随分と効率の悪い力ですねえ……」


三冬が薄く目を開けていた。顔色はまだ悪いものの、途切れかけていた呼吸は安定し、紫色の粒子へ変わっていた右腕も元の輪郭を取り戻している。


「三冬さん、痛いところは?」


りかが立ち上がろうとすると、紫乃が体の内側から強引に力を抜いた。


「動くでない!」


「確認するだけだよ」


「治した本人が先に倒れてどうするのじゃ!」


三冬は二人のやり取りが聞こえているのか、処置台へ横たわったまま目を細めた。


「二階堂紫乃が誰かを心配するとは、四百年も経てば変わるものですねえ」


「黙れ、三冬。次に死にかけても治さぬぞ」


「それを決めるのは、りかさんでは?」


紫乃は言い返せず、春馬が思わず笑う。緊張がわずかに緩んだものの、ひろしだけは自分の右手を見つめていた。


りかと紫乃の覚醒融合。


傷ついた者を救えるほどの力。


それでも使用するたび、りかの命は確実に短くなる。


六ノ火が見せた誘惑が再び胸へ浮かぶ。


自分にも力があれば、りかへ危険な能力を使わせずに済むのではないか。次は春馬や三冬ではなく、自分が前へ立てるのではないか。


その思いが生まれた瞬間、右手の六本の筋が強く脈打った。


――そうじゃ。


ひろしの頭の奥へ、狼の声が響く。


――娘に命を削らせたくなければ、お主が力を得ればよい。


「黙れ……」


ひろしは聞こえないように呟き、右手をポケットへ押し込んだ。



一月一日、午後零時二分。


三冬は病院内の使われていない個室へ運ばれ、四宮の紙によって肉体を固定されていた。覚醒融合で致命的な傷は回復したものの、失った血と消耗した魂まで完全に戻ったわけではなく、今は深い眠りについている。


春馬も病室へ戻され、開いた傷を再び処置された。


担当の看護師から三度目の叱責を受け、今度こそベッドから動かないよう点滴の管まで増やされている。りかも隣のベッドへ寝かされたが、しばらく休むと体温と脈拍は正常に近い数値へ戻った。


すぐに死ぬわけではない。


外見に明らかな変化も残っていない。


それでも、自分の命の一部が三冬へ渡ったことだけは、りか自身にも感覚としてわかっていた。


「紫乃」


目を閉じたまま呼びかけると、意識の奥から静かな声が返ってくる。


「何じゃ」


「怒ってる?」


「怒っておる」


「三冬さんを助けたことに?」


「違う。妾が止めねば、残り十二パーセントまで全て治そうとしたことでじゃ」


「中途半端に残したら心配だったから」


「その考え方をやめよと申しておる」


紫乃の声は厳しいが、感情の奥には安堵がある。りかが無事でいることを、誰よりも喜んでいるのだ。


「ごめんね。私のために隠してくれてたのに」


「謝るくらいなら、二度と使うな」


「それは約束できない」


即答したことで、紫乃の怒りが一気に伝わってきた。


「でも、一人では使わない。紫乃と相談するし、止められたら今度こそ止まる」


「本当であろうな」


「たぶん」


「そこは言い切るのじゃ!」


りかが小さく笑うと、紫乃は呆れたように息を吐いた。


向かいのベッドでは、春馬が二人の会話を聞くようにりかを見つめていた。紫乃の声までは聞こえないが、りかの表情から言い争っていることは伝わっている。


「その力、俺には使うなよ」


突然言われ、りかは顔を向けた。


「どうして?」


「俺の傷は放っておいても治る。命を削ってまで治す必要ないだろ」


「また死にそうになっても?」


「その時は塚原が何とかする」


窓際にいた塚原が、すぐに眉をひそめる。


「勝手にワシへ押しつけるでない」


「だって、りかに治させるよりいいだろ」


「お主が無茶をしなければ済む話じゃ」


「それができれば苦労してない」


「開き直るな!」


二人のやり取りを聞き、りかは笑いかけた。しかし、すぐに真剣な表情へ戻る。


「春馬が本当に死にそうになったら、私は使うと思う」


「使うな」


「無理だよ」


「りかが俺を助けて死んだら、俺はどうすればいいんだよ」


春馬の声から軽さが消えた。


りかはすぐに答えられなかった。


覚醒融合は一度使っただけで死ぬ力ではない。あと何度使えるのかも、どれほど命が短くなったのかもわからない。


だからこそ、次も大丈夫だと思ってしまう。


その次も、まだ死なないと信じて使ってしまうかもしれない。


紫乃が能力を隠していた理由を、りかは改めて理解した。


「わかった。簡単には使わない」


「簡単じゃなくても使うな」


「それは約束できない」


「さっきと同じこと言ってるだろ」


「だって、春馬も同じことをするでしょ」


言い返され、春馬は黙り込んだ。自分だけが傷つけば仲間を守れると思い、何度も命を投げ出しかけた彼に、りかだけを責める資格はなかった。


「二人とも同じですよ」


病室の隅から、四宮が口を挟んだ。手帳には覚醒融合による体温や脈拍の変化が細かく記録されている。


「自身の損失を軽視し、他者の生存を優先する傾向があります。その結果、互いが互いを守ろうとして危険な行動を繰り返す可能性が高い」


「四宮に言われると腹立つな」


春馬が顔をしかめる。


「感情ではなく、行動記録に基づく判断です」


「正しいから余計に腹立つんだよ」


ひろしは二人のやり取りを少し離れた場所から聞いていた。


六ノ火の前で全てを話してしまったため、りかと二人きりになることを避け、できるだけ病室の入口近くに立っている。りかも今すぐ答えを出そうとはせず、普段と変わらない距離を保っていた。


その配慮がありがたい一方で、胸の奥には解決しない痛みが残っている。


「ひろし君」


名前を呼ばれ、ひろしは顔を上げた。


りかはベッドの上から右手を見ている。


「印、また動いてない?」


「気のせいだよ」


「さっきもそう言ったよね」


逃げられないと悟ったひろしは、ポケットから右手を出した。六本の筋は先ほどより濃くなり、一本だけが手首を越えて腕へ伸びている。


四宮が近づき、紙を印の上へかざした。


「覚醒融合を目にした直後から、接続率が上昇しています。森田ひろしが力を求めた可能性があります」


「勝手に決めるなよ」


ひろしは否定したが、声に力がなかった。


りかが命を削った時、六ノ火の力があれば代わりに戦えると考えた。それは紛れもない事実だった。


「六ノ火が俺の考えを読んだだけだ。受け入れるなんて言ってない」


「言葉による同意が必要とは限りません。力を欲した感情そのものが、契約を進める可能性があります」


四宮は紙へ新しい式を書き込んだが、途中でペンを止めた。


「ただし、進行条件と残された時間は確認できません」


ひろしは右手を握り締める。


自分の感情を消すことはできない。


りかを好きな気持ちも、春馬への嫉妬も、守る力が欲しいという願いも、全て六ノ火へつながる道になっている。


「六ノ火は、感情だけを食べるんじゃない」


隣室から聞こえた声に全員が振り返る。


扉の近くには、壁へ肩を預けた三冬が立っていた。治療直後に動ける状態ではないはずだが、左手には木製の徳利を持ち、青白い顔へいつもの笑みを浮かべている。


「寝てなくていいのか?」


春馬が尋ねると、三冬は徳利を軽く揺らした。


「目を覚ましたら知らない部屋でしたので、少し散歩をしていました。まあ、右腕がつながっているだけでも十分ありがたいですけどねえ」


りかが起き上がろうとすると、紫乃がすぐに止めた。三冬も手を上げ、自分へ近づかなくてよいと示す。


「六ノ火は、人間の負の感情と一緒に、その感情が生まれた記憶を食べます。誰かを恨むには、誰に何をされたのか覚えていなければならない。誰かへ嫉妬するには、自分が何を欲しかったのか知っていなければならないでしょう?」


ひろしの顔から血の気が引いた。


「記憶まで消えるのか?」


「最初は細かな部分です。会話の内容、相手の表情、その時に何を感じたのか。その次に、感情を持つ理由そのものが消えていく」


三冬は病室へ入り、ひろしの右手にある印を見つめた。


「最後には、誰かを好きだったことも、憎んでいたことも忘れます。感情を失った理由さえ思い出せなくなった時、魂には六ノ火が入るための空白が生まれる」


「止める方法は?」


りかが尋ねると、三冬は困ったように笑った。


「確認できません」


四宮の言葉を真似た返答に、本人だけが不満そうに眉を寄せる。


「少なくとも、僕は知りません。六ノ火は一や二、四、十一の争いにも興味を示さず、器を選んでは姿を消してきた存在です。どの記憶から食べるのか、どれほどの速さで進むのかも、器によって違うと言われています」


「じゃあ、ひろしが何を忘れるかもわからないのか」


春馬がベッドの上で身を起こすと、三冬はうなずいた。


「六ノ火にとって最も美味しいのは、強い感情と結びついた記憶です。森田さんの場合、何が選ばれるかは想像できますけどねえ」


三冬の視線が、ひろしからりか、そして春馬へ動いた。


誰も言葉を発しなかった。


ひろしは右手を隠し、自分の記憶を確かめるように目を閉じた。


ホテルの朝。


慌てて服を着るりか。


「やば! バイト遅れちゃう! 私、先に行くね!」


扉を開けて出ていく後ろ姿。


その後、春馬と一緒にいた時、道の反対側を歩くりかを見つけた。


春馬は大きく手を振り、自分の彼女候補だと笑いながら紹介した。ひろしとりかは互いの過去を知られないよう、数秒の沈黙のあとで初対面を装った。


三人で向かったカラオケ店。


一人で歌うことに飽き、戻ってこない二人を捜した。


廊下の先で、春馬とりかが口づけを交わしていた。


今は、まだ全て覚えている。


胸を締めつけられた痛みも、何も見なかったふりをして部屋へ戻ったことも、笑顔の春馬に抱きつかれながら必死に普段どおり振る舞ったことも忘れていない。


「大丈夫だ」


自分へ言い聞かせるように、ひろしは呟いた。


「何も忘れてない」


その瞬間、右手の六本の筋が一度だけ脈打った。


頭の中にあったカラオケ店の廊下が、白い霧へ覆われる。


春馬とりかが戻ってこなかったことは覚えている。


二人を捜すために部屋を出たことも覚えている。


しかし、廊下の先で何を見たのかだけが思い出せない。


「待て……」


ひろしは両手で頭を押さえた。


胸には同じ痛みが残っている。


あの夜、何かを見て傷ついたこともわかっている。


それなのに、その時の春馬とりかの姿だけが、記憶から切り取られていた。


「どうしたの?」


りかが呼びかける。


ひろしは彼女の顔を見たあと、春馬へ視線を移した。二人を見れば胸が苦しくなる理由はわかるはずなのに、肝心の光景だけがどこにもない。


「カラオケで……俺は何を見た?」


春馬の表情が変わる。


りかも息をのみ、シーツを握り締めた。


四宮はひろしの右手へ紙を近づけたが、六本の筋から噴き出した黒い煙によって弾かれた。煙は小さな狼の形を作ると、ひろしの肩へ前脚をかけ、耳元で囁く。


――一つ、馳走になったぞ。


ひろしの顔から血の気が失われた。


覚醒融合によって三冬の命は救われた。


しかし、その直後から別の命の一部が、誰にも止められない場所で食われ始めていた。


――第十二話・完――

第十二話をお読みいただきありがとうございます。紫乃が隠していた二ノ火の本質は、治癒と魂の融合・分離でした。りかとの覚醒融合による超回復は命を削りますが、残された使用回数も減少量も不明です。一方、六ノ火はひろしから、三人の関係が変わった夜の記憶を食べ始めました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ