第十三話 俺は…誰だ。
六ノ火との完全な憑依を拒んだひろしでしたが、右手には六本の黒い筋が残り、「契りは始まった」と告げられました。一方、重傷を負った三冬の命も尽きかけています。助ける方法を求めたりかに、紫乃は隠し続けてきた二ノ火の本質を明かします。
【前書き】
六ノ火との契りによって、ひろしは苦痛と結びついた記憶を奪われ始めました。最初に失ったのは、春馬とりかが口づけを交わす姿を目撃した記憶です。何を失ったのかさえ理解できないまま病院を離れたひろしは、自宅で六ノ火の侵食へ一人で抗うことになります。
第十三話「俺は誰だ」
一月一日、午後二時十二分。
病院の廊下で、ひろしは右手に刻まれた六本の黒い筋を見つめていた。
一本だけが他より濃くなっており、皮膚の表面へ描かれた印ではなく、内側から根を張っているように脈打っている。目を閉じると、思い出せない記憶の空白へ吸い込まれそうになり、胸の奥には理由のわからない痛みだけが残っていた。
「ひろし、病室へ戻ろう。四宮なら、ほかの記憶が消える前に何か調べられるかもしれない」
春馬は車椅子へ座ったまま、ひろしの左腕をつかんでいた。自分の右肩、脇腹、太腿には再び縫い直された傷があるにもかかわらず、病室を抜け出したことを反省する様子もなく、友人を一人にしないことしか考えていない。
「お前はまず自分のベッドへ戻れよ。看護師さん、さっきからすごい顔でこっちを見てるぞ」
ひろしが視線で廊下の先を示すと、春馬を捜してきた看護師が腕を組んで立っていた。春馬は気まずそうに顔をそらしたが、それでもひろしの腕から手を離そうとはしなかった。
「俺は大丈夫だから、先に戻ってろ。少し一人で考えたいだけで、六ノ火を捜しに行くわけじゃない」
ひろしは安心させるように笑ったものの、春馬は納得しなかった。六ノ火との契りを刻まれた直後から、ひろしが何度も「大丈夫」と言いながら異変を隠していたことを知っているため、言葉だけでは信じられなくなっている。
「さっき記憶を食われた奴の大丈夫を、どうやって信じろっていうんだよ。せめて今日だけは、俺たちと一緒にいろ」
春馬が腕へ力を込めると、ひろしは反射的にその手を振り払った。廊下へ乾いた音が響き、二人の間に短い沈黙が生まれる。
「俺たちって、誰のことだよ」
ひろしの口から、自分でも予想していなかった言葉が漏れた。
少し離れた病室では、りかが命環の反動によって眠っている。春馬が何度もその様子を確かめ、りかも意識を失う直前まで春馬の傷を気にしていた光景を思い出すと、胸の奥へ再び黒い感情が生まれた。
「お前と、りかちゃんか? 俺がそこにいたら、二人とも気を遣うだけだろ。りかちゃんは俺の気持ちを知って、お前も俺が嫉妬してたことを知った。そんな状態で三人並んで、今までみたいに話せると思うのかよ」
ひろしは声を荒らげたあと、すぐに後悔した。春馬を責めたいわけではなく、りかへ答えを求めたいわけでもないのに、六ノ火に隠していた感情を暴かれてから、どの言葉を選んでも二人を傷つけるように感じられる。
「今までみたいじゃなくてもいいだろ。ひろしが何を考えてたか知ったからって、友達じゃなくなるわけじゃない」
春馬は振り払われた左手を膝へ戻したが、ひろしから目をそらさなかった。その真っすぐな態度さえ今は苦しく、ひろしは右手をポケットへ押し込む。
「お前は簡単に言えるよな。俺の記憶が消えても一緒に取り戻すとか、何があっても友達だとか、迷わず言える。そういうところが昔から嫌になるくらい格好いいんだよ」
「ひろし――」
「だから今は、放っておいてくれ」
ひろしは春馬の言葉を遮ると、廊下の出口へ向かって歩き始めた。背後から車椅子の動く音が聞こえたが、看護師に止められたのか、追いかけてくることはなかった。
病室の前では四宮が立っており、ひろしの顔と右手を順番に見つめている。引き止める言葉を探しているようには見えなかったが、その黒い手袋の周囲には、いつでも境界を作れるように数枚の紙が浮かんでいた。
「一人になることは推奨できません。六ノ火は、あなたが他者から離れた時を狙う可能性があります」
「可能性だろ。ここに残ったところで、次の記憶を守れる保証もないんだよな」
ひろしが問い返すと、四宮は否定しなかった。六ノ火との接続を完全に切断する方法も、次に奪われる記憶も、今の彼には確認できていない。
「自宅へ着いたら連絡してください。右手の筋、瞳の色、聞こえた声に変化があった場合も、隠さず報告する必要があります」
四宮は小さな紙を一枚差し出した。そこには連絡先とともに、現在確認されている六ノ火の異変が簡潔に記されている。
「力を欲した時、感情を否定した時、記憶へ無理に触れようとした時。この三つは契りが進行する可能性があります」
「何を考えても駄目みたいだな」
ひろしは紙を受け取り、苦笑しながら上着の内側へしまった。四宮は何も答えなかったが、ひろしがエレベーターへ乗り込むまで、その背中から視線を外さなかった。
扉が閉まる直前、春馬の声が廊下から届いた。
「帰ったら絶対に連絡しろよ! 出なかったら、傷が開いても家まで行くからな!」
ひろしは返事をしなかった。しかし閉じた扉へ背中を預けると、誰にも見えないところで小さくうなずいた。
◇
午後三時三十一分。
ひろしは自分の車を病院の駐車場へ残し、タクシーで自宅へ戻った。
運転できないほど体調が悪いわけではなかったが、走行中に記憶を奪われれば事故を起こす可能性があると考えた。自分だけではなく、何も知らない誰かを巻き込みたくないという判断だった。
玄関の鍵を開けると、見慣れたはずの部屋から知らない場所へ入るような違和感が伝わってきた。脱ぎ散らかした上着、読みかけの雑誌、春馬とふざけながら撮った写真、りかからもらった菓子の空箱まで、全て自分の物だと理解できるのに、どこか他人の生活をのぞいているように感じられる。
ひろしは靴を脱ぎ、リビングの照明をつけた。病院での出来事を思い出そうとすると頭痛が走り、右手の一本目の筋が熱を持ったため、意識を別の場所へ向ける。
「俺は森田ひろし。十九歳。春馬の友達で、りかちゃんのことが好きだ」
誰に聞かせるでもなく、自分の情報を声へ出した。恥ずかしさはあったが、何も言わずにいれば、次に目を覚ました時には名前さえ失っているかもしれない。
スマートフォンの録音機能を起動し、同じ内容をもう一度繰り返す。さらに春馬との関係、りかと先に知り合っていたこと、六ノ火へ嫉妬を渡さないと決めたことを、思い出せる範囲で吹き込んだ。
「春馬は馬鹿で、無茶ばかりして、いつも俺を巻き込む。でも、あいつが死にそうになった時、俺は本気で助かってほしいと思った。嫉妬してるけど、嫌いじゃない」
録音画面に音声の波形が伸びていく。言葉にするたび胸は痛んだが、その痛みが自分のものだと確認できることに、わずかな安心を覚えた。
「りかちゃんとは、春馬より先に知り合った。最初に会った夜、俺たちは……」
そこまで言った瞬間、ひろしの頭の中から記憶が流れ込んできた。
酒の臭いが残る部屋。床へ落ちた服。朝日を背に浴びながら、慌てて服を着るりかの姿。
――やば! バイト遅れちゃう! 私、先行くね!
ホテルの扉を開け、振り返りながら笑ったりかの顔を思い出す。同時に右手の二本目の筋が黒く染まり、骨の内側を爪で引っかかれるような激痛が走った。
「消えるな……!」
ひろしはスマートフォンを握り締め、記憶の中のりかへ手を伸ばした。だが、扉の向こうへ消えた後ろ姿から輪郭が崩れ、部屋の色も、声も、朝日の温度も、黒い炎へ変わっていく。
――二つ目じゃ。
六ノ火の声が頭の奥へ響いた時、ひろしは床へ膝をついた。今まで確かに存在していた光景が、最初から何もなかったかのように消え、なぜ自分がホテルのことを話していたのかさえわからなくなる。
スマートフォンから、自分の録音した声が流れていた。
――りかちゃんとは、春馬より先に知り合った。最初に会った夜、俺たちは……。
「最初に会った夜、何があったんだよ」
ひろしは画面へ問いかけたが、録音の中の自分は答えない。続きを話す前に記憶を奪われたため、残っているのは何かがあったという事実だけだった。
「返せ。俺の記憶を返せよ」
怒りを声へ変えた瞬間、部屋の照明が激しく明滅した。消えたテレビの画面へ巨大な狼の紫色の瞳が映り、ひろしの背後には黒い炎が立ち上り始める。
――苦しみを抱え続ける必要などない。我が全て食ろうてやる。
「ふざけるな。苦しいかどうかは俺が決める。忘れたいなんて頼んでない」
ひろしは床から立ち上がり、テレビ画面の狼を睨み返した。声は震えていたが、六ノ火に見せまいとして隠すのではなく、自分が恐れていることも認めた上で足へ力を込める。
――娘との夜を失い、お主は少し軽くなったであろう。友への嫉妬も、選ばれなかった悔しさも、全てなくなれば楽になれる。
「その感情は俺のものだ。勝手に食うな」
ひろしが右手を胸へ押し当てると、六本の筋が心臓の鼓動へ合わせて動いた。二本の濃い筋は手首を越えて腕へ伸び、残る四本も皮膚の下から浮かび上がってくる。
――ならば守ってみせよ。お主が己をどこまで覚えていられるか、我に見せてみるがよい。
テレビ画面が黒く染まり、部屋の壁へ無数の映像が浮かび上がった。春馬と出会った日、二人で自転車を乗り回した小学生時代、初めて喧嘩をした夜、互いにくだらないことで笑った時間が、古い映像のように部屋中へ映し出される。
「それにも触るな!」
ひろしは壁へ駆け寄ったが、どの映像へ手を伸ばしても指先がすり抜ける。六ノ火は消す記憶を選ぶように一つずつ匂いを嗅ぎ、恐怖が強く結びついた光景へ牙を立てていった。
県道で三冬に斬られ、雪の上へ倒れた春馬。
傷口を押さえながら、何度呼びかけても返事がなかった時間。
このまま友人が死ぬのではないかと恐れ、自分には何もできないと悔やんだ記憶。
巨大な狼の牙がその光景へ食い込むと、三本目の筋が黒く染まった。春馬の血に濡れた雪が黒い炎へ変わり、倒れていた人物の顔から先に消えていく。
「春馬だ。あいつは春馬だ!」
ひろしは何度も名前を叫んだ。顔を思い出せなくなっても、名前だけは渡さないように声へ出し続ける。
「赤井春馬。十九歳。大学を辞めた馬鹿で、免許もないくせに俺の車を当たり前みたいに使う。怖がりなのに、誰かが危なくなると勝手に前へ出る!」
言葉を重ねるほど、頭の中で春馬の輪郭が戻りかける。しかし六ノ火は、その輪郭を作っている別の記憶へ爪を立てた。
初詣へ向かう車の中で交わした会話。
裏山へ入る春馬を止められなかったこと。
古びた神社で、紫色の石へ触れた友人の背中。
「やめろ!」
ひろしは自分の頭を両手で押さえた。記憶が奪われるたび、頭蓋骨の内側から何かを引き抜かれるような痛みが走り、四本目と五本目の筋が続けて黒く染まっていく。
スマートフォンが床で震え、春馬からの着信を知らせていた。画面には「春馬」と表示されているが、その名前が誰を示しているのか、一瞬だけ理解できなくなる。
「出ろ……。出れば、まだ思い出せる」
ひろしは床を這い、震える左手をスマートフォンへ伸ばした。指先が画面へ触れる直前、黒い影が腕へ絡みつき、体を反対方向へ引きずる。
着信は途切れた。
数秒後、今度はりかから電話がかかってきた。画面に表示された名前を見た瞬間、胸が強く痛んだものの、なぜ痛むのかを説明できない。
「りか……ちゃん」
名前を口にすると、壁へ赤い髪の女性の姿が映った。
最初に出会った夜は消えている。
カラオケ店で何を見たのかも消えている。
それでも、自分へ笑いかけた顔や、車の助手席から礼を言った声、六ノ火の前で必要な存在だと伝えてくれた姿は残っていた。
「俺は、りかちゃんが好きだ」
ひろしが言い切ると、六ノ火の影が一瞬だけ揺らいだ。感情を隠さず認めたことで、右手の侵食が止まりかける。
――その娘は、お主を選ばぬ。
「わかってる」
――友を選び、お主を哀れむだけじゃ。
「それでも好きになったのは俺だ。返してもらえなくても、この気持ちは俺のものだ」
ひろしは黒い影へ手を突き入れ、絡みついた一部を引き裂いた。紫色の炎が飛び散り、六ノ火の咆哮が部屋の窓を震わせる。
右手の筋から黒い血が噴き出した。人間の血とは違い、床へ落ちた瞬間に炎へ変わり、ひろしの足元を囲むように燃え広がっていく。
――強がるでない。お主は一人になることを選び、この部屋へ戻ってきた。助けを求めれば友は来たというのに、見られたくない感情を抱え、再び我へ差し出したのじゃ。
「違う。俺は自分でお前に勝つために帰ってきた」
――勝つためか。それとも、友と娘が並ぶ姿から逃げるためか。
六ノ火の言葉が胸へ突き刺さり、ひろしは言い返せなくなった。
病院へ残れば、春馬とりかのそばにいなければならない。二人が互いを心配し、自然に名前を呼び合う姿を見ながら、嫉妬していないふりを続けなければならないと思っていた。
一人で六ノ火へ勝とうとしたのではない。
二人から逃げたかった気持ちも、確かにあった。
「それも……俺の感情だ」
ひろしは認めようとしたが、声が途中で途切れた。六ノ火は生まれた迷いを見逃さず、最後まで色の薄かった六本目の筋へ黒い炎を流し込む。
右腕を覆った印が肩を越え、首筋から頬へ広がった。皮膚の下を黒い毛が突き破るように伸び、両手の爪は鋭く長く変わっていく。
「やめろ……まだ、俺は残ってる」
ひろしはスマートフォンをつかみ、震える指で春馬へ電話をかけようとした。しかし連絡先を開いても、並んでいる名前のどれが春馬なのかわからない。
赤井春馬という文字は読める。
その人物が自分にとって何者だったのかが、思い出せない。
「友達だ。あいつは、俺の……」
春馬と続けようとした時、六ノ火の牙が最後の記憶へ食い込んだ。
二人で笑った顔。
喧嘩のあとに謝れず、缶ジュースを差し出した手。
車の修理代を押しつけ合った会話。
県道で差し出された右手。
地下二階で、自分を友達から外さないと言った声。
全ての記憶が砕け、黒い炎の中へ吸い込まれていく。何か大切なものを奪われていることだけはわかるのに、その人物の名前も顔も、二人で過ごした時間も、つかむ前に消えてしまった。
「返せ……。そいつは、大事な奴だったんだ」
ひろしは泣きながら影へ手を伸ばした。だが、誰が大事だったのかを問われても答えられず、差し出した手は人間の形を失っていた。
骨が軋み、両腕と両脚が異常な速さで伸びていく。背中を突き破るように黒い毛が広がり、口元は前へせり出し、鋭い牙が次々と生えそろった。
服は膨張した体へ耐えられず、肩と背中から裂け落ちた。床へついていた両手は巨大な前脚へ変わり、爪がフローリングを深くえぐる。
ひろしは倒れそうになりながら洗面所へ向かった。歩くたびに人間の足取りが崩れ、最後には四本の脚で床を踏みしめている。
鏡の中に、森田ひろしの姿はなかった。
そこにいたのは、人の背丈を超える巨大な黒い狼だった。毛並みの隙間から紫色の炎が漏れ、額には黒い「六」の印が刻まれている。
右目だけではなく、両方の瞳が紫色に輝いていた。口を開けば人間の言葉より先に獣の唸り声が漏れ、鏡へ吐きかけた息によって表面へ黒い霜が広がっていく。
――ようやく一つになれたな、我が器。
六ノ火の声は、もう頭の奥から聞こえているのではなかった。
自分の喉から響いている。
「違う……俺は……」
否定しようとしても、続く名前が出てこない。
部屋に戻ると、床にはスマートフォンが落ちていた。画面では春馬からの着信が繰り返され、その直後にりかからのメッセージが表示される。
『ひろし君、無事に家へ着いた? 心配だから返事をください』
黒い狼は画面に映る名前を見つめた。文字は読めるものの、春馬が誰なのかも、りかが誰なのかもわからない。
胸の奥に痛みが生まれた。
その痛みの理由を探そうとした瞬間、六ノ火の炎が残っていた感情まで包み込み、温かさも、寂しさも、恐怖も区別できなくなっていく。
狼はスマートフォンを拾おうとしたが、巨大な爪では小さな画面へ触れられなかった。何度試しても端末を床へ押しつけるだけになり、やがて爪の先が画面を割った。
亀裂の入った画面へ、紫色の瞳を持つ怪物の顔が映った。
その顔が六ノ火であることも、自分が森田ひろしだったことも、もう思い出せない。
「俺は……誰だ。」
――第十三話・完――
第十三話をお読みいただきありがとうございます。ひろしは春馬とりかの前にいることへ耐えられず、一人で六ノ火へ抗うため自宅へ戻りました。しかし孤独と迷いを利用され、残された記憶まで奪われてしまいます。人間の姿を失い、六ノ火と同じ巨大な黒い狼へ変貌したひろしは、自分の名前さえ思い出せなくなりました。




