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憑依戦々  作者: N
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第十四話 名前を呼ぶ者

六ノ火に感情と記憶を食われたひろしは、自分の名前さえ思い出せないまま、人間の姿を失いました。黒い毛並みと紫炎をまとう巨大な狼へ変貌した彼を救うため、傷の癒えない春馬と、命環の反動に苦しむりかは病院を飛び出します。しかし二人の声が届くより早く、六ノ火はひろしの魂に残された最後の境界まで呑み込もうとしていた。




第十四話「名前を呼ぶ者」


一月一日、午後五時四十三分。


割れた鏡の前に、黒い巨体の狼が立っていた。床へ散らばった無数の破片には、紫色の炎を漏らす毛並みと、額へ黒く焼きついた「六」の印が幾重にも映っている。


狼は鏡に映る姿を確かめようと前脚を伸ばしたものの、そこに人間の指は残っていなかった。鋭い爪が触れた瞬間、鏡の破片は乾いた音を立てて砕け、映っていた異形の顔まで細かな欠片となって床へ広がっていく。


ここが自分の帰る場所だったという感覚だけは、消えかけた記憶の底に残っていた。しかし壁へ掛けられた衣服も、棚へ並んだ書物も、机の上に置かれた車の鍵も、今の狼には用途のわからない物体にしか見えない。


「俺は……誰だ」


狼がかすれた声で問いかけると、その言葉が部屋へ消えるより早く、頭の奥から六ノ火の声が染み出した。


――名など必要ない。お主は我であり、我はお主であるゆえ、過去を求める必要もない。


「違う。俺には名前があったはずだし、忘れちゃいけない相手もいた」


狼は六ノ火へ抗いながら、記憶の底へ意識を沈めていった。そこには自分へ必死に呼びかける青年と、涙を堪えながら手を伸ばす赤髪の女性が浮かんだものの、二人の顔は黒い靄に覆われ、名前を思い出す前に崩れてしまう。


――忘れれば苦しみは消える。友を妬んだことも、愛する者に選ばれなかった痛みも、すべて我が食ろうてやる。


「それを決めるのは、お前じゃない」


狼が怒りに任せて床を踏みつけると、四本の爪痕が板を引き裂き、その下のコンクリートにまで達した。六ノ火は反論せず、代わりに額の印を強く脈打たせ、残された人間の意識を獣の衝動へ沈めようとする。


腹の奥から耐え難い飢えが湧き上がると、周囲にいる人間の感情が匂いとなって流れ込んできた。隣室に住む男の苛立ち、階下で一人暮らしを続ける老人の寂しさ、道路を歩く人々の不安まで鮮明に感じ取れ、そのすべてが目の前へ置かれた食事のように思えてくる。


――外へ出て食らえばよい。苦しみを抱えた人間から感情を奪えば、お主の飢えも奴らの痛みも消える。


狼の前脚が玄関へ向かいかけたが、扉まで数歩という場所で止まった。理由も、その判断を教えた人物も思い出せないものの、今の姿で外へ出れば誰かを傷つけるという恐怖だけは、六ノ火にも食い尽くされず残っている。


その時、机の下へ落ちていたスマートフォンが小さく震えた。割れた画面には「赤井春馬」という名前が表示されており、その四文字を見た瞬間、狼の胸へ刃を突き立てられたような痛みが走る。


「赤井……春馬」


名前を口にすると、雪の上で血を流す青年の姿が一瞬だけよみがえった。自分は倒れた青年の傷を必死に押さえ、助けを呼びながら何度も「死ぬな」と叫んでいたはずなのに、記憶の中の顔は六ノ火が広げた黒い影に食われて消えていく。


――忘れよ。その男こそ、お主から大切なものを奪った者であろう。


「違う。あいつは……俺の……」


最後の言葉が出てこないまま、狼はスマートフォンへ前脚を伸ばした。人間だった頃と同じように画面へ触れようとしたものの、力の加減ができず、鋭い爪が端末を貫いて振動を止めてしまう。


自分の手で、わずかに残っていたつながりを壊してしまった。その事実を理解した瞬間、怒りと絶望が同時に噴き上がり、黒い毛並みの隙間からあふれた紫炎が部屋を内側から破裂させた。


窓ガラスと壁の一部が吹き飛び、周囲の住民から生まれた恐怖が黒い霧となって狼のもとへ集まってくる。六ノ火はその感情を取り込みながら勢力を強めたが、同時に放たれた異様な気配は、遠く離れた病院にいるりかの左手へも届いていた。



午後五時四十六分。


病室で眠っていたりかは、左手の「二」に走った痛みで目を覚ました。紫乃を通じて流れ込んできたのは、飢えや怒りに覆われながらも、誰かを傷つけまいと必死に踏みとどまっている魂の苦しみだった。


「ひろし君が危ない。まだ抵抗しているけど、六ノ火との境界がほとんど消えかけてる」


りかが起き上がると、隣のベッドで眠っていた春馬も目を開けた。枕元のスマートフォンには何度もひろしへ発信した履歴が残っているが、一度も応答はなく、最後の通話も途中で切れたままになっている。


「俺が止めるべきだった。少し距離を置きたいって言われた時、あいつを一人にしちゃいけなかったんだ」


春馬は自分を責めながら車椅子へ移ろうとしたが、右太腿の傷が開きかけ、包帯へ新しい血がにじんだ。それでも動きを止めようとしない春馬へ、塚原は険しい表情を向ける。


「待つのじゃ、その体で戦えると思うておるのか。今のお主が無理に力を使えば、ひろしを助ける前に倒れるぞ」


「戦いに行くんじゃない。あいつが自分の名前を忘れたなら、思い出すまで俺が呼び続ける」


春馬が車椅子へ腰を下ろしたところで病室の扉が開き、四宮と三冬が入ってきた。三冬は治療を受けた右腕を固定していたが、りかの命環によって致命傷を免れたため、自分の足で歩ける程度には回復している。


「森田ひろしと六ノ火の境界は、すでに測定できません」


四宮が数枚の紙を浮かべると、そこには何度計算し直しても形を保てない二つの円が描かれていた。ひろしを示していた円は六ノ火の円へ呑み込まれ、別々の存在として定義できない状態に近づいている。


「測定できないだけで、ひろしの魂が消えたわけじゃないんだろ」


春馬が問い詰めると、四宮は曖昧な希望を与えないよう慎重に言葉を選んだ。


「魂の消滅は確認されていません。しかし森田ひろしという個人の輪郭を維持できる時間が、どれほど残されているかは確認できません」


りかは点滴の針を抜こうとしたが、命環の反動が残る腕には力が入らず、指先が震えていた。その状態を感じ取った紫乃は、意識の奥から無理をしないよう制止する。


「今のお主が覚醒融合を使えば、三冬を救った時よりも多くの命を失うかもしれぬ。ひろしと六ノ火の境界が見えぬ以上、二ノ火で無理に分ければ、ひろしの魂まで傷つける恐れがあるのじゃ」


「それでも一緒に行くよ。力を使えなくても、ひろし君の名前を呼ぶことはできるから」


りかは自分で立つことを諦め、四宮が用意した車椅子へ移った。春馬も止めようとはせず、同じように傷ついた二人が並ぶ様子を見た三冬は、困ったような笑みを浮かべながら病室の扉を開ける。


「怪我人二人を連れて狼退治とは、僕も随分と無茶な仕事へ付き合わされるようになりましたねえ。ただし、今回は斬るためではなく連れ戻すために行くのですから、勝手に死なれると困りますよ」


「それはこっちの台詞だ。助けてもらったばかりなのに、また倒れるなよ」


春馬が言い返すと、三冬は冗談で受け流さず、固定された右腕へ視線を落とした。六ノ火の力を知る自分にも責任があると考えているのか、その目には普段の軽さとは異なる覚悟が宿っている。



午後六時九分。


春馬たちが到着した集合住宅では、三階の一室から紫色の炎が漏れ出していた。炎は外へ燃え広がろうとせず、部屋の内側で何かを押さえつけるように渦巻いており、その中心から人間とも獣とも判断できない荒い呼吸が聞こえてくる。


「住民は避難を終えています。現時点で致命的な被害は確認されていませんが、周囲から感情を吸収する範囲は拡大を続けています」


四宮は階段を上がりながら、壁や床へ紙を貼りつけて六ノ火の影響範囲を測定していた。上へ進むほど怒り、嫉妬、孤独といった感情が濃くなり、それらが自分自身のものと区別できないほど強く胸へ流れ込んでくる。


りかの中には、ひろしの気持ちへ答えを出せなかったことへの罪悪感が生じていた。自分が曖昧な態度を取ったから追い詰めてしまったのではないかと考えかけた時、その思考を察した紫乃が強く否定する。


「六ノ火は罪悪感を利用し、お主まで支配しようとしておる。ひろしの苦しみを軽んじてはならぬが、その心を奪った責任まで背負う必要はない」


「わかってる。今は私の答えを伝える時じゃなくて、ひろし君を取り戻すことだけ考える」


りかが呼吸を整えた直後、三階の一室から玄関の扉が吹き飛んだ。塚原と三冬がそれぞれ刀を抜いて破片を払い、四宮は紙の壁を広げて春馬とりかの車椅子を守る。


黒い炎が収まると、壊れた玄関の向こうから巨大な狼が姿を現した。額には「六」の印が刻まれていたが、紫色の瞳の奥には、獣のものとは異なる苦しみがわずかに残っている。


「ひろし、迎えに来たぞ」


春馬が真っすぐ名前を呼ぶと、狼の体が大きく震えた。六ノ火はその反応を押し隠すように紫炎を噴き上げ、前脚を振りかぶって春馬の頭上へ鋭い爪を落とす。


塚原が刀を構えたものの、春馬は攻撃しないよう片手を上げて制した。振り下ろされた爪は春馬の顔へ触れる寸前で止まり、狼の前脚は自分の意思に逆らうように激しく震えている。


「やっぱり、お前は俺を殺せない。名前も顔も思い出せないなら、どうして手を止めたんだよ」


春馬が逃げずに問いかけると、狼の喉から苦しげな声が漏れた。六ノ火の低い唸りへ人間の声が重なり、二つの存在が同じ口を奪い合っている。


「なぜ……殺せぬ。お前は、誰だ」


「赤井春馬だ。お前が何度も助けて、何度も文句を言いながら、それでも見捨てなかった友達だよ」


その言葉へ反応し、狼の瞳へわずかに人間の色が戻った。雪の中で春馬の傷を押さえた記憶、壊れた車を前に言い争った記憶、くだらない話で笑った時間が、黒い炎の隙間へ瞬間的に浮かんでいく。


しかし六ノ火は、それらの記憶を残すつもりがなかった。額の印が強く輝くと、狼の頭の中へ広がった光景は黒い牙に噛み砕かれ、思い出しかけた春馬の顔も再び消されていく。


――聞くな。その男はお主を苦しめ、愛する者を奪った敵である。


「違う。春馬は何も奪ってない……俺が、言えなかっただけだ」


狼の口からひろしの言葉が漏れたことで、りかは堪え切れず前へ身を乗り出した。紫乃が体を支える感覚へ応えるよう左手の印を光らせ、狼の胸へ向かって細い紫色の糸を伸ばす。


「ひろし君、私もここにいるよ。すぐに全部思い出せなくてもいいから、まず自分の名前だけは離さないで」


「俺の……名前……」


狼が混乱すると、四宮は空中へ浮かべた紙へ「森田ひろし」と書き込んだ。文字は六ノ火の炎へ触れるたびに崩れたが、四宮は消されるより早く同じ名前を書き続ける。


「森田ひろし、二十歳。赤井春馬の友人であり、松永りかと春馬より先に出会っている。火人ではなく人間として生まれ、六ノ火との契りによって現在の姿へ変化しました」


四宮が事実を一つずつ読み上げるたび、狼の呼吸が乱れていった。六ノ火は名前を否定できても、実際に積み重ねられた過去のすべてを同時に消すことはできず、ひろしの魂へ残された小さな境界が再び形を取り始める。


「俺は……森田……ひろし」


ひろしが自分の名を言い切ると、狼の胸元から人間の右手が一瞬だけ浮かび上がった。六本の黒い筋が刻まれたその手へ、春馬とりかは同時に腕を伸ばす。


「そのまま手を伸ばせ。今度は絶対に離さないからな」


春馬が車椅子から身を乗り出す一方、りかも震える指先へ力を込めた。あと少しで三人の手が触れようとした瞬間、狼の体内から六ノ火の咆哮が響き、集合住宅全体を激しく揺らす。


――名を取り戻した程度で、我から逃れられると思うな。


黒い炎が狼の内側から噴き出し、ひろしの右手を再び巨獣の胸へ引きずり込んだ。春馬はその手をつかもうとしたが指先は届かず、爆発した紫炎によって車椅子ごと後方へ吹き飛ばされる。


りかも壁際へ投げ出されかけたが、三冬が体を滑り込ませて受け止めた。塚原は春馬の前へ立って黒い炎を斬り払い、四宮は崩れかけた天井を紙で固定しながら、狼の内部に残る二つの魂を測り直す。


「ひろし、聞こえるなら返事をしろ!」


春馬は傷口から血を流しながらも、狼へ向かって叫び続けた。りかも息を切らしながら何度も名前を呼んだが、先ほどまで苦しんでいた巨獣はゆっくり顔を上げ、感情の消えた紫色の瞳で二人を見下ろす。


四宮の周囲へ浮かんでいた紙から、「森田ひろし」という文字が一斉に消えた。何度書き直しても名前は定着せず、六ノ火の情報だけが黒い染みとなって残されていく。


「境界が消失しました。森田ひろしの魂を、六ノ火から独立した存在として確認できません」


四宮の言葉を聞いても、春馬は名前を呼ぶことをやめなかった。しかし狼はもう反応を示さず、目の前にいる青年を友人ではなく、自分へ向けられた感情を持つ獲物として見つめている。


六ノ火が口を開くと、周囲へ漂っていた恐怖や悲しみが黒い霧となって吸い込まれた。飢えをわずかに満たした狼は、春馬たちへとどめを刺すことなく身を翻し、壊れた窓から夜の住宅街へ飛び出していった。


塚原と三冬は追おうとしたが、春馬が血のにじむ手で床をつかみながら呼び止めた。今の六ノ火を攻撃すれば、内部に残っているかもしれないひろしの魂まで傷つけるため、誰も迷わず刀を振るうことはできなかった。



午後六時二十七分。


雪の降り始めた山道を、黒い狼が歩いていた。住宅街で見せた迷いも苦しみも消え、その足取りには獲物を求める獣の意志だけが残されている。


春馬という名も、りかという名も、すでに狼の中では意味を持たなかった。人間だった頃の自分に何があったのかを考えることもなく、遠くから漂ってくる怒りや孤独の匂いだけを追い続けている。


――ようやく一つになったな。


六ノ火が満足そうに告げると、狼はもう反論しなかった。かつて「森田ひろし」と呼ばれていた魂は、声を上げることも、自分の名を思い出すこともできず、六ノ火の奥深くへ沈んでいる。


山道の先へ新たな感情の匂いを感じ取った狼は、前脚へ力を込めて走り出そうとした。しかし一歩を踏み出すより早く、進路を塞ぐように白い刀を持った人影が現れた。


その影は雪の中を歩いてきたわけではなく、最初からそこに存在していたように立っていた。長い銀色の髪と白い着物の周囲では透明な炎が揺れており、空間そのものが人影を認識するまでに遅れを生じている。


「遅い」


人影が発した声は空気を震わせず、六ノ火の意識へ直接刻み込まれた。狼は本能的な警戒から牙をむき、紫炎を全身へまといながら正体を問いかける。


「何者だ。なぜ我の前へ立つ」


人影は質問に答えず、手にした白い刀をわずかに傾けた。それだけの動作で周囲の雪が形を失って崩れ、狼と人影の間にあったはずの距離まで不自然に縮んでいく。


「器は、まだ壊れていない」


その言葉に、六ノ火の奥へ沈められた何かがわずかに反応した。怒りでも恐怖でもなく、すでに失われたはずの自分を見つけられたような感覚が生まれ、狼の右前脚が一度だけ震える。


「何を知っている」


六ノ火が唸ると、人影は白い刀の鍔へ指を掛けた。透明な炎の中で金色の右目が開き、その視線は狼の外側ではなく、内部へ呑み込まれた魂だけを見つめている。


「回収する。次に壊れるのは名前ではなく、その者の存在そのものだからな」


白い刀が鞘からわずかに抜かれたが、刃鳴りは聞こえなかった。それでも山道を覆う空間には巨大な裂け目が走り、六ノ火は初めて明確な恐怖を覚えて後退する。


狼の中に残されたひろしの魂も、その力へ反応するようにかすかに震えた。しかし目の前の存在から感じられるものは救いではなく、春馬やりかの呼びかけとも異なる、より根源的で冷たい意志だった。


六ノ火が紫炎を噴き上げると、人影も白い刀を完全に引き抜いた。透明な炎と黒紫の炎が向かい合った瞬間、雪の降る山道からあらゆる音が消え、世界そのものが二つの火の衝突を恐れるように静止した。


自らを「最初の一ノ火」と名乗った存在は、金色の右目を細めながら狼へ刀を向けた。その表情にはひろしを助けようとする優しさも、六ノ火を憎む怒りもなく、失われかけた何かを自分の所有物として取り戻そうとする冷たい執着だけが浮かんでいた。


――第十四話・完――


第十四話をお読みいただきありがとうございます。春馬たちの呼びかけによって、ひろしは一度だけ自分の名前を取り戻しましたが、六ノ火は残された境界を呑み込み、四宮にも魂を個別の存在として確認できない状態になる。完全に六ノ火となった狼の前へ現れたのは、自らを「最初の一ノ火」と名乗った謎の存在彼が口にした「回収」が何を意味するのか、ひろしの魂が本当に消えてしまったのかは、まだ確認できません。

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