第五話 三つの穴
山を下り、ようやく日常へ戻れるはずだった春馬たち。ところが病院へ向かう途中、車のタイヤに三つの穴が開く。朝靄の中から現れたのは、酒と女性を愛する軽薄な青年。三ノ火・沖田三冬と一ノ火・塚原一が、ついに対峙する。
第五話「三つの穴」
一月一日、午前五時十二分。
山頂の社を出た春馬たちは、雪の残る山道を下っていた。
りかは意識を失ったまま、春馬の背中に負われている。
ひろしが数歩先を歩き、スマートフォンの明かりで足元を照らしていた。
ひろし「春馬、まだ大丈夫か?」
春馬「大丈夫」
ひろし「さっきから、それしか言ってねえぞ」
春馬「じゃあ、絶好調」
ひろし「嘘つけ。足、震えてるじゃん」
春馬「寒いだけ」
春馬は背中のりかを背負い直した。
りかの両腕が、春馬の首元で力なく揺れる。
春馬「病院まで、あとどれくらい?」
ひろし「車まで十分くらい。そこから麓の病院まで三十分」
春馬「遠いな……」
塚原「代わろうか?」
春馬「代われるの?」
塚原「無理じゃ」
春馬「だったら言うなよ!」
ひろし「何? 塚原さん?」
春馬「代わろうかって」
ひろし「幽霊に背負えるわけないだろ」
塚原「誰が幽霊じゃ!」
春馬「自覚なかったの?」
塚原「ワシは憑依者じゃ!」
春馬「似たようなもんだろ」
塚原「まるで違う!」
春馬は背中のりかを気遣い、声を落とした。
春馬「うるさい。りかが起きるだろ」
塚原「先に騒いだのは、お主じゃ」
その時。
春馬の首元に、かすかな吐息が触れた。
りか「……春馬?」
春馬が足を止める。
春馬「りか?」
りかの指先が、春馬の服を弱くつかんだ。
りか「ここ……どこ?」
春馬「山を下りてる。もうすぐ車だよ」
りか「私……」
社での出来事を思い出したのか、りかの体が震え始める。
春馬「大丈夫」
りか「でも、私……春馬に刀を……」
春馬「俺は何ともない」
りか「頬に傷がある……」
春馬「こんなの、猫に引っかかれたのと同じだって」
りか「ごめんなさい……」
春馬「りかが謝ることじゃない」
りか「でも、私の手が……」
りかの声が涙で途切れる。
春馬は歩きながら、りかを支える腕へ少しだけ力を込めた。
春馬「今は何も考えなくていいから」
りか「……うん」
春馬「病院に着くまで寝てろ」
りか「寝たら、また体を取られそうで怖い……」
春馬は足を止めた。
いつもなら「大丈夫」と簡単に答えていた。
しかし今度は、その言葉を口にできなかった。
次も助けられる保証はない。
塚原にも、紫乃を完全に抑える方法はわからない。
春馬「じゃあ、起きてていいよ」
りか「でも、重いよね?」
春馬「重くない」
りか「本当に?」
春馬「りか一人くらい余裕」
りか「……ありがとう」
りかは春馬の背中へ、そっと頬を寄せた。
春馬の顔を見ることはできない。
それでも今だけは、離れたくなかった。
春馬はりかの気持ちに気づかないまま、再び歩き始める。
ひろしは二人の少し前を歩きながら、何も言わずに笑っていた。
◇
午前五時二十四分。
一行は駐車場へ到着した。
ひろしが後部座席のドアを開ける。
春馬は、りかをゆっくりと座席へ寝かせた。
りか「春馬……」
春馬「何?」
りかは春馬の袖をつかんだまま、離そうとしない。
りか「隣にいてほしい……」
春馬「俺、前に乗るけど」
りかの指が、ゆっくり離れていく。
りか「そうだよね。ごめんね」
春馬「何で謝るんだよ」
春馬は助手席へ向かいかけた。
しかし、りかの不安そうな顔を見て足を止める。
春馬「ひろし。俺、後ろに乗る」
ひろし「最初からそうすればいいだろ」
春馬「何、その言い方」
ひろし「別に」
春馬は、りかの隣へ座った。
りか「いいの?」
春馬「一人だと怖いんだろ」
りか「……うん」
春馬「病院に着くまでだからな」
りか「うん」
りかは膝の上で両手を重ねた。
本当はもう一度、春馬の袖をつかみたかった。
けれど迷惑だと思われるのが怖くて、できなかった。
車が動き始める。
窓の外では、雪の積もった木々がゆっくりと後ろへ流れていった。
◇
車内には、暖房の音だけが響いていた。
りか「ごめんなさい……」
春馬「何が?」
りか「私のせいで、二人まで巻き込んだから……」
ひろし「俺は春馬に巻き込まれたんだけど」
車内が静かになる。
ひろし「まあ、そういうことだから。りかちゃんが謝る必要はないよ」
りか「ありがとう」
ひろし「気にしないで。退院したら飯でもおごって」
春馬「少しは遠慮しろよ」
ひろし「命懸けで助けに行ったんだぞ」
春馬「お前、途中で吐いてただけじゃん」
ひろし「山道に弱いんだよ!」
りかが小さく笑った。
春馬が隣を見る。
春馬「何?」
りか「二人は仲がいいなと思って」
春馬「悪いよ」
ひろし「最悪」
ほぼ同時に答える。
りかは、もう一度笑った。
その表情を見て、春馬の肩から少しだけ力が抜ける。
りか「春馬」
春馬「ん?」
りか「手、見せてもらってもいい?」
春馬は右手を差し出した。
手の甲には、紫色の「一」の印が残っている。
りかは自分の左手を見る。
そこには「二」の印が刻まれていた。
りか「消えないね……」
春馬「塚原。これ、どうやったら消える?」
塚原「確認できぬ」
春馬「相変わらず役に立たないな」
塚原「古より伝わる火であっても、ワシが知ることなど限られておる」
りか「塚原さんは、何て?」
春馬「わからないって」
りか「そう……」
りかの表情が曇る。
春馬「心配するな」
りか「でも、紫乃さんはまだ私の中にいる」
春馬「わかるの?」
りかは胸元へ手を添えた。
りか「眠っているみたい。でも、時々、悲しい気持ちが流れてくるの」
春馬「また出てきそう?」
りか「わからない……」
春馬「もし出てきても、俺が何とかする」
りか「春馬は、すぐそういうことを言う」
春馬「何か変?」
りか「自分が危ないのに……」
春馬「俺には塚原がいるから」
塚原「便利な時だけ頼るでない」
りか「でも、塚原さんが必ず守ってくれるとは限らないよ」
春馬「じゃあ、りかが守ってくれる?」
冗談のつもりだった。
りかは驚いたように春馬を見る。
りか「私が?」
春馬「昨日みたいに」
りかの左手には、紫色の刃を握った傷が残っている。
りか「私……怖くて、何もできないと思う」
春馬「昨日はできたじゃん」
りか「春馬が斬られそうだったから……」
春馬「だったら、次も頼むよ」
りか「……うん」
りかは小さくうなずく。
冗談だとわかっている。
それでも春馬に必要とされたことが、嬉しかった。
春馬はそれ以上の意味を考えず、窓の外へ目を向けた。
山道を抜け、車は片側一車線の県道へ入った。
辺りには民家も街灯も少ない。
道路の両側には、枯れた田畑が広がっている。
その時。
ガタン――!
車体が大きく揺れた。
りか「きゃっ!」
りかの体が横へ傾く。
春馬は反射的に、その肩を抱き寄せた。
春馬「大丈夫?」
りか「う、うん……」
キュルルルル――。
車の後方から、何かを引きずる音が聞こえる。
ひろし「嘘だろ……」
ひろしがハンドルを握り、車を路肩へ寄せた。
ゆっくりと停車する。
春馬「何?」
ひろし「たぶん、パンク」
春馬「こんな時に?」
ひろしはハザードランプを点灯させた。
規則正しい点滅が、薄暗い車内をオレンジ色に照らす。
カチ。
カチ。
カチ。
りかが春馬の服をつかむ。
春馬「どうした?」
りか「嫌な感じがする……」
春馬「紫乃さん?」
りか「違う」
左手の「二」の印が、かすかに光っていた。
塚原が車の後ろを見つめる。
その表情から、先ほどまでの緩さが消えた。
塚原「ひろし。車外へ出るな」
春馬「え?」
ひろしは、すでにシートベルトを外していた。
ひろし「何?」
春馬「塚原が、外に出るなって」
ひろし「どうして?」
春馬「わからない」
ひろし「タイヤを見ないと、病院に行けないだろ」
りか「ひろし君、待って」
普段より強い声が出た。
ひろしが振り返る。
りかは胸の前で両手を握り、震えていた。
りか「何かいる気がする……」
ひろし「何かって?」
りか「わからない。でも、さっきから見られてるような……」
ひろしは車外を見る。
誰もいない。
朝靄のかかった道路。
枯れた田畑。
遠くに立つ、一本の電柱。
ひろし「タイヤを見るだけ。すぐ戻るから」
春馬「俺も行く」
ひろし「りかちゃんのそばにいろよ」
ひろし「一分で戻る」
ひろしはドアを開けた。
冷たい風が車内へ吹き込む。
バタン。
ドアが閉じる。
りかの指が、春馬の袖を強くつかんだ。
春馬「大丈夫。すぐそこだから」
りか「……うん」
春馬は窓越しに、ひろしの姿を追った。
ひろしは車の後方へ回り、右後輪の前へしゃがみ込む。
ひろし「何だ、これ……」
タイヤの表面に、三つの穴が開いていた。
偶然とは思えないほど、等間隔に並んでいる。
まるで鋭い刃で、同時に突き刺したような穴だった。
ひろし「釘じゃない……」
背後で、砂利を踏む音がした。
ジャリ。
ひろしの動きが止まる。
ゆっくり振り返ろうとした瞬間。
若い男の声が、すぐ耳元で聞こえた。
男「いやあ、惜しかったですねえ」
ひろしの顔から血の気が引く。
ほんの一瞬前まで誰もいなかった場所に、一人の青年が立っていた。
年齢は二十代半ばほど。
病的なほど白い肌。
肩へ届く黒髪を無造作に結んでいる。
黒い着物姿。
腰には一本の刀。
右手には、木製のひょうたん型徳利から伸びる紐が握られていた。
口元には、人懐こい笑みが浮かんでいる。
青年「あと少し深く刺していれば、走っている途中で横転してましたよー」
ひろし「誰……?」
青年「僕ですか?」
青年は徳利の栓を抜き、酒を口へ流し込んだ。
車内で、りかの左手にある「二」の印が強く輝く。
春馬の右手にある「一」の印も呼応した。
塚原「下がれ、ひろし!」
春馬「ひろし、逃げろ!」
春馬がドアを開ける。
その声に反応し、青年の視線が動いた。
青年の目が、春馬の隣に立つ塚原を正確に捉える。
青年「あれ?」
その笑みが深くなる。
塚原「貴様、何者じゃ」
青年は嬉しそうに両手を広げた。
青年「塚原さーん。噂は聞いたことありますよー」
塚原の目が鋭くなる。
青年「千の門下生を惨殺した、ヤバい奴ってね」
春馬「こいつ……塚原が見えてる」
青年「それにしても、何なんですか、その話し方」
塚原「何?」
青年「貴様とか、ワシとか、お主とか」
青年は徳利を揺らしながら、楽しそうに笑う。
青年「僕、あなたでいいのに。そんな古臭い話し方、今は流行らないですよー」
塚原「ふざけた若造じゃ」
青年「ほら、それです。若造じゃなくて、若者でいいじゃないですか」
塚原「同じであろう」
青年「全然違いますよ。女性から受ける印象が」
青年の視線が車内のりかへ移る。
青年「それにしても、きれいな人ですねえ」
りかは怯えたように春馬の背後へ身を寄せる。
ひろしが少しずつ車へ下がる。
青年は見ていないように見えた。
しかし次の瞬間。
鞘に納まっていたはずの刀が、ひろしの喉元へ突きつけられていた。
誰にも、刀を抜いた瞬間が見えなかった。
青年「動かない方がいいですよ」
笑顔のまま、青年は告げる。
青年「僕、逃げる男には容赦しないので」
ひろし「いつ……抜いた……?」
青年「さあ?」
春馬「ひろしから離れろ!」
青年「おや」
青年の視線が春馬へ移る。
青年「威勢がいいですねえ」
その目は、笑っていなかった。
青年「でも、僕が会いに来たのは君じゃない」
刀の切っ先が、塚原へ向けられる。
青年「会いたかったですよー。一ノ火・塚原一」
塚原「ワシを知っておるのか」
青年「もちろん」
塚原「ならば、名乗れ」
青年「そういえば、まだでしたね」
青年は刀を鞘へ戻した。
カチン。
右手の徳利を持ち上げ、まるで酒宴の席にいるように頭を下げる。
青年「三ノ火――沖田三冬」
右目が紫色に染まる。
右手の甲に、漢数字の「三」が浮かび上がった。
三冬「女好き、酒好き、面倒事は大嫌い」
三冬は人懐こい笑顔で、塚原を見つめた。
三冬「強い人と斬り合うのは、大好きなんですよ」
塚原「なぜ、ワシを狙う」
三冬「あなたが本当に、噂どおりの男か知りたいからです」
塚原「噂?」
三冬「たった一人で千人を斬った、史上最悪の剣鬼」
春馬「塚原は殺してない!」
三冬「おや」
三冬の視線が春馬へ動く。
三冬「君は、そう教えられたんですか?」
春馬「事実だ」
三冬「事実ねえ」
三冬は徳利を傾け、残った酒を飲み干した。
三冬「この世で一番当てにならない言葉ですよ、それ」
空になった徳利が、紐の先で揺れる。
三冬「誰かを守るための嘘も、長く語られれば事実になる」
塚原の眉がわずかに動いた。
春馬「どういう意味だ?」
三冬「さあ?」
三冬は笑った。
三冬「僕、昔話には興味ないんですよねー」
塚原「貴様から振った話であろう!」
三冬「古い話を長々されると、酔いが冷めるじゃないですか」
塚原「やはり、ふざけた若造じゃ」
三冬は空の徳利を道路脇へ放り投げた。
風が止まる。
雪の上を流れていた朝靄さえ、動きを止めたように見えた。
三冬の右手が、刀の柄へ触れる。
塚原「春馬、下がれ」
春馬「え?」
塚原「来るぞ」
三冬「さて」
腰を低く落とす。
先ほどまでの軽薄な雰囲気が、一瞬で消え去った。
細められた目。
わずかに前へ出た右足。
鞘の中で、刀が紫色の光を帯びる。
三冬「僕の名前を覚えても、仕方ないと思いますけどねえ」
春馬「どういう意味だよ」
三冬の口元へ、再び笑みが浮かんだ。
三冬「全員、ここで死ぬので」
青年の姿が、その場から消えた。
春馬「消えた……?」
次の瞬間。
三冬は塚原の背後に立っていた。
誰にも、抜刀した瞬間は見えなかった。
塚原の白い羽織が、肩口から静かに裂ける。
遅れて紫色の血が宙へ散った。
春馬「塚原!」
ひろし「いつ斬ったんだよ……」
三冬は血の付着した刀を眺め、子供のように笑った。
三冬「さすがですねえ」
塚原「何がじゃ」
三冬「今ので首を落とすつもりだったんですよ」
塚原は切られた肩へ手を当てる。
三冬「ちゃんと急所だけは避けている」
塚原「ずいぶんと、物騒な挨拶じゃな」
三冬「挨拶?」
三冬は刀を正眼に構えた。
全身から、紫色の火が立ち上る。
その背後に、三本の光の刀が浮かび上がった。
三冬「まだ始まってもいませんよ」
朝靄が紫色に染まる。
三冬「僕と一度、斬り合ってくださいよ」
笑顔を浮かべた三冬の目だけが、獣のように塚原を捉えていた。
三冬「あなたが本当に千人を斬れるほど強いのか――」
三本の刀の切っ先が、塚原へ向けられる。
三冬「僕が確かめてあげます」
――第五話・完――
第五話をお読みいただき、ありがとうございます。三ノ火・沖田三冬が登場しました。軽薄で人懐こく、酒と女性を好む一方、刀を握れば誰にも動きを捉えさせない剣士です。次回、塚原と三冬の戦いが始まります。春馬とりかの変化にも、ぜひご注目ください。




