第十九話 優しい過去
九条翡翠の意識へ接続したりかが辿り着いたのは、両親が命を落とした事故現場だった。そこにいたのは九条翡翠と、りかが叔母として信じ続けてきた女性。しかし記憶の中にいるはずの彼女は、現在のりかたちを認識していた。「あなた誰」――りかが問いかけた瞬間、長い年月をかけて隠されていた存在が、ついに正体を現す。
第十九話 優しい過去
九条翡翠の意識へ接続したりかが辿り着いたのは、両親が命を落とした事故現場だった。そこにいたのは九条翡翠と、りかが叔母として信じ続けてきた女性。しかし記憶の中にいるはずの彼女は、現在のりかたちを認識していた。「あなた誰」――りかが問いかけた瞬間、長い年月をかけて隠されていた存在が、ついに正体を現す。
一月一日、午前十時四十一分。
「叔母さん?……いや、あなた誰」
雨音の中へ投げた言葉に、叔母はすぐには答えなかった。濡れた髪を頬へ張りつかせたままりかを見つめ、その視線だけをゆっくりと春馬、塚原へ移したあと、最後にもう一度りかへ戻してくる。
その顔には見覚えがある。子供の頃から何度も会い、両親を失ってからも気にかけてくれた叔母そのものなのに、今目の前にいる女から感じるものだけが、りかの記憶とどうしても重ならなかった。
「その聞き方……嫌だなぁ。さっきまで普通に電話してたじゃない」
声まで同じだった。
りかが黙ったまま見つめていると、叔母は困ったように眉を下げる。その仕草さえ、りかが何度も見てきたものだった。
「お正月だから電話しただけなのに、急にそんな顔されると傷つくよ。りか、小さい頃はもっと素直だったでしょう?」
「私のことを知ってるから叔母さんだって言うなら、もう信じない。ここが翡翠の記憶の中なら、私のことを知る方法なんて他にもあるでしょ」
叔母の笑みが僅かに止まった。
その瞬間、りかの意識の奥で紫乃の気配が鋭くなる。
『よいぞ、りか。そのまま奴の目を見よ。言葉ではない、揺らぎを見るのじゃ』
りかは小さく息を吸った。
「それに、叔母さんは九条翡翠を知らない。少なくとも私には、一度もそんな話をしたことがない」
叔母の横顔から、穏やかな表情が消えていった。
少し離れた場所に立つ九条翡翠は何も言わず、九つの紫色の紋を顔の前へ浮かべたまま二人を見つめている。叔母が翡翠へ目を向けると、その口元がほんの少しだけ歪んだ。
「余計なものを残したのね、九条」
その一言で空気が変わった。
りかの内側から紫乃の声が響く。
『下がれ!』
りかが後方へ飛んだ瞬間、叔母の足元から黒紫色の線が一斉に広がった。雨に濡れた道路を這った線は巨大な術式を形成し、その中心へ「七」を崩したような紋が浮かび上がる。
春馬がりかの前へ出た。
「七……?」
叔母は自分の足元を見て、もう隠す必要もないと判断したのか、小さく肩をすくめた。
「そう。七ノ火」
りかの喉が詰まった。
叔母の声で、叔母の顔をした女が、自分は別人だと告げている。
「じゃあ……本当の叔母さんは?」
その問いに、七ノ火はすぐには答えなかった。
わずかな沈黙が、りかにとっては何より残酷だった。
「答えてよ」
「……この身体の持ち主なら、とっくにいないよ」
りかの顔から表情が消えた。
七ノ火は自分の腕へ目を落とすと、濡れた袖をゆっくりと捲った。露わになった皮膚には無数の黒い亀裂が走り、指先からは灰のようなものが少しずつ剥がれ落ちている。
「人間の身体って脆いんだよね。まして、この人には火を受け入れる素質がほとんどなかった。それでも十一ノ火から役目を与えられた以上、途中で捨てるわけにもいかなかったから」
りかは呟いた「七重…七重叔母さん…」
「私の役目はね…あなたを見ていること」七ノ火は笑った。
「近くで、ずっとね」
りかの中で何かが切れた。
◇
現実の観測室では、りかの左手にある「二」が突然激しく発光した。
四宮の装置が警告音を鳴らし、接続状態を示していた数値が一気に跳ね上がる。椅子に座っているりかの身体から紫色の炎が噴き出し、床を這うように周囲へ広がっていった。
「まずい……感情に二ノ火が引っ張られている」
四宮が出力を落とそうと操作する一方、春馬も接続装置の中で拳を握り締めていた。
意識を共有しているため、りかが感じているものが春馬にも伝わってくる。
怒りだけではない。
悲しみ、悔しさ、恐怖。
そして、自分が叔母だと思っていた相手との時間そのものを汚されたような感覚。
それらが一度に押し寄せ、りかの理性を押し流そうとしていた。
◇
「殺す……」
りかの口から漏れた声を聞いた瞬間、紫乃が意識の内側から強引に身体を押さえた。
『ならぬ!』
「離して!」
『ならぬと申しておる!』
「叔母さんを殺したんだよ!」
りかの右目まで紫色へ染まり、二ノ火の炎が両腕を包んでいく。七ノ火へ飛びかかろうとする身体を紫乃が内側から止めたことで、りかはその場から一歩も動けず、怒りの行き場を失った炎だけが周囲の雨を蒸発させていった。
「ずっと……ずっと叔母さんの顔で私の近くにいたんだよ! お母さんの話もして、私のこと心配してるふりして……!」
『分かっておる』
「紫乃には分からない!」
『分かるわ!』
その一喝で、りかの身体が震えた。
紫乃の感情が一気に流れ込んでくる。大切な者を奪われた記憶と取り戻せなかった者への後悔。
四百年経っても消えなかった怒り。
りかが今抱えているものとは同じではない。それでも紫乃もまた、怒りに自分を喰われる苦しさを知っていた。
『怒れ。泣け。憎めばよい。妾はそれを止めぬ。されど、その怒りに己を渡すでない。お主が己でなくなれば、奴らの思う壺じゃ』
「でも……!」
『りかよ。お主は一人ではないと、妾に申したであろう』
りかは唇を噛み、涙を流しながら七ノ火を睨み続ける。
「……許さない」
『うむ』
「絶対に許さない。でも……私のままでいる」
『それでよい』
七ノ火は二人のやり取りを眺めながら、つまらなそうに首を傾けた。
「二ノ火とそこまで馴染んでるんだ。やっぱり、もっと早く壊しておけばよかったかな」
春馬の表情が変わった。
それまでりかの前へ立っていた春馬が、ゆっくり七ノ火へ向き直る。
「今、何て言った?」
「聞こえなかった?」
七ノ火は笑みを戻した。
「もっと早く壊しておけばよかったって言ったの」
春馬は答えなかった。
右手に刻まれた「一」が紫色に輝き始める。
塚原が横へ並ぶ。
「春馬」
「ああ」
それだけで十分だった。
塚原にも、春馬が何をしようとしているのか分かっている。
「ワシも同じ気持ちじゃ。じゃが先ほど紫乃が申したことを忘れるでないぞ」
「分かってる」
春馬は七ノ火から目を離さなかった。
「頭にきてる。でも、暴れるために力を借りるんじゃない」
塚原の口元が僅かに上がる。
「ならば貸そう」
春馬が右手を握った。
「頼む」
塚原の身体が紫色の炎へ変わった。
炎は春馬を包み込むように渦を巻き、そのまま胸、肩、両腕へ吸い込まれていく。髪が紫炎に揺れ、右目だけでなく両目が鮮烈な紫色へ染まった。
覚醒融合。
七ノ火の表情から笑みが消えた。
「……一ノ火」
踏み込んだ瞬間には、もう七ノ火の目前にいた。
「速――」
最後まで言わせない。
七ノ火が印を結ぼうとした右腕を春馬が掴み、そのまま身体ごと地面へ叩きつけた。雨水が爆ぜ、道路に巨大な亀裂が走る。
七ノ火は反対の手で術式を展開しようとするが、春馬はその動きを見てから止めたのではない。
手が動く前に、刀の柄で腹部を打ち抜いた。
「がっ……!」
身体が宙へ浮いたところへ、春馬がさらに踏み込む。
七ノ火は数十メートル先まで吹き飛ばされ、事故車の残骸を突き破って地面を転がった。
「春馬!」
りかが思わず呼ぶが春馬は振り返らない。
それでも声は聞こえていた。
「大丈夫。殺すためにやってない」
塚原の声が春馬の内側から重なる。
『吐かせるのじゃろう』
「ああ」
七ノ火が瓦礫の中から立ち上がった。
しかし身体の損傷は、攻撃によるものだけではなかった。
右頬から亀裂が広がっている。
皮膚が乾いた土のように崩れ、その下から人間のものではない紫色の光が漏れ出していた。
「やっぱり……この身体、もう駄目か」
七ノ火は崩れていく右手を眺め、どこか他人事のように呟いた。
りかはその姿から目を逸らせなかった。
叔母の顔が壊れていく。
「叔母さん……」
七ノ火がりかを見る。ほんの一瞬だけ、その瞳が揺れた。
「期待しない方がいいよ。この人の意識なんて、とっくの昔に消えてる」
りかの表情が歪んだ。
春馬の紫炎が一気に膨れ上がる。
「お前……!」
『春馬!』
塚原の声で、春馬は踏み出しかけた足を止めた。
七ノ火はその様子を見て笑った。「いいね。その顔が見たかった」
「何が目的だ」
春馬の声から軽さが完全に消えていた。
七ノ火は崩れ始めた身体を支えながら、りかへ視線を戻した。
「私は十一ノ火に言われて、この人へ入った。九ノ火から枝分かれした陰陽の術を使う七ノ火なら、人間の暮らしに紛れるのは難しくないからね」
紫乃がりかの内側で反応する。
『九ノ火の分家……』
「そう。私たちは九条の本家から枝分かれした陰陽術師。表に出ることはほとんどなかったけど、術そのものは受け継いできた」
七ノ火の首元にも亀裂が走った。
声を出すたびに、叔母の身体が少しずつ灰へ変わっていく。それでも七ノ火は話すことをやめなかった。
「この人は器のはずなんだけど歳だからかな?すぐ壊れちゃった。」
りかの瞳が揺れる。
「……七重叔母さん」
名前を口にした途端、幼い頃の記憶が次々と蘇った。
一緒に食べた夕食。母と喧嘩した時に泊めてもらった夜。両親を失って泣く自分の背中を、何も言わず撫で続けてくれた手。
それらすべての中に七ノ火がいたのか、それともどこかまでは本当の七重だったのか。りかにはもう分からない。
春馬の姿が消えた。
次の瞬間、七ノ火の喉元へ刀が突きつけられていた。刃先が皮膚へ触れ、亀裂の奥にある紫色の光が揺れる。
春馬は低い声で告げた。
「全部話せ」
七ノ火は刀を見下ろしながら、楽しそうに笑った。
「一ノ火って、こんなに怖かったんだ」
「次にふざけたら斬る」
塚原の声が混じったことで、張り詰めた空気の中でもりかの口元がほんの少しだけ動いた。
それを見た春馬は何も言わなかったが、紫炎が僅かに静まる。七ノ火だけが、その変化をじっと見ていた。
「……本当に厄介だね、あなたたち」
七ノ火は小さく息を吐いた。「でも遅いよ」
春馬の目が細くなる。「何がだ」
七ノ火は答えず、りかを見た。
印も結ばず、呪文も唱えない。ただ、笑っている。
「私はね、りかを監視するためだけに七重へ入ったんじゃない」
りかの左手が突然熱を持った。
「……っ!」
「りか!」
春馬が振り返る。りかは胸元を押さえた。皮膚の下を細い虫が這うような感覚が、胸から首、左腕へ広がっていく。紫乃が即座に二ノ火を流し込むが、異変は消えない。
『何じゃ、これは……!』
七ノ火が笑った。「ようやく気づいた?」
りかの首筋に細い黒色の線が浮かび上がる。
何十本もの細い線が皮膚の下から現れ、ゆっくりと左手の「二」へ集まり始めた。
春馬が七ノ火の胸ぐらを掴んだ。「何した!」
「今日じゃないよ」七ノ火は苦しそうにしながらも笑っていた。「昨日でもない」身体の亀裂が胸元まで広がる。「ずっと前から」
りかの頭の中へ、忘れていた日常が次々と流れ込んできた。叔母に髪を触られた日。
眠っている間に額へ手を置かれた夜。
風邪を引いた時に飲ませてもらった薬。
誕生日にもらった小さなお守り。
どれも不自然ではなかった。だから疑うことなどなかった。
「呪いは一晩でかけるものじゃない。特に二ノ火へ繋がる人間を壊したいなら、身体にも魂にも気づかれないよう、少しずつ馴染ませる必要がある」
「何年……?」りかの声が震える。七ノ火は答えなかった。その沈黙だけで十分だった。紫乃が初めて焦りを露わにする。
『りか、妾へ身体を預けよ! 今すぐじゃ!』
「嫌……」
『強がっておる場合ではない!』
「違う」りかは苦痛に耐えながら首を振った。
りかは左手を強く握った。「私の身体だから私も残る。紫乃一人にやらせない」
一瞬の沈黙のあと、紫乃が低く笑った。『……頑固者め』
その様子を見た七ノ火の顔から、初めて余裕が消えた。春馬が七ノ火へ向き直る。
恐怖を与えたはずだった。信じていた叔母を奪ったと知らせ、長年呪われていた事実まで突きつけた。
それでも壊れない。りかの隣には紫乃がいる。そして目の前には春馬と塚原がいる。「……だから十一は嫌がってたのか」その呟きを塚原は聞き逃さなかった。
『春馬、聞け。まだ殺すでない』
「ああ」春馬は刀を下ろさないまま七ノ火を睨む。
「十一ノ火は、りかの何を知ってる」七ノ火の唇が動いた。しかし声が出るより早く、胸の中央に亀裂が走った。
「……時間切れか」身体が内側から崩れ始める。
七重の顔が灰となり、風に混じって消えていく。
りかが思わず手を伸ばした。
「待って!」
七ノ火はそんなりかを見つめた。
「その顔……七重に見せてあげたかったな」
「え……?」
「最後まで心配してたよ。自分より、あなたのことを」
りかの目が大きく開いた。「叔母さんの意識……残ってたの?」七ノ火は答えなかった。
ただ一度だけ、七重がいつもそうしていたように優しく笑った。
身体が完全に崩れる。春馬が刀を振り抜いた。
紫色の斬撃が七ノ火の魂だけを捉え、崩壊する七重の肉体から紫色の影を引き剥がした。
「塚原!」
『承知!』
一ノ火の炎が影を包み込む。
七ノ火は最後に何かを言おうとしたが、声になる前に紫炎へ呑まれ、その姿は無数の光となって消えていった。
残された七重の身体も、もう形を保てなかった。
灰が雨の中へ舞う。りかはその場へ膝をついた。
「……叔母さん」
紫乃は何も言わなかった。
今は言葉を重ねる時ではないと分かっていた。
春馬も覚醒融合を解き、りかのそばへ歩いてくる。何か慰めの言葉を探したものの、簡単に口にできるものなど見つからず、結局少し離れた場所へしゃがみ込んだ。
りかは灰が消えていく雨空を見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて涙を拭い、左手を見た。黒い線は消えていない。七ノ火が消滅しても、長い年月をかけて刻まれた呪いだけは、りかの身体に残っていた。
「紫乃」
『ここにおる』
「これ、消せる?」
紫乃はすぐには答えなかった。
二ノ火の力を流し込み、黒い線の奥を探るほど、その表情は険しくなっていく。『……今すぐには無理じゃ』りかは目を閉じた。
『じゃが諦めるでない。妾がおる。必ず方法を探す』
「うん」
消えたはずの七ノ火の術式が、雨に濡れた地面でもう一度だけ光った。
中央に浮かび上がった「七」の紋が崩れ、その下から別の数字が現れる。
十一。
紫乃が息を呑む。術式から霜月士郎の声が響いた。『七ノ火、ご苦労だった』春馬が立ち上がる。
『呪いは十分に育った』
りかの左手に刻まれた黒い線が脈打った。
『あとは二ノ火が目覚めれば――器は完成する』
「……器?」
りかが呟いた瞬間、術式は消えた。
雨だけが残る。
春馬はりかの前へ立ち、地面から消えた「十一」の跡を睨み続けていた。
そして誰にも聞こえないほど低い声で、ただ一言だけ呟いた。
「霜月士郎……」
その名を呼ぶ春馬の両眼には、消えたはずの紫色の炎が再び灯っていた。
ーー第十九話・完ーー
いつも読んで頂きありがとうございます。
りかの叔母が長年に渡り憑依されていた事実を知り怒りの感情を抑えられなくなるりか。春馬の中では叔母を傷つける事はできない。そんなりかの気持ちがわかっていたのかもしれません。それと同調するように曲がった事は嫌いな塚原。遂には覚醒し一瞬で決着がつきました。
しかし本当の目的はりかへの呪いをかける事。
この先りかはいったいどうなってるかしまうのか。




