第十七話 黒籠
六ノ火を自らの内側へ呑み込んだひろしは、火人に支配された器ではなく、六ノ火そのものの性質を取り込んだ覚醒融合へと到達していた。しかし記憶と感情を失ったその状態では、得た力を制御する術は存在せず、ただ本能のままに街へと降り立ち、そこに満ちる負の感情を求め続けることで、次第に人としての輪郭すら失い始めていく。その異常な変質を最初に捉えたのは、天元零士であった。
第十七話「黒籠」
一月一日、午前九時四十二分。
市街地の中心にそびえる十二階建ての雑居ビル、その屋上にひろしは立っていた。転落防止の柵からわずかに距離を取り、言葉を発することもなく、遥か下方で行き交う人々の流れを見下ろしている。
元日の朝であっても駅へ続く大通りは人で溢れていた。初詣を終えた家族連れが紙袋を提げて歩き、初売りへ向かう若者たちは笑い声を交わしながら横断歩道を渡っていく。飲食店では従業員が開店準備に追われ、車列は途切れることなく道路を埋めていたが、ひろしの意識はその表層的な賑わいではなく、その奥に沈んだ感情の層へと向けられていた。
笑顔で歩く男は、仕事で自分より先に評価された同僚への嫉妬を胸の奥に押し込めている。隣を歩く妻は育児を自分に任せきりにする夫への不満を微笑の裏に隠し、恋人と並ぶ若い男は、いつか捨てられるのではないかという不安を抱えたまま歩いている。それらは本人にとっては言葉にするほどのものではない感情であったが、六ノ火を取り込んだひろしの感覚には、それらすべてが街の底から立ち上る黒い煙のように明確な形を持って映っていた。
かつてのひろしであれば、その一つ一つに理由を探ろうとしただろう。なぜ怒るのか、なぜ悲しむのか、誰に向けられた感情なのかを考え続けたはずだった。しかし今の彼には、その過程に意味を見出す意識そのものが失われている。
必要なのはただ一つ、この街に負の感情が存在しているという事実だけであった。
ひろしはゆっくりと目を閉じ、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。肺が限界まで膨らんでもなお吸気を止めることはなく、肩が持ち上がり、肋骨が軋むほどの深さで街の気配を取り込んでいく。
それは単なる空気ではなかった。街の下層に滞留する怒りや嫉妬、悲しみといった感情の粒子までもが、吸い寄せられるようにひろしの内側へ流れ込んでいく。
限界まで取り込んだところで、ひろしは静かに目を開いた。
その瞳はすでに紫へと染まり、右手の甲に刻まれた円形の紋章からは黒い筋が手首を越えて腕へと伸びている。
ふっ!短く息を漏らしたのち、ひろしは呼吸を止めたまま両腕をゆっくりと広げ、掌を空へ向けるように開いた。その姿勢は、街全体を抱え込むかのようであった。
その瞬間、周囲の空気から風が消失する。
厳密には風そのものが止まったわけではない。しかし耳に届いていた車の走行音や人々の声が急速に遠のき、街全体がひろしを中心に沈み込んだかのような異様な静寂へと包まれていく。
数秒後、その静寂を破るようにして、人々の身体から黒紫色の粒子が浮かび上がり始めた。
最初は煙のように細い流れであったそれは、十人、二十人、百人と増えるにつれて互いに絡み合い、やがて一本の巨大な濁流となって空へと昇り、ひろしのいる屋上へと収束していく。
そこに含まれているのは、怒りや嫉妬だけではなかった。言葉にできなかった罪悪感、報われない焦燥、愛する者へ向けてしまった一瞬の憎悪、そのすべてが同じ色へと混ざり合い、形を失ったまま流れ込んでいく。
その全てが、ひろしの内部へと吸収されていった。
歩道を歩いていた男が突然足を止め、そのまま力を失ったように膝から崩れ落ちる。駆け寄ろうとした女性も数歩進んだところで意識を失い、道路脇へと倒れ込んでいく。
異変は連鎖するように広がっていった。交差点では信号待ちの人々が次々と倒れ、悲鳴を上げた者も数秒後には同じように崩れ落ちる。車道では運転手が意識を失い、制御を失った車両が衝突を繰り返し、金属音と破砕音が連続して響き始めた。
その混乱の中で生まれた恐怖や混乱さえも、新たな負の感情としてひろしへと吸い上げられていく。悲しみは悲しみを呼び、怒りは怒りを増幅させ、そのすべてが循環するようにひろしの力へと変換されていった。
ひろしが力を使うほどに人々は倒れ、人々が倒れるほどに負の感情は増幅し、それがさらにひろしへと還元される。その循環には終わりが存在せず、またそれを止める意思も、今のひろしの中には存在していなかった。
右腕を覆っていた黒い筋は肩へと達し、さらに首筋へと這い上がっていく。紫の光を帯びた血管が皮膚の下で脈動し、指先の爪は徐々に鋭さを増し、肩や背中の筋肉は人間の骨格の限界を超えるように膨張していった。
その顔立ちはまだ森田ひろしのものであったが、そこから受ける印象はすでに人間のそれではなかった。
膨大な負の感情を取り込むたびに、内側の空白は埋まるのではなく、むしろ力そのものへと置き換えられていく。記憶も感情も失った器の中へ、人間が隠してきた醜悪な側面だけが際限なく流れ込み、それは新たな人格を形成するよりも早く、肉体を異形へと変質させていた。
ひろしは呼吸を止めたまま、ゆっくりと顔を上げる。
そこに苦しさはなかった。むしろこれまでにないほど身体が軽く、満たされているという感覚だけがあった。
◇
その異変を、街から離れた高層ビルの屋上で見下ろしている者がいた。
白い髪を風に揺らしながら柵に背を預ける青年。その金色の瞳は細められ、右手の掌には円形の「零」の紋が刻まれている。
天元零士であった。
ひろしが力を解放した瞬間から、その存在はすでに彼の感知の範囲にあった。距離は離れていても、街全体を覆うほどの異常な力の膨張は明白であり、理解するまでもなく異質であった。
黒紫の感情が空へと集束していく光景を眺めながら、天元の口元がわずかに緩む。
「……また新しいオモチャができたじゃないか」
その声に焦りや警戒はなく、純粋な興味だけが含まれていた。
春馬を初めて見たときとは異なる種類の興味であった。あの青年には未知の可能性があったが、今目の前で暴走している存在は、すでに完成された破壊そのものとして成立している。
しばらく観察したのち、天元はわずかに首を傾ける。
「力そのものは悪くない。だが、それではただの獣だな。六ノ火を取り込んだ意味が、ただの暴走で終わるなら興醒めだ」
人々から負の感情を吸い上げ続けるひろしを見下ろしながら、天元は顎に指を当てる。
「器としての適性は十分だが、自我による制御がない以上、現段階では未完成だな。……調整には時間が必要か」
その言葉に失望は含まれていなかった。むしろ、扱いづらい存在をどう調律するかという思考そのものを楽しんでいる様子であった。
天元は柵から身体を離し、ひろしのいる方向へと一歩踏み出す。
その足元には地面が存在しない。しかし落下することもなく、まるで透明な階段を踏むようにして、彼は空中を進み始めた。
一歩ごとに距離は不自然なほど縮まり、やがてひろしのいる雑居ビルへと接近していく。
その途中で、ひろしの放つ妖気が突如として方向を変えた。
天元が足を止めた直後、黒紫の奔流が空間そのものを押し潰すようにして襲いかかる。進路上のビルの窓は次々と破砕し、外壁の看板は吹き飛び、空間が歪むような圧力が天元へと迫った。
天元は即座に右腕を掲げ、掌の「零」を金色に輝かせる。展開された防御膜が妖気を受け止めるが、その瞬間、彼の表情がわずかに変わった。
金色の膜に亀裂が走る。
次の瞬間、黒紫の力が防御を貫通し、天元の身体は弾き飛ばされた。数十メートル、さらに百メートル以上を一瞬で吹き飛ばされ、後方のビルへと叩きつけられる。
外壁は大きく陥没し、コンクリート片が周囲へと散乱した。
瓦礫の中で天元はしばらく動かなかったが、やがて左手だけで壁を掴み、ゆっくりと上半身を起こす。
その時になって初めて、自身の右半身が大きく損壊していることに気づく。切断というよりも、巨大な爪で抉り取られたように肉が消失し、胸から腹にかけて深い裂傷が走っていた。
右腕はほとんど機能していない。
通常であれば立ち上がることすら困難な損傷であった。
天元はその傷を見下ろし、しばし沈黙したのち、小さく息を漏らす。
「……想像以上だな」
その口元がゆっくりと持ち上がる。
「はは……これは、本当に六ノ火を呑み込んだだけの存在なのか」
笑いは次第に大きくなり、やがて抑えきれないものへと変わっていく。
「はははははは!」
半身を失いながらも、天元は楽しげに笑い続けていた。
「いいな。これは面白い。春馬以外にも、ここまでのものが出てくるとはな」
笑いながら顔を上げたその瞬間、彼の表情がふと止まる。
遥か彼方の雑居ビルの屋上。通常であれば視認すら不可能な距離であるにもかかわらず、紫の視線と金の視線が確かに交錯していた。
天元の笑みがわずかに歪む。
「……来るか」
次の瞬間、ひろしの姿が屋上から消失した。
天元が反応するよりも早く、黒紫の残像が視界を埋め尽くし、次の瞬間にはひろしの拳が目前に迫っていた。
左腕で受ける判断は間に合わない。
拳は天元の側頭部を直撃し、その身体は再びビル内部へと吹き飛ばされる。机や棚を巻き込みながら床を転がり、反対側の壁へと激突した。
それでも終わらない。
ひろしは穴を抜けて室内へと侵入する。歩みは速くないが、その圧力は逃走という選択肢そのものを否定していた。
天元は左手で床を支え、辛うじて顔を上げる。
その瞬間、ひろしの拳が振り上げられた。
しかし振り下ろされる直前、天元の姿は空間から消失する。
拳は床を貫き、建物全体が大きく揺れた。
ひろしが視線を上げると、遥か上空に天元の姿が浮かんでいる。息はわずかに乱れ、先ほどまでの余裕は薄れていた。
「……このままでは成立しないな」
静かに呟きながら、天元は右肩の傷跡へ手を当てる。金色の光が広がり、損壊した肉体が瞬く間に再生していく。骨が繋がり、筋肉が戻り、皮膚が再構築される。
数秒後には完全に修復されていた。
天元は肩を軽く回し、感触を確かめる。
「何度も受けるのは面倒だな」
視線の先では、ひろしが再び跳躍の構えを取っていた。
その瞬間、天元もまた両手を構える。指を組み合わせ、胸の前で印を結ぶと、黒い光と金の術式が同時に発現した。
「――黒籠」
空が黒くそまり巨大な影が出現した。幾重にも組まれた漆黒の格子が落下していく。金色の術式がその表面を走り、空間そのものを封じる檻が形成される。
ひろしは上を見上げる。
紫の瞳に巨大な影が映り込む。
轟音とともに黒籠が落下し、ひろしの身体を完全に封じ込めた。
天元は空中からその様子を見下ろしながら静かに言葉を落とす。
「大人しくしていろ。今のお前では、制御の有無すら判別できない」
檻の中でひろしは俯いたまま動かない。
天元がわずかに目を細める。
次の瞬間、黒籠が揺れた。
ひろしの拳が格子へと叩きつけられる。金色の術式が明滅し、二撃目を放つがびくともしない。
ゆっくりと顔を上げたひろしの瞳は紫に染まり、黒い紋様が頬まで達している。
「さて君は極炎で大人しくしていなさい。」
天元が左手をかざすと空間が切り裂かれ中には漆黒の空間闇…目を凝らすとその奥に小さく揺れる赤い炎がみえる。
天元の口がゆっくり開く
「全て終わらせる…」
ーー 第十七話 完 ーー
第十七話お読み頂きありがとうございました。
六ノ火を飲み込み自分を無くしていくひろしは次々と街の人間から負の感情を吸い上げていきます。その場に現れる天元。覚醒融合したひろしの力は天元の想像を遥かに超えていた。しかし天元はひろしを拘束する檻を発動させて封じましたが極炎とはなんなのか、そして全てを終わらせると言う言葉の真相に迫っていきます。
是非次回十八話ご期待ください。




