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憑依戦々  作者: N
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第十六話 喰らう側

最初の一ノ火を打ち破った塚原は、師の力と四百年前の記憶を受け継ぎました。一方、六ノ火はひろしとの覚醒融合を完成させるため、気配を消して山中へ潜んでいます。融合を防ぐために負傷した体でも動こうとする春馬と、これ以上傷ついてほしくないと願うりかの間には、互いを思うからこそ埋められない溝が生まれ始めていました。




一月一日、午後七時十一分。


最初の一ノ火が紫色の粒子となって消えたあとも、塚原は雪の降る山道で刀を握り続けていた。刃を包む紫炎には透明な光が混ざっており、力を込めていないにもかかわらず、周囲へ落ちる雪は刀身へ触れる前に細かな蒸気となって消えていく。


四宮は複数の紙を塚原の周囲へ浮かべ、力を受け継ぐ前後の変化を測定していた。以前の塚原は春馬の肉体を借りなければ現実へ十分に干渉できなかったが、今は憑依していない状態でも雪を踏み、刀で地面へ傷を刻むことができている。


「塚原一の存在密度が上昇しています。春馬への憑依を必要とせず、単独で肉体に近い状態を維持できるようになったと考えられます」


四宮の報告を聞きながら、塚原は刀を横へ振った。紫炎は斬撃となって木々の間を走ったものの、太い幹へ触れる寸前で左右へ分かれ、奥に積もった雪だけを細く切り開いていく。


「力は増しておるが、まだワシの意思に馴染んでおらぬ。師匠が使っていた透明な炎と、ワシの紫炎が互いを押し合っておるようじゃ」


「その割には、ずいぶん器用に木避けたじゃん。前のおっさんなら山ごと斬ってから説教を始めてただろ?」


車椅子に座った春馬が軽口を返すと、塚原は険しい顔で振り向いた。しかし反論するより早く、春馬が右太腿を押さえて息を詰めたため、刀を収めて傷の状態へ視線を向ける。


春馬の包帯には、病院を出た時より濃い血がにじんでいた。集合住宅と山道で何度も無理に動いたことで縫合した傷が再び開きかけており、冷えた体からは血の気も失われている。


「貴様は他人の力を論じる前に、己の体を見よ。今の状態で六ノ火へ近づけば、刀を抜くより先に倒れるぞ」


「倒れるかどうかは、ひろしを見つけてから考える。六ノ火が覚醒融合を始めてるなら、休んでる時間なんてないだろ」


春馬は車椅子の車輪へ手を掛け、山道の奥へ進もうとした。四宮が六ノ火の正確な位置を測定できていない以上、闇雲に動いても意味がないと理解していたが、何もせず待つことには耐えられなかった。


りかは春馬の前へ回り込み、車椅子の車輪を両手で押さえた。命環を使った反動によって彼女の顔色も青白く、立っているだけで呼吸が浅くなっていたが、それでも春馬を先へ行かせるつもりはない。


「今の春馬は連れていけないよ。一度病院へ戻って傷を処置してもらってから、四宮さんが場所を見つけるまで待とう」


「その間に融合が完成したらどうするんだよ。最初の一ノ火は、何があっても防げって言ったんだぞ」


「だからって、今の体で何ができるの。ひろし君を助ける前に春馬が倒れたら、私たちは二人とも失うことになるんだよ」


りかは穏やかに説得しようとしたものの、最後の言葉には抑え切れない恐怖がにじんでいた。県道で斬られた春馬を抱き締め、止まらない血の中で死を覚悟した時の感覚が、今も両手に残っている。


春馬も、りかが自分を心配していることは理解していた。だからこそ強く言い返したくなかったが、ひろしが暗闇の中で一人きりになっていると思うと、傷の痛みより焦りの方が大きくなっていく。


「ひろしは俺たちが来るのを待ってるかもしれない。記憶を全部食われても、あいつは俺の声に反応したんだ」


「待っているなら、なおさら助けられる状態で行かなきゃ駄目だよ。気持ちだけで六ノ火を止められるなら、もうひろし君は戻ってきてる」


りかの言葉が正しいことは、春馬にもわかっていた。しかし正しさを受け入れれば、今この瞬間に苦しんでいる友人を置き去りにするように感じられ、車椅子の肘掛けを握る手へ力が入る。


「お前には、わかんねーだろ!」


春馬の声が雪の山道へ響くと、りかの肩がわずかに震えた。春馬自身も口にした直後に後悔したが、胸からあふれた焦りを止めることができなかった。


「ひろしは俺が呼ばなきゃ戻れないかもしれないんだ。あいつがどんな気持ちで六ノ火に呑まれてるのか、お前にはわかんねーだろ!」


りかは何かを言い返そうとして口を開いたものの、声にはならなかった。ひろしの気持ちへ答えられなかった自分が、彼を助けたいと主張することさえ、春馬には身勝手に見えているのではないかと思ってしまう。


「……ごめん」


りかは小さく謝ると、車椅子から手を離した。春馬は謝ってほしかったわけではなく、顔を伏せたりかへすぐに言葉を続けようとしたが、その左手にある「二」の印が強く輝いたため息をのむ。


「りか、何をするつもりだ。今のお主が再び命環を使えば、どれほど命を削られるかわからぬぞ」


紫乃の声が意識の奥から響いても、りかは左手の光を消さなかった。春馬を止めても一人で進もうとするなら、せめて傷のない状態へ戻すことしか自分にはできないと考えている。


「紫乃、お願い。春馬の傷を治す間だけ、力を貸して」


「妾が拒めば、諦めるのか。先ほど二人で決めると約束したばかりであろう」


「諦められないよ。春馬がこのまま行ったら、本当に死んじゃうかもしれないから、今は私にできることをさせて」


紫乃はりかの恐怖と決意を同時に感じ取り、すぐには返事をしなかった。力を貸さなければ、りかは別の方法で春馬を追うと理解しており、完全に止めることもできない。


「一瞬だけじゃ。傷を閉じたら、何が残っていても必ず融合を解くのじゃぞ」


「うん、約束する。春馬を治したら、すぐに戻るから」


りかが目を閉じると、左手の印が二重の円へ変わった。赤い髪の一部が銀紫色に染まり、右目へ紫乃の光が宿ると、熱を持たない炎が春馬の車椅子を包み込んでいく。


「二ノ火・覚醒融合――命環」


りかと紫乃の重なった声が響いた瞬間、春馬の体を紫色の光輪が通り抜けた。開きかけていた右太腿の傷は内側から塞がり、血に濡れていた包帯の下では裂けた筋肉と皮膚が一瞬で元の形へ戻っていく。


肩や脇腹に残っていた傷も同時に消え、失われていた体温と力が春馬の手足へ戻った。立つことさえ難しかったはずの体は、車椅子からすぐに起き上がれるほど回復していたが、その代わりにりかの顔から血の気が急速に引いていく。


「何してんだよ! そんなことしたら、おま……」


春馬は回復した足で立ち上がり、倒れかけたりかの肩を抱き止めた。傷が消えた喜びより、腕の中で急激に冷えていく彼女の体への恐怖が勝り、最後まで言葉を続けられない。


「わかってる! それでも……私……」


りかは息を乱しながら春馬の胸元をつかんだ。覚醒融合を使えば命が削られることも、春馬が望んでいないことも理解していたが、目の前で彼が再び血を流しながら進む姿だけは見たくなかった。


「私には、これしかできないから……。戦えないし、ひろし君の場所も見つけられないけど、春馬の傷なら治せるから……」


「だからって、自分の命を使うなよ!怒鳴ってでも止めればよかっただろ!」


「止めても、春馬は行くでしょ。ひろし君を見つけるまで、何度傷が開いても進むってわかってるから、治すしかなかったの!」


二人の声は互いを責めているようでありながら、どちらも相手を失うことへの恐怖から生まれていた。春馬はひろしを置いて戻ることができず、りかは春馬を傷ついたまま行かせることができないため、どちらか一方が折れて解決できる問題ではなかった。


「お前まで倒れたら、俺はひろしを助けても喜べないんだよ!」


「春馬だって同じじゃない! 自分が死んでもひろし君を助けるつもりなのに、私だけ命を懸けるなって言うのはずるいよ!」


りかが涙をこぼしながら叫ぶと、春馬は返す言葉を失った。自分も友人のためなら命を差し出そうとしているため、りかの行動だけを間違いだと責めることはできない。


塚原は二人を止めようと一歩近づいたが、受け継いだ刀が突然低く鳴った。透明な光を帯びた紫炎が意思を持つように震え、六ノ火が消えた山の奥ではなく、春馬とりかの間へ集まった感情へ反応している。


「待て、何かがおかしい。六ノ火の気配ではないが、辺りへ別の力が広がっておる」


四宮も異変を察知し、空中へ複数の紙を展開した。春馬、りか、塚原、紫乃の反応はそれぞれ確認できたものの、少し離れた闇の中に、本来存在しないはずの人間の反応が現れている。


「新たな境界を確認しました。森田ひろしに近い反応ですが、同時に六ノ火との一致率が急速に低下しています」


「それは、ひろし君が六ノ火から離れ始めたということですか?」


三冬が尋ねても、四宮はすぐに肯定しなかった。六ノ火の反応が弱まっているのではなく、何かに内側から押し潰され、存在そのものを覆われていくような変化が起きている。


「確認できません。しかし六ノ火の気配は、急速に消失しています」


四宮が答えた瞬間、山道を照らしていた車のライトが一斉に消えた。りかの左手からあふれていた紫色の光も、塚原の刀を包んでいた炎も黒い闇へ呑まれ、全員の姿が見えなくなる。


春馬は腕の中にいるりかを引き寄せ、暗闇の中で周囲を見回した。木々の揺れる音も、降り続けていた雪の感触も消え、耳の奥では高い音だけが細く響き始めている。



同時刻。


光の届かない場所で、ひろしは一人きりになっていた。自分の体があるのか、目を開いているのかさえわからず、冷たい闇の中で呼吸をするたび、胸の奥へ重い痛みだけが残っていく。


――抗うな。お主は我であり、我はお主じゃ。


六ノ火の声は以前より遠くなっていた。ひろしの記憶を食らい、名前も春馬やりかの顔も奪ったはずなのに、その声には完成を目前にした余裕ではなく、何かを恐れるような焦りが混じっている。


「暗い……」


ひろしは自分の声が出たことにも気づかず、見えない手を前へ伸ばした。何も触れないまま指先の感覚が消え、どちらへ進んでも同じ闇へ戻される。


少し離れた場所から、誰かの声が聞こえた。男が怒鳴り、女が涙をこらえながら言い返しているものの、その二人が誰なのかも、なぜ胸が痛むのかも思い出せない。


――ひろしを助けたい。


――春馬を死なせたくない。


二つの感情が闇へ流れ込んだ瞬間、六ノ火が歓喜するように息を吸った。友を失う恐怖、愛する相手へ理解されない悲しみ、自分だけが何もできないという絶望は、六ノ火にとって覚醒融合を完成させるための力になるはずだった。


――見よ。あの者たちも互いを傷つけておる。人の思いなど、最後には怒りと悲しみへ変わるだけじゃ。


六ノ火は春馬とりかからあふれた感情を取り込み、ひろしの魂を覆おうとした。しかし流れ込んできた感情の奥には、怒りや悲しみより強いものが隠れている。


春馬はひろしを見捨てられないからこそ、りかの制止を拒んだ。りかは春馬を失いたくないからこそ、自分の命を削って傷を治した。二人は衝突しながらも、自分ではなく誰かを守ろうとしている。


「苦しい……」


ひろしの胸へ、理由のわからない痛みが広がった。自分には向けられなかったはずの強い思いが二人の間にあると感じ、かつて抱いていた嫉妬と孤独が、記憶を失った魂の底からよみがえってくる。


――そうじゃ。その苦しみを我へ渡せ。全てを食らえば、お主はもう何も感じずに済む。


六ノ火が近づくほど、闇は濃くなった。春馬とりかを思い出せないまま、それでも二人のつながりだけを感じ取ってしまい、自分が入り込める場所など最初からなかったように思えてくる。


「暗い……暗い……苦しい……」


ひろしは頭を抱え、聞こえてくる二人の声を消そうとした。春馬へ怒鳴られて傷ついたりかの感情も、りかが命を削ったことで恐怖する春馬の感情も、六ノ火を通じて自分の中へ流れ込んでくる。


その全てが、自分には与えられなかったものに見えた。自分が消えても二人は互いを思い、傷つけながらも離れられず、命まで差し出そうとしているという事実が、ひろしの中へ残っていた最後の希望を押し潰していく。


「もう……いいや」


ひろしが小さくつぶやくと、六ノ火の笑い声が闇へ響いた。抵抗を諦め、覚醒融合を受け入れたのだと考え、巨大な口を開いてひろしの魂を完全に呑み込もうとする。


その瞬間、耳の奥で高い音が鳴った。


ピー――。


耳鳴りに似た音は次第に大きくなり、六ノ火の声も、春馬とりかの感情も、ひろし自身の苦しみさえ白く塗り潰していく。何も考えられなくなったひろしの中で、六ノ火が奪った無数の感情だけが一つへ集まり始めた。


六ノ火は異変に気づき、ひろしの魂から離れようとした。しかし覚醒融合のために深く入り込みすぎたことで、今度は六ノ火の方がひろしから逃れられなくなっている。


――待て。お主は我を受け入れたのではないのか。


「受け入れてないよ。もう、何も考えたくなくなっただけだ」


ひろしの声から、先ほどまでの苦しみが消えていた。春馬への嫉妬も、りかへの思いも、自分への劣等感も残っているはずなのに、その全てを自分の中へ沈め、六ノ火へ渡すことをやめている。


「お前が俺の気持ちを食うなら、今度は俺がお前を食えばいいんだろ」


六ノ火はひろしを押さえ込もうと咆哮したが、その声は途中で歪んだ。黒い狼の巨体が足元から崩れ、紫炎や牙、爪に至るまでひろしの影へ吸い込まれていく。


――やめよ。我を取り込めば、お主は人のままではいられぬ!


「人のままって、何だよ。名前も記憶も全部食ったのは、お前だろ」


ひろしが六ノ火へ手を伸ばすと、巨大な狼の額にある「六」の印が剥がれた。黒紫色の炎はひろしの右手へ集まり、皮膚に刻まれていた六本の筋を塗り潰しながら、一つの円形紋章へ形を変えていく。


「腹減ったんだろ。だったら、お前の飢えも苦しみも、全部俺が…喰らってやるよ」


六ノ火の姿が完全に崩れ、最後に残った紫色の瞳までひろしの胸へ吸い込まれた。暗闇の中から狼の気配は消え、代わりに人間の形をした影だけがゆっくり立ち上がる。



午後七時二十分。


暗闇に包まれた山道で、春馬はりかを抱き締めたまま身構えていた。塚原の姿も四宮たちの位置も見えず、近くにいるはずの三冬の呼吸さえ聞こえない。


やがて高い耳鳴りが途切れると、消えていた車のライトが不規則に明滅した。光が戻るたび、少し離れた木々の間に人影が浮かび、次に暗くなった時にはさらに近い場所へ移動している。


「誰だ。そこにいるのは、ひろしか?」


春馬が呼びかけても返事はなかった。りかは覚醒融合を解きながら顔を上げ、その人影から六ノ火とは異なる禍々しい気配が広がっていることへ気づく。


「六ノ火じゃない。紫乃も、あの狼の気配を感じないって言ってる」


「では、あそこに立っておる者は何じゃ。見た目だけなら、確かにひろしに見えるぞ」


塚原は春馬たちの前へ立ち、受け継いだ刀をゆっくり抜いた。透明な光を含んだ紫炎が辺りを照らすと、木々の間に立つ青年の姿がはっきり浮かび上がる。


そこにいたのは、ひろしだった。淡い水色の羽織に灰色の袴格好は塚原達に近い。先程まで存在した黒い狼の毛並みや牙はどこにも残っていないかった。


しかし顔が同じであることを除けば、春馬たちが知るひろしとはまるで違っていた。紫色へ染まった両目には感情がなく、右手には六本の筋ではなく、六つの爪痕を円で囲んだ新しい紋章が刻まれている。


「ひろし……なのか?」


春馬が一歩近づくと、青年はゆっくり顔を向けた。反応はあったものの、友人の声を聞いた喜びも、六ノ火に支配されていた時の怒りも見せず、初めて見る相手を観察するように春馬を見つめている。


四宮の紙が一斉に青年の周囲へ集まり、存在する魂の数を測定した。何度計算しても六ノ火の反応は現れず、検出されるのは森田ひろし一人だけだった。


「六ノ火の存在を確認できません。憑依、融合、接続のいずれを測定しても、森田ひろしの内部に独立した六ノ火の反応は存在しません」


「だったら、ひろし君が六ノ火から戻ったってことですか?」


りかが尋ねると、四宮は紙へ浮かぶ異常な数値を見つめた。ひろしの魂からは、六ノ火が持っていた感情吸収と同じ性質が検出されているにもかかわらず、六ノ火そのものだけが消えている。


「違います。六ノ火が森田ひろしを取り込んだのではなく、森田ひろしが六ノ火を取り込んだ可能性が高い」


四宮の言葉に、誰もすぐには反応できなかった。覚醒融合とは二つの存在が互いを受け入れて一つになるものだと聞いていたが、片方がもう片方を完全に呑み込み、力だけを奪う現象など想定されていない。


塚原は刀を構えながら、最初の一ノ火が遺した記憶を探った。しかし四百年前にも六ノ火が人間へ呑み込まれた記録はなく、目の前で起きた現象は理解の範疇をこえていた。


「異常事態じゃ。あれは六ノ火ではないが、以前のひろしとも申せぬ」


塚原の警告を聞いても、春馬は刀の前へ出た。りかが腕をつかんで止めようとしたが、春馬は先ほど怒鳴ったことへの後悔を抱えたまま、その手を振り払うことができずに立ち止まる。


「もう勝手には行かない。でも、あいつがひろしなら、俺が話さなきゃ駄目だろ」


春馬はりかへ確かめるように告げてから、青年へ向き直った。友人を助けたい気持ちは変わっていないが、りかを置き去りにしないと態度で示そうとしている。


「ひろし、俺がわかるか。六ノ火はどうしたんだ?」


青年はしばらく春馬を見つめたあと、自分の右手へ視線を落とした。円形の紋章から黒紫色の炎がわずかに漏れたものの、すぐに皮膚の内側へ吸い込まれて消える。


「六ノ火……?」


ひろしは知らない言葉を聞いたように首を傾げた。声そのものは以前と同じだったが、間の取り方や表情には人間らしい揺らぎがなく、春馬の背中へ冷たい汗が流れる。


「そんな名前の奴は、もういないよ。うるさかったから、俺が食べた」


ひろしが静かに答えた瞬間、周囲の闇が大きく脈打った。春馬とりかからあふれていた怒り、恐怖、罪悪感が黒い粒子となって青年へ集まり、右手の紋章へ吸い込まれていく。


りかは春馬の腕をつかみ直し、今度は二人で同時に後ろへ下がった。目の前にいるのが救おうとしてきたひろしであることは間違いないが、その魂へ六ノ火の飢えと力が取り込まれ、本人にも制御できない状態になっている。


「ひろし君、私たちを覚えてる?」


りかが恐る恐る尋ねると、ひろしは初めて表情を動かした。笑ったようにも、悲しんだようにも見えたものの、その感情はすぐに消え、紫色の瞳だけが二人を映している。


「知らない。でも、さっきまで声が聞こえてた。怒鳴ったり、泣いたり、お互いを助けようとしたりして、すげーだるかった」


ひろしは一歩踏み出し、春馬とりかの前で止まった。敵意は感じられないものの、近づくだけで二人の胸から感情が吸い出され、息苦しさと強い眠気が広がっていく。


「二人の声を聞いてたら、暗くて苦しくて、全部どうでもよくなったんだ。それで気づいたんだけど、食べられるだけって、つまらないよな」


ひろしの足元から黒紫色の炎が広がり、雪の山道を円形に覆った。塚原は春馬たちを守るため刀を振り上げたが、ひろしは攻撃せず、炎を自分の影へ戻していく。


「今度は俺が食べればいい。そうしたら、誰にも何も奪われないから」


その言葉とともに、ひろしの右手にある円形紋章が完全な形へ変わった。六つの爪痕を囲む輪の中心には数字では表せない黒い空白があり、四宮の紙からは全ての測定結果が消えていく。


「森田ひろしの境界が測定できません。人間であることは確認できますが、火人としての分類も、六ノ火との融合率も数値へ変換できない状態です」


四宮が告げると、ひろしは初めて楽しそうに口元を緩めた。その笑みは春馬が知る友人のものに似ていたが、目には何の温度も戻っていない。


「森田ひろし……それが俺の名前なのか」


ひろしは自分の名前を確かめるように口にすると、春馬へ右手を伸ばした。助けを求めているのか、感情を食らおうとしているのか判断できず、塚原とりかは同時に春馬の前へ出ようとする。


しかし春馬は二人を押し退けず、その場から逃げることもしなかった。治された右脚で雪を踏み締め、差し出されたひろしの手を見つめながら、今度こそ相手の意思を確かめようとする。


「そうだ。お前は森田ひろしで、俺の友達だ」


春馬が答えると、ひろしの笑みがわずかに深くなった。次の瞬間、辺りを覆っていた闇が一斉にひろしの体へ吸い込まれ、車のライトと塚原の紫炎が元の明るさを取り戻す。


光が戻った時、ひろしの姿はすでに山道から消えていた。雪の上には人間の足跡だけが森の奥へ続き、六ノ火の爪痕も黒い狼の気配も残されていない。


春馬は追いかけようとしたが、りかの冷えた手が腕へ触れたことで足を止めた。ひろしを助けたい気持ちと、命を削ったりかをこれ以上置き去りにできない気持ちの間で揺れながら、拳を強く握り締める。


塚原は受け継いだ刀を収め、森の奥へ消えた人影を見つめた。最初の一ノ火が恐れた覚醒融合は完成しなかったものの、それよりも予測できない存在が生まれてしまった可能性を感じている。


「六ノ火は消えた。じゃが、ひろしが戻ったわけでもない」


「だったら、何度でも追いかける。あいつが俺たちを忘れてても、自分まで六ノ火みたいになろうとしてても、友達だって言い続けるしかないだろ」


春馬はりかの肩を支えながら答えた。りかも先ほどの衝突を引きずっていたが、今度は春馬を止めるのではなく、一緒にひろしを連れ戻すため、その隣に立つことを選ぶ。


「……さっかは悪かった。お前にはわからないなんて言ったけど、わかろうとしてなかったのは俺の方だった」


春馬が謝ると、りかはすぐに許すとは言わなかった。それでも春馬の服をつかんだ手は離さず、二人はひろしの足跡が続く暗い森を並んで見つめる。


その頃、山の反対側を一人で歩くひろしの耳には、六ノ火の声がもう聞こえていなかった。代わりに、街のあちこちから生まれる怒りや妬み、悲しみが鮮明な匂いとなって流れ込み、空腹とは異なる新たな欲求を呼び起こしている。


ひろしは右手の紋章を見つめながら、森の先に広がる街の灯りへ向かった。自分が何者なのかはわからなかったが、胸の奥に残る暗闇を満たす方法だけは、すでに知っているような気がしていた。


――第十六話・完――


第十六話をお読みいただきありがとうございます。最初の一ノ火を受け継いだ塚原は、春馬へ憑依せず現実へ干渉できるほど力を増しました。一方、ひろしを助けるため負傷したまま進もうとする春馬と、命を削ってでも春馬を守ろうとするりかは激しく衝突します。その感情をきっかけに覚醒したひろしは、六ノ火へ取り込まれるのではなく、六ノ火そのものを内側から呑み込みました。六ノ火の気配は完全に消えましたが、戻ってきたひろしは記憶と人間らしい感情を失い、新たな異常を抱えたまま姿を消します。

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