第9章 — 罠
破滅的な一秒間、誰も動けなかった。
マーカスは、眩しいほどに白い蛍光灯の下で、階段の途中に立ち尽くしていた。肩で荒い息を吐き、フーディーから滴る雨粒がコンクリートの床を濡らしている。
彼の視線は、イーサンに釘付けになっていた。
ウィットモアを恐れているのではない。
武装した男たちを恐れているのでもない。
――彼は、イーサンを恐れていた。
生徒が教師について知るべき「裏の顔」といえば、せいぜいコーヒーを飲みすぎているとか、本音では会議を嫌っているとか、その程度であるはずだった。
これは、あまりにかけ離れている。
銃火器。
地下の人身売買拠点。
そして、心理プロファイルで埋め尽くされた隠し部屋の中で、武装した賞金稼ぎたちの隣に立つ、自分たちの「国語教師」。
ウィットモアが微かに微笑んだ。
「おやおや、」彼は静かに言った。「これは実に『教育的』な展開だ」
サイラスがため息をついた。
「十代のガキの生存本能ってやつは、本当に大嫌いだ」
マーカスが再びイーサンを見た。
「あんた、俺に嘘をついたな」
イーサンは慎重に一歩踏み出した。
「マーカス――」
「あんた、一体何者なんだよ!」マーカスが叫んだ。
恐怖が再び、怒りの仮面を被る。
予測通りの、人間らしい反応。
かつて自分もその仮面を被っていたからこそ、イーサンにはそれが痛いほど分かった。
ウィットモアは背中の後ろで手を組んだ。
「正直に答えてやるべきだよ、ヴェイル先生」
サイラスが低く呟いた。「誰か、こいつを撃ってくれないか。頼むから」
護衛たちがライフルのグリップを握り直す。
逃げ場は少なく、射線は多すぎる。
イーサンの脳は、即座に可能性を計算し始めた。
戦うか? ――分が悪い。
逃げるか? ――可能だ。
マーカスを守るか? ――それだけは、譲れない。
ウィットモアは思案深げにマーカスを観察した。
「いいか、マーカス君。生徒というものは、いつだって最後には私を失望させるものだ」
マーカスは剥き出しの憎悪を込めて彼を睨んだ。
「地獄に落ちろ」
ウィットモアは動じなかった。
「だが、君は違う」彼は続けた。「君のファイルは実に印象的だった」
マーカスが瞬きをした。
「……俺の、何だって?」
ウィットモアは無造作に壁を指し示した。
「知能は高く、攻撃的。環境の不安定さにも関わらず、忠誠心は厚い。勧誘の対象としては、極めて優秀な素質だ」
イーサンの内側で何かが凍りついた。
マーカスはただの目撃者ではない。
彼もまた、「標的」だったのだ。
マーカスはゆっくりと、壁に貼られた生徒たちのファイルに目を向けた。
バラバラだった事実が、一つずつ彼の中で繋がっていく。
監視。
失踪。
そして、巧妙な操作。
「……あんたたち、狂ってる」彼は囁いた。
ウィットモアは薄く笑った。
「いや。組織化されているだけだ」
それで、十分だった。
イーサンが即座に動いた。
彼は金属製のファイルキャビネットを掴むと、横に滑らせて近くの護衛たちに叩きつけた。同時に、サイラスが発砲を開始した。
地下の事務室は、一瞬にして地獄と化した。
コンクリートの部屋に、銃声が轟音となって響き渡る。
マーカスは階段の欄干の陰に必死に身を隠し、ギデオンが入り口付近の遮蔽物から応戦した。
ウィットモアは冷静に、トンネルの奥へと後退していった。
当然だ。彼のような人間は、いつだって他人の血を先に流させる。
イーサンは一人の護衛をデスクに叩きつけ、ライフルを奪い取ると、天井の照明に向けて二発撃ち込んだ。
室内が即座に闇に包まれる。
悲鳴。
マズルフラッシュ。
混沌。
完璧だ。
「動け!」イーサンが叫んだ。
今度はマーカスも躊躇しなかった。
いい判断だ。この少年は、極限状態での学習が速い。
背後で銃弾が跳ね返る中、二人は背面の管理用廊下を全速力で駆け抜けた。
闇のどこかでサイラスが笑った。
本当に、笑っていた。
「事務仕事より、こっちの方が断然面白い!」
「あんた、本物のイカレ野郎かよ!」マーカスが走りながら叫び返す。
「プロのイカレ野郎だ!」サイラスが答えた。
彼らは錆びついたパイプが並ぶ狭いサービス用トンネルに飛び込んだ。
頭上で赤い非常灯が点滅し、地下のさらに奥からアラームの絶叫が響いてくる。
イーサンの隣で、マーカスが肩で息をしながらよろめいた。
「あんた、銃なんて持ち歩いてるのかよ!」
「今は手が離せないんだ、マーカス!」
「答えになってねえよ!」
背後で再び銃声が爆発した。
ギデオンがマーカスの背中を押した。
「走るのが先だ! 実存的危機(自分探し)は後回しにしろ!」
前方のトンネルが二股に分かれていた。
イーサンは鋭く速度を落とした。
思考。
パターン。
脱出ルート。
ウィットモアは自分たち以上にこのトンネルを熟知している。
ということは――。
「止まれ」イーサンが突如として言った。
全員が足を止めた。
サイラスが眉をひそめる。
「待ち伏せの最中に叫ぶ言葉としちゃあ、珍しいチョイスだな」
イーサンはトンネルの交差点を凝視した。
綺麗すぎる。
分かりやすすぎる。
そして、彼は見つけた。
コンクリートの壁に残された、新しい擦り傷。
最近、重機を動かした跡。
トラップ用のワイヤーだ。
「下がれ」イーサンが静かに命じた。
マーカスが困惑した顔をする。「え?」
イーサンは、通路の足首ほどの高さに張られた、ほとんど目に見えないワイヤーを指差した。
マーカスの顔から、瞬時に血の気が引いた。
「……ああ」
サイラスが小さく口笛を吹いた。
「先生はよく気がつく」
「気がつくからこそ、生きていられる」
ギデオンが慎重にトラップを無効化する間、イーサンは前方の闇をスキャンした。
その時、スマートフォンが振動した。
「非通知」。
まただ。
イーサンは足を止めずに電話に出た。
歪んだ声が、即座に語りかけてきた。
『君には失望させられっぱなしだな』
イーサンはトンネルを突き進んだ。
「お前の部下たちが死んでいるぞ」
受話器の向こうで、低く笑う声がした。
『人間は「資源」だ』
「違う」イーサンは冷たく言い放った。
「それが、私とお前の違いだ」
一瞬の沈黙。
やがて、声のトーンがわずかに変わった。
楽しげな色が消え、好奇心へと変わる。
『君は、本気で彼らのことを想っているのだな』
走りながら、マーカスがイーサンを一瞥した。
声は続いた。
『生徒たちを。見知らぬ他人を。世界が見捨てた、壊れた子供たちですらも』
イーサンはスマートフォンを握る手に力を込めた。
「レナはどこだ?」
沈黙。
やがて。
『……まだ戦っているよ』
安堵の感覚が、痛みを感じるほどに鋭くイーサンを貫いた。
生きていた。
彼女はまだ、生きている。
声は、その変化を即座に見逃さなかった。
『……ほらな』と、そっと囁く。
『それが、君の「弱点」だ』
イーサンの表情が硬化した。
「いいえ」
声はどこか満足げですらあった。
『ふむ。まだ慈悲が人を強くすると信じているのか』
前方のトンネルが、地上へと続く古い管理用階段に向かって開けていた。
出口だ。
ようやく。
イーサンはわずかに速度を落とした。
「お前、この様子を直に見ているのか?」
『当然だ』
「なら、隠れていないで姿を現せ」
静かな笑い声が電話越しに響いた。
『ヴェイル先生、君は文学を教えているんだろう? 物語の構成を誰よりも理解しているはずだ』
声が、どこか慈しむように低くなった。
『悪役というものは、こんなに早い段階では登場しないものだよ』
――プツリ。
通話が切れた。
階段を駆け上がりながら、マーカスがイーサンを見つめた。
「……今の、誰だか分かってるのか?」
「いいえ」
「分かってるような言い方だったぞ」
イーサンが答える前に、サイラスが突如として拳を挙げた。
全員が止まる。
階段の扉の向こう側から、かすかな話し声が聞こえてきた。
警察だ。
複数の警官がいる。
ギデオンが眉をひそめた。
「早すぎるぞ」
サイラスが苦々しく笑った。
「……今夜の奴らの目的は、最初から俺たちの殺害じゃなかったってことだ」
イーサンは即座に理解した。
ウィットモアの狙いは、自分たちを「発見」させること。
世間に正体を晒させること。
特に、彼を。
階段の扉が蹴破られた。
懐中電灯の光が闇を貫き、視界を奪う。
「LAPDだ! 武器を捨てろ!」
武装した警官たちを引き連れて、ナオミ・レイエス刑事が姿を現した。イーサンは硬直した。
彼女の視線が、即座にあるものを捉えた。
イーサンの手にある銃。
マーカス。
サイラスとギデオン。
そして、彼ら全員に付着した返り血。
背後の18番倉庫からは、さらに多くのサイレンがトンネルの奥まで響き渡り始めていた。
レイエスは怒りと信じられないといった表情を混ぜ合わせ、イーサンを凝視した。
「正確に10秒やるわ、」彼女はゆっくりと言った。「なぜあんたの教え子が、銃撃戦のど真ん中に立っているのか……説明しなさい」




