第九話 ロザリーと準備
復讐と聞いて、ロザリーが最初に想像したのは、もっと物騒なものだった。
けれど翌朝になっても、修道院の生活は何も変わらなかった。鐘が鳴れば起き、祈りを終え、朝食を取り、それぞれの仕事へ向かう。ヴェロニカもいつも通り食後の茶を飲み、ミレイユはパンが固いと文句を言い、テレーゼは食料庫から届いた記録を確認している。
「……何もしないのですか?」
ロザリーが尋ねると、ヴェロニカは茶器を置いた。
「何を?」
「昨日、復讐を始めると」
「ロザリーは、殴り込みの方がよかった?」
カミラが横から口を挟んだ。
「そんなことは言っていません」
「ちょっと期待してた顔してたわよ」
「していません」
「ええ。ですから、復讐はまず、敵を知るところからですわ」
「知る?」
「相手が何をしたのか分からないままでは、何をお返しすればいいのかも分からないでしょう?」
ヴェロニカにとって、復讐とは腹を立てた相手へ闇雲に害を与えることではないらしい。ロザリーを陥れた書類がどこで作られたのか。ベルク家の金がいつから動かされていたのか。ドロテアとコレットはそれ以前にも同じことをしていたのか。セドリックがどこまで関わっていたのか。そしてグレゴールは、本当に何も知らなかったのか。まずは、それを確かめる必要があった。
「カミラ。王都の方をお願いできる?」
「いいわよ。誰に聞けばいい?」
「ベルク家と付き合いのある商会。それから、最近コレット嬢と親しくしている方がいれば、その辺りも」
「セドリック様も?」
「もちろん」
「そっちは簡単そうね」
カミラはその日のうちに、修道院の外で行われる奉仕活動へ参加することになった。教会を通じて貧しい家へ食料や衣類を届ける仕事で、街の商人や使用人たちとも顔を合わせる機会が多いらしい。数日後、ロザリーも荷物運びを手伝うため、一度だけ同行した。
「重くない?」
「大丈夫です」
「無理なら言って。倒れられる方が面倒だから」
「その言い方、心配しているように聞こえませんね」
「心配してるわよ。一応」
そんなことを話しながら荷物を運んでいたはずなのに、気づけばカミラは配給を手伝っていた商人の妻と話し込んでいた。
「この布、ずいぶん丈夫ね」
「でしょう? うちの店でも扱ってるのよ」
「そうなの? 最近、王都で布を扱う商会って増えたでしょう。どこがいいのか分からなくて」
「だったら、うちが仕入れてるところを教えるわよ」
「助かる。修道院でも買うことがあるから」
そこから話は仕入れ先へ移り、さらに得意先の話になった。
「貴族のお屋敷にも卸してるの?」
「もちろん。ベルク家にも入れてるわよ」
「あら、ベルク家?」
「知ってるの?」
「名前くらいはね。最近、新しいお嬢様がよく社交に出てるって聞いたけど」
「ああ、あの子ね」
商人の妻はそこで声を少し落とした。
「随分派手になったみたいよ。前からいたお嬢様がいなくなってから、急に宝石も服も増えたって」
「へえ」
「それに、ハインツェ家の坊ちゃんとよく一緒にいるらしいわよ」
「婚約者がいた方?」
「そうそう。前のお嬢様のね」
カミラは驚いた様子も見せず、相槌を打ちながら話を続けさせた。
「でも、そういう噂ってだいたい大げさじゃない?」
「私もそう思ってたんだけど、うちの姪が見たって言うのよ。茶会でずっと隣にいたって」
「その姪御さん、貴族のお屋敷で働いてるの?」
「伯爵家で侍女をしてるの」
少し離れた場所で荷物を並べていたロザリーは、思わずカミラを見た。まだ何も直接尋ねていない。それなのに、相手の方から次々と話している。
その後もカミラは、食料を受け取りに来た女には子供の話をし、教会の手伝いに来ていた使用人には勤め先の愚痴を聞き、帰り際には顔見知りになった商人から別の商会の名前まで聞き出していた。
「……今の方には、ベルク家のことを聞かなかったのですね」
帰り道でロザリーが尋ねる。
「知らなさそうだったから」
「どうして分かるのです?」
「話してれば分かるわよ。あの人は貴族の噂より、食料の値上がりの方が興味ありそうだったもの」
「では、さっきの商人の奥様は?」
「いかにも、喋りたそうだったでしょう?」
「そんなことまで分かるのですか」
「分かるっていうか」
カミラは肩をすくめた。
「相手が何を喋りたいのか見て、きちんと聞いてあげるのよ」
「それで、あれだけ聞けるのですか?」
「あっちが気持ちよく喋ってくれるだけよ」
以前と同じ言葉だった。けれど、実際に隣で見た後では、その言葉の説得力がまるで違っていた。
一方、ミレイユは同年代の令嬢たちへ向けて手紙を書いた。こちらは商売や金ではなく、コレット自身の評判を探るためだった。
「妹は社交界へ出てまだそれほど経っていません」
「だからいいのよ。新しく出てきた子の話なんて、皆したがるもの」
「悪口を集めるのですか?」
「失礼ね。お話を聞くだけですわ」
そう言いながら、ミレイユは便箋の上で迷いなく筆を走らせている。
「でも、こんなに手紙を出して大丈夫なのですか?」
「何が?」
「手紙は残るでしょう。途中で誰かに見られたり、相手の手元に残ったものを押さえられたりしたら、こちらが何を調べているのかまで分かってしまいます」
ミレイユの手が止まった。少し意外そうにロザリーを見る。
「あら。よく気づきましたわね」
「馬鹿にしてます?」
「褒めていますのよ。手紙は便利ですけれど、証拠にもなりますもの。差出人も、届け先も、内容も残る。普通に出せば、どこから届いたのか辿られることだってありますわ」
「では、こんなに送ってはいけないのでは?」
「普通に送れば、ね」
ミレイユは書き終えた便箋を折り畳んだ。
「手紙を運ぶのは、町の配達人だけではありませんの。商人の荷物に預けることもできるし、教会を通すこともできる。貴族の家に出入りする使用人同士にも、それぞれ繋がりがありますわ。それに、そういう手紙だけを運ぶことを仕事にしている者もおりますのよ」
「そういう手紙?」
「余計なことを口にしない寡黙な方々ですわ」
ロザリーは机の上に並んだ手紙へ目を落とした。
「では、これは全部……」
「全部、同じところから同じ方法で送るとでも思いまして?」
ミレイユは得意げに笑った。
「手紙というのは、書く内容と同じくらい、どう届けるかが大切なのよ」
オデットにも何枚かの名簿が渡された。ベルク家と取引のある商会や、これまで屋敷へ出入りしていた者の名前が並んでいる。彼女はそれを一枚ずつ眺め、時折、別の紙へ短く何かを書き移していた。
「何をしているのですか?」
「同じ名前」
「同じ?」
「こっちにもいる」
指された場所を見ると、確かに別々の商会の記録に同じ名があった。
「偶然では?」
「かもしれない」
オデットはそれ以上説明せず、また紙へ目を戻した。
修道院の中だけを見ていれば、女たちはここから出られず、世間から切り離されて暮らしているように見える。けれど、外から集まってくる数々の情報と、それを当たり前のように扱う彼女たちを見ているうちに、ロザリーはその考えを改めた。
以前ここで暮らしていた女たちは、修道院を出たあとも各地にいた。貴族家へ嫁いだ者もいれば、商会に関わっている者もいる。王都で働く者、地方へ移った者、教会に残った者もいた。ここを離れたあとも、修道院との繋がりが切れたわけではない。誰かが声をかければ返事が届き、気づけば必要な話まで一緒に集まってくる。そんな関係が、各地に残っていた。
数日もすると、あちこちから少しずつ情報が集まり始めた。奉仕活動へ出たカミラは、商人や使用人たちとの世間話から拾った話を持ち帰り、誰から何を聞いたのかを書き留めていく。コレットが最近どの茶会へ顔を出しているのか。誰と親しくしているのか。セドリックがどの程度そこへ同席しているのか。同じ話が別の相手からも出れば、その横に印をつけた。
ミレイユが送った手紙にも、別々の経路から返事が届いた。そこには、コレットがロザリーの宝飾品によく似たものを身につけていたことや、姉がいなくなった後、ベルク家の令嬢として以前より積極的に社交へ出ていることが書かれていた。そして何人かが、セドリックと二人で親しげに話す姿を見たと伝えてきていた。
「やっぱり気に入られているじゃない」
カミラが言った。
「そうですね」
「思ったより平気そうね」
「よく考えたら、そこまで惜しい相手でもなかったなと思って」
以前なら、そんなふうにセドリックを評することなどなかった。けれど今回のことに関しては、自分でも意外なほど気持ちは切り替わっていた。
問題は、金だった。ロザリーを陥れた理由の一つとして使われたのは、ベルク家からの不正な引き出しだった。署名は偽造されていたとしても、実際に金が動いている以上、その記録はどこかに残っている。その調査を任されたのがテレーゼだった。
「テレーゼは、こういうことがお得意なのですね」
食堂の大きな机いっぱいに取引記録が広げられた日の夕方、ロザリーはその量を見ながら言った。ベルク家と直接取引していた商会だけではない。その商会へ品を卸していた別の商会や、代金の受け取りに関わった業者の記録まで混ざっている。
「得意というより、数字は嘘をつきませんので」
テレーゼは紙から目を上げなかった。
「帳簿を書くのは人です。人は嘘をつくでしょう」
「だから間違いを探すのです」
当然のように返され、ロザリーは黙った。
テレーゼは朝から何時間も同じ席に座り続けていた。金額と日付、品名、取引先を一つずつ確認し、別の記録と照合していく。大きな金額だけを見るのではなく、むしろ小さな差額や、不自然に繰り返される数字を拾っていた。
「どうして、そこまで分かるのでしょう」
少し離れたところで刺繍をしていたヴェロニカに尋ねると、彼女はテレーゼを見た。
「一度、同じようなものを見ていますもの」
「同じようなもの?」
「テレーゼがここへ来た理由ですわ」
ロザリーは初めて聞く話だった。
「ご実家で、帳簿の不正を見つけたの。おかしいと声を上げたら、逆にその責任を負わされて、ここへ送られました」
「テレーゼが?」
「ええ」
今も机に向かっている本人からは、何の反応もない。聞こえていないはずはなかった。
「その後、わたくしが少し調べましたの。不正をしたのがテレーゼではないことは分かって、名誉も戻りましたわ」
「それなら、どうして今もここに?」
「それは、ご本人に聞いてみてはいかが?」
ヴェロニカはそれ以上話さなかった。ロザリーはテレーゼへ視線を戻した。実家へ帰ることができるようになっても、彼女は修道院に残った。それが本人の意思であることだけは分かったが、何があったのかまでは分からない。
「手が止まっています」
テレーゼが言った。
「え?」
「そちらの記録も日付順に並べてください。見ているだけなら邪魔です」
「……はい」
ロザリーは言われた通り、受け取った紙を並べ始めた。
最初のうちは何を見ればいいのか分からなかった。けれど、テレーゼに日付、金額、取引相手の三つだけを確認するよう言われ、同じ商会名が出るたびに印をつけていくと、少しずつ流れが見えてきた。
「これ、同じところへ払っています」
「ええ」
「こちらも」
「それもです」
「では、この商会から何度も品を買っている?」
「品が届いていれば、そうでしょうね」
テレーゼが別の帳面を開いた。
「でも、届いていません」
購入したとされる布や装飾品の数と、ベルク家側に残っている受け入れの記録が合わない。支払いだけがあり、ベルク家へ届いた記録のない品がいくつもあった。
「お金だけ払ったことになっている?」
「そう見えます」
テレーゼはそこで結論を出さず、さらに別の記録を探した。
同じことが一度だけなら記載の誤りかもしれない。二度なら偶然の可能性もある。けれど、この二年ほどの間に、似たような金額が何度も同じ経路で動いている。
「ロザリー。お義母様が家政を任されたのはいつからですか」
「父と結婚して、間もなくです」
「正確には?」
「……二年ほど前です」
「では、これはその後ですね」
テレーゼが示した最初の記録は、ちょうどドロテアがベルク家へ入った後から始まっていた。
「お義母様が?」
「その可能性はあります」
「でも」
「帳簿だけで分かるのは、金がどう動いたかです。誰が動かしたかは別に調べます」
ロザリーが口を閉じると、テレーゼは次の紙を手に取った。
それから何日か、同じ作業が続いた。集まった記録が増えるほど、テレーゼの机の上には新しい束が作られていった。ベルク家の日常的な支出。ドロテアが家政を任されてから増えたもの。コレットのために使われたと考えられるもの。そして、それらのどれにも当てはまらない金の流れ。
ある夜、他の女たちが食堂を出た後も、テレーゼだけが帳簿を見ていた。ロザリーも片づけを手伝いながら残っていたが、何度か同じ頁を行き来するテレーゼに気づいた。
「何かありましたか?」
「……少し黙っていてください」
「はい」
いつも以上に硬い声だった。
テレーゼは一冊の帳簿を横へ置き、別の商会から届いた記録を開いた。さらにもう一冊。三つの日付を紙へ書き、金額を並べる。支払われた額は違う。取引先も違う。それでも、何かが引っかかるらしい。テレーゼは眼鏡を外し、眉間を指で押さえた。しばらくしてから、もう一度帳簿を開く。
「テレーゼ?」
今度は返事がなかった。並んだ数字を追う彼女の表情を見て、ロザリーは声をかけるのをやめた。
テレーゼは、以前にもこれとよく似た数字の並びを見たことがあった。
家族と暮らしていた頃、自分の人生を大きく変えることになった、あの帳簿の中で。




