第十話 テレーゼの信念
テレーゼがまだエーベルハルト家で暮らしていた頃、家の帳簿を見ることは日常の一部だった。
正式に家を継ぐのは兄のコンラートであり、家政や領地経営についても彼を中心に教えられていたが、テレーゼも数字には強かった。父から頼まれたわけでもないのに帳簿を眺め、計算が合わなければ理由を探す。それを繰り返しているうちに、家令から確認を頼まれることも増えていた。
「また帳簿を見ているのか」
兄に声をかけられ、テレーゼは顔を上げた。
「悪いですか?」
「悪いとは言っていない。今日は昼から来客があるだろう」
「まだ時間があります」
「着替えは?」
「済ませました」
「髪は?」
「これで問題ありません」
「母上に同じことを言ってみろ」
「お兄様から、これで充分だと伝えてください」
「なぜ私が叱られる役を引き受けなければならないんだ」
コンラートは呆れたように言ったが、そのまま向かいの椅子へ座った。兄妹の仲は悪くなかった。年上の兄は昔から何でもそつなくこなし、父からも親族からも次期当主として期待されていた。テレーゼにとっても、分からないことがあれば最初に尋ねる相手だった。
「何を見ている?」
「先月の支出です」
「何かおかしいのか?」
「まだ分かりません」
テレーゼは帳簿を兄の方へ向けた。
「この三件です。同じ商会へ支払っていますが、納品された数と合いません」
「記載漏れでは?」
「そう思って受け入れ記録も確認しました。そちらにはありません」
「では、商会側の請求違いかもしれない」
「それなら翌月に訂正されるはずです」
テレーゼはもう一冊を開いた。
「ありませんでした」
「……随分調べたな」
「合わない数字をそのままにしておく方が気持ち悪いので」
コンラートは苦笑して帳簿を受け取った。その日は、それだけだった。小さな記載漏れや処理の遅れなど、帳簿を見ていれば珍しくない。テレーゼ自身も、最初から不正を疑っていたわけではなかった。ただ、数字が合わない理由を知りたかった。
ところが、一つを調べると別の不自然さが見つかった。同じ商会への支払い。実際に届いた量より多い請求。別の名目で処理された似た金額。それぞれを単独で見れば、単純な間違いとして済ませられる程度だった。けれど、過去の帳簿まで遡ると、それが何度も繰り返されていた。テレーゼは日付と金額を別の紙へ書き出し、取引先ごとに分けた。一週間ほど経つ頃には、偶然とは思えなくなっていた。
「お兄様」
夜、書斎へ戻ってきたコンラートを呼び止めると、彼はテレーゼの顔を見ただけで眉を寄せた。
「どうしたんだ」
「見てください」
机の上へ紙を広げる。
「最初に見つけた商会だけではありません。こちらも、こちらも同じです。支払われた金額と納品記録が合っていない。それから、この取引先は別の商会名になっていますが、支払い先の口座が同じです」
「どこでそれを?」
「古い支払記録です」
「勝手に持ち出したのか?」
「確認しただけです」
コンラートはすぐには答えず、並んだ紙を一枚ずつ見た。テレーゼは黙って待った。兄なら分かると思っていた。自分が見つけたものが、ただの記載間違いではないことを。
「……他に誰かへ話したか?」
しばらくして、コンラートが尋ねた。
「まだです」
「父上にも?」
「お兄様に先に見せました」
「それでいい」
予想していた反応とは違った。
「すぐ父上へ報告しましょう」
「待て、まだ情報が足りない」
「これだけあれば充分でしょう」
「帳簿に不自然な金の動きがあることは分かる。だが、誰が何のために動かしたのかまでは分からない」
「だから父上に調べてもらうのです」
「その前に、こちらで確認する」
コンラートはテレーゼが作った紙をまとめ始めた。
「原本は元へ戻せ。写したものも、今は誰にも見せるな」
「どうしてです?」
「話を大きくする前に、確実な証拠を揃える必要がある」
「もう何年も続いているのですよ」
「だからこそだ」
コンラートの声は落ち着いていた。
「長く続いているなら、家の中だけで行われているとは限らない。取引先まで関わっているなら、こちらが気づいたと知られた時点で記録を消されるかもしれない」
「では、なおさら急いで父上に報告すべきでしょう」
「父上へ話せば、すぐ動くことになる」
「それの何がいけないのですか」
「今動けば、何を押さえるべきかも分からないまま、こちらが気づいたことを相手に知らせることになると言っている」
言っている意味は分かった。それでも、テレーゼには納得できなかった。
「お兄様は、このまま黙っているおつもりですか」
「黙っているとは言っていない。必要なものが揃うまでだ。待ってほしい」
「その間にも、お金は動きます」
「分かっている」
「分かっていて放っておくのですか?」
「テレーゼ」
少し強い声で名前を呼ばれた。コンラートがそんな声を出すことは珍しかった。
「不正を見つけることと、それを証明することは別だ。疑わしい帳簿を見つけただけで騒げば、逃げ道を与える。だから順番を間違えるなと言っている」
テレーゼは唇を結んだ。普段なら、兄の言うことをもう少し考えただろう。コンラートは慎重な人間だった。何かを決める前に確認し、必要なものを揃えてから動く。それで大きな失敗をしたところを、テレーゼはほとんど見たことがない。けれど今回は、その慎重さが妙に引っかかった。
「この帳簿は、お兄様も今まで見ていましたよね。気づかなかったのですか?」
「すべての支出を私一人で確認しているわけではない」
「でも、次期当主でしょう」
「だから何だ」
「……いえ」
口ではそう答えたが、疑問は残った。自分より長く家の経営に関わってきた兄が、本当に何も知らなかったのだろうか。今までなら考えもしなかったことだった。コンラートは紙を整え、テレーゼへ返した。
「これはお前が持っていろ。ただし、誰にも話すな」
「父上にも?」
「今はまだだ」
「いつ話すのです?」
「私も調べる。数日待て」
兄はそう言った。テレーゼは紙を受け取ったものの、納得したわけではなかった。
翌日から、コンラートは確かに何かを調べていた。商会から届いた書類を確認し、家令と話し、何度か一人で外出もした。テレーゼが尋ねても、まだ話せる段階ではないと答えるだけだった。三日が過ぎた。五日が過ぎた。
その間にも、テレーゼは新しい帳簿を見つけた。今度の金額は、それまでより大きかった。しかも支払いを承認した欄には、父の名があった。テレーゼは何度も署名を見直した。本人の署名に見える。偽造なのかどうかまでは判断できない。それでも、少なくとも家の中で何者かが長い間、まとまった金を動かしていることだけは間違いなかった。その夜、兄の元へ行った。
「お兄様」
「どうした」
「これを見つけました」
コンラートは帳簿を見るなり表情を変えた。ほんの一瞬だった。けれど、テレーゼは見逃さなかった。
「……ご存じだったのですか?」
「何を」
「この署名です」
「父上のものに見える」
「そうではありません」
テレーゼは兄を見た。
「今、驚かなかったでしょう」
コンラートが黙った。その沈黙だけで、胸の奥にあった疑いが急に形を持った。
「お兄様は、何か知っているのですね」
「テレーゼ、今は」
「また今は、ですか?」
「声を落とせ」
「どうして?」
コンラートが扉を見る。それさえ、テレーゼには答えのように見えた。
「誰に聞かれたら困るのです?」
「話を飛躍させるな」
「では説明してください」
「まだできない」
「なぜです?」
「確かめている最中だからだ」
同じ答えだった。何日待っても、兄は何も話さず、父にも報告しない。帳簿には父の署名まで出てきたというのに、それでもまだ待てと言う。
「……家のためですか」
「何?」
「エーベルハルト家の名前に傷がつくから、表に出したくないのですか?」
「違う」
「では、何が違うのです?」
「今のお前に話しても、また先に動くだろう」
「不正があるのに動くなと仰っているのは、お兄様です」
「証拠を固めろと言っている」
「十分あります」
「ない」
即答された。テレーゼは息を詰めた。
「帳簿がおかしい。金が消えている。父上の署名がある。それだけで誰が何をしたのか決めつければ、必ず間違える」
「では、お兄様は誰がしたのかご存じなのですね」
「そういう意味ではない」
「何も知らないのなら、どうしてそこまで庇うのです?」
コンラートの顔が強張った。
「私は誰も庇っていない」
「そうは見えません」
口にしてからも、テレーゼは引かなかった。兄を疑いたいわけではなかった。むしろ、最初に相談したのは信じていたからだ。だからこそ、何も教えず待てと言われ続けることが許せなかった。
「わたくしは、間違っていることを見つけただけです。それを正したいと言っているだけでしょう」
「正しいことをするなら、何をしてもいいわけではない」
「では、黙っているのが正しいのですか」
「そうは言っていない!」
珍しくコンラートが声を荒らげた。二人とも黙った。しばらくして、兄は額へ手を当てた。
「……頼むから、もう少し待ってくれ」
「理由も教えずに?」
「今はそれしか言えない」
「分かりました」
テレーゼは帳簿を抱えた。
「待て、テレーゼ」
「もう結構です」
兄の横を通り過ぎ、そのまま書斎を出た。廊下を歩きながら、頭の中では先ほどまでの会話が何度も繰り返されていた。兄が動かないのなら、自分で確かめる。
翌朝、テレーゼは帳簿と自分がまとめた記録を持ち、父の書斎へ向かった。




