第十一話 テレーゼの誤解
翌朝、テレーゼは帳簿と自分がまとめた記録を持ち、父の書斎へ向かった。執務机にいた父は、突然訪ねてきた娘を見て眉を寄せた。
「何だ。朝から」
「お話があります」
「後にしなさい」
「帳簿のことです」
その一言で、父の手が止まった。テレーゼは見逃さなかった。
「こちらを見てください」
机の上へ帳簿を置き、これまで調べたものを順に並べた。納品記録と一致しない支払い。同じ相手へ名目を変えて流れている金。何年にもわたって繰り返されている不自然な取引。そして最後に、父の署名がある頁を開いた。
「これについて、ご存じですか」
父は帳簿へ目を落とした。驚いた様子はなかった。
「どこまで調べた」
「質問しているのはわたくしです」
「テレーゼ」
「この支出を承認したのは、お父様ですか?」
父はしばらく黙っていたが、やがて椅子へ深く座り直した。
「お前には関係のないことだ」
「家の帳簿です。関係がないはずがありません」
「お前は当主ではない」
「だから、不正があっても黙っていろと?」
「言葉を選びなさい」
低い声で制されたが、テレーゼは引かなかった。
「帳簿と実際の取引が合っていません。支払われた金の一部が、記録とは違うところへ流れています。これを不正と言わず、何と呼ぶのですか」
「家を維持するには、表に出せない金もある」
「では、認めるのですね」
「子供が知ったような口を利くな」
父は明らかに苛立っていた。
「家を動かすというのは、帳簿の数字を一つずつ合わせることではない。取引先との関係もあれば、表向きには処理できない支出もある」
「必要な支出なら、正しく記録すればよろしいでしょう」
「それができないものもあると言っている」
「なぜです?」
「お前に説明する必要はない」
テレーゼは父を見つめた。兄が報告を止めた理由を、ようやく理解した気がした。
「お兄様も知っていたのですね」
「コンラート?」
「だから、わたくしを止めたのでしょう」
父の表情がわずかに変わった。
「コンラートには、どこまで話した」
「最初に見つけた時からです。他には誰にも」
「写しは?」
「持っています」
父は短く息を吐いた。
「すべて持ってきなさい」
「嫌です」
「テレーゼ」
「間違っているものを見つけたのに、なかったことにはできません」
父の目が冷たくなった。
「家族に迷惑をかけてもか」
「迷惑をかけているのは、わたくしではありません」
「お前は何も分かっていない」
父も兄も、何も説明せず、自分に黙っていろと言う。
「では、外部へ調査を求めます」
「何?」
「家の中で確認できないのであれば、正式に調べてもらいます」
「馬鹿なことを言うな。自分の家を潰すつもりか!」
父が机を叩いた。書斎に大きな音が響いた。テレーゼは黙って父を見た。家のためと言えば、すべて許されるのだろうか。
「家のために不正をしているのなら、いずれ家ごと責任を問われます。今止める方がよほど家のためでしょう」
父の顔から怒りが消えた。代わりに、テレーゼを値踏みするような目になった。
「もういい。下がりなさい」
「話は終わっていません」
「終わりだ」
それ以上、何を言っても答えは返ってこなかった。テレーゼは帳簿を抱え、書斎を出た。兄を探したが、その日は屋敷にいなかった。使用人に尋ねても、朝から外へ出ているというだけで、行き先は分からない。戻るまで待つつもりだった。しかし、その機会は与えられなかった。昼を過ぎた頃、テレーゼはもう一度父の書斎へ呼ばれた。
今度は父一人ではなかった。家令と、家の財務を扱う者が二人いる。机の上には、見覚えのある帳簿と、自分が作った写しが並べられていた。
「こちらはどこから?」
テレーゼが尋ねる。
「お前の部屋からだ」
「勝手に入ったのですか?」
「私の屋敷だ」
父は椅子へ座ったまま答えた。
「テレーゼ。お前は長い間、家の帳簿へ自由に触れていたな」
「はい」
「家令から確認を任されることもあった」
「それが何です?」
「帳簿に不自然な処理がある」
「だから、それをわたくしが――」
言いかけて、止まった。父が何をしようとしているのか、ようやく分かった。
「……わたくしがやったことにするのですか」
「数字に詳しく、帳簿を扱える立場にいた。お前ならできただろう」
「お父様、本気で仰っていますか」
声が低くなった。
「家を守るためだ」
「また、それですか」
「この件が外へ出れば、お前一人では済まない。エーベルハルト家そのものが疑われる。領地も使用人も、取引先も巻き込まれる。お前には、しばらく表から退いてもらう」
テレーゼは父を見た。
「どこへ?」
「修道院だ」
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「……わたくしが、不正をした娘として?」
「家の中で起きた問題として処理する。これ以上騒ぎを大きくしなければ、重い処罰までは受けない」
「していないことを認めろと?」
「家のためだ」
今度は、笑いそうになった。何度聞いたか分からない。
「家のため、家のため、随分便利な言葉ですね」
父が眉をひそめる。
「何?」
「家のため、と言えば何をしても許されるのでしょうか。不正も、隠蔽も、娘へ罪を押しつけることも」
「口を慎め」
「間違っておりますか?」
「テレーゼ!」
怒鳴られても、もう何も感じなかった。テレーゼは机の上の帳簿を見た。兄は何かを知っていた。それでも、自分へは何も話さなかった。結局、同じだったのだと思った。父も兄も家を守る。そのためなら、自分が切り捨てられても構わないのだ。
「もう何を言っても、わたくしが修道院へ行くことは決まっているのでしょう?」
テレーゼは顔を上げた。
「テレーゼ」
「わたくし、どこへ送られても自分がしたとは言いません。していないものはしておりませんので」
父は答えなかった。
その日のうちに、修道院へ送る準備が始まった。コンラートが屋敷へ戻ったのは、すべてが決まった後だった。
「何をしたんだ!」
廊下の向こうから兄の怒鳴り声が聞こえた。テレーゼは自室で荷物をまとめる手を止めた。父の書斎から声がする。普段ほとんど声を荒らげない兄が、何かを激しく問い詰めている。内容までは聞き取れなかった。しばらくして扉が開き、コンラートが入ってきた。
「テレーゼ」
「お兄様」
「修道院へ行くというのは本当か」
「もう決まりました」
「だが、お前がしたことではない。父上がやった」
「……やはり、ご存じだったのですね」
コンラートが黙った。
「最初の帳簿を見せてもらった後に確信した。だが、証拠が足りなかった」
「それで、何も仰らなかった」
「聞け、テレーゼ」
「何をです? もう何も聞く必要はありません」
コンラートが一歩近づいた。
「父上を当主の座から引きずり下ろすなら、中途半端な証拠では駄目だった。家の中の帳簿だけでは、処理の仕方を間違えたと言い逃れられる。だから取引先を回って、外側の記録を集めていた」
「……それなら、そう言えばよかったでしょう」
「言えば、お前は待たないと思った。そして実際に待たなかった」
言い返せなかった。それでも、納得はできなかった。
「だから何も教えず、一人で調べていたのですか」
「巻き込みたくなかった」
「もう巻き込まれていました」
「分かっている」
兄の声が低くなった。
「そこは私が間違えた」
テレーゼは初めて兄を見た。
「父上がお前に責任を押しつけるところまでは、考えていなかった」
「わたくしもです」
「まだ間に合う。証拠を出して覆す」
「全部揃っているのですか?」
コンラートが言葉を止めた。
「……まだなのですね」
テレーゼは荷物へ視線を戻した。
「中途半端な証拠では、お父様に押し切られます」
コンラートが黙った。兄が何度も自分へ言った言葉だった。
「順番を間違えるな、と仰ったのはお兄様でしょう」
皮肉を言いたかったわけではなかった。けれど、結果としてそう聞こえたのだろう。コンラートは苦しそうに顔を歪めた。
「……すまない」
「今は聞きたくありません」
それが、エーベルハルト家で兄と交わした最後の会話になった。
修道院へ送られてからも、テレーゼは自分の無実を訴え続けた。もっとも、誰かに泣いて縋るようなことはしなかった。ただ、自分は不正をしたのではなく、帳簿の異常を見つけただけで、そこには父が関与し、兄も調べていたのだと繰り返し訴えた。初めてその話を最後まで聞いたのが、ヴェロニカだった。
「まだ、帳簿はお好きなのかしら?」
すべて聞き終えたあと、ヴェロニカが最初に尋ねたのはそれだった。
「……何ですか?」
「気になったものですので」
「嫌いではありません」
「では、まだ数字を見るのは嫌になっていないのね」
「数字が悪いわけではありませんので」
「あら、よかった」
ヴェロニカは楽しそうに笑った。
「では、調べてみましょうか」
「何を?」
「あなたが正しいのかどうか」
信用するとも、助けるとも言わなかった。ただ調べると言った。ヴェロニカはエーベルハルト家の帳簿だけを見なかった。取引先、商会、金を受け取った側の記録まで辿った。家の中では消せても、相手側に残っている数字までは消せない。
そして、コンラートも調査を続けていた。二人がそれぞれ別の場所から集めた記録は、やがて同じ人物へ辿り着いた。父だった。
エーベルハルト家の当主自身が不正を主導し、複数の取引を利用して金を動かしていた。テレーゼが関与した証拠はなく、むしろ彼女が不自然な帳簿を見つけた後に、責任を負わせる形で修道院へ送られたことまで明らかになった。
父は当主の座を失い、不正について責任を問われた。テレーゼの名誉も回復された。そして、エーベルハルト家を継いだのはコンラートだった。すべてが終わってしばらくした頃、兄は修道院を訪れた。面会室で向かい合ったコンラートは、以前より少し痩せて見えた。
「久しぶりです」
「ああ」
それきり、しばらく会話が続かなかった。
「家の方は?」
「落ち着いてきた。まだ処理は残っているが」
「そうですか」
「お前の名誉も正式に回復された」
「聞いています」
「もう誰も、お前が不正をしたとは思っていない。父上もいない。戻りたいなら、いつでも戻れる」
テレーゼは兄を見た。
「そうですか」
返事がそれだけだったので、コンラートが眉を寄せた。
「戻らないのか?」
「はい。ここに残ります」
「私や父上のことが理由か?」
「違います」
テレーゼは少し考えた。
「最初に帳簿の不正を見つけた時、わたくしは自分が正しいと思っていました」
「正しかっただろう」
「不正があるということについては。でも、お兄様が止めた理由まで、わたくしは勝手に決めつけました。家を庇っている。父を庇っている。そう思い込んだ」
「私は説明しなかった」
「はい。それはお兄様が悪いです」
「……そうだな」
「ですが、わたくしも人の話を聞いていませんでした」
コンラートが少し笑った。
「そこまで自分で言えるようになったのか」
「どういう意味です?」
「昔のお前なら、私が全面的に悪いと言って終わっていただろう」
「今でも、説明しなかったことについては全面的にお兄様が悪いと思っています」
「そうか」
二人とも、少しだけ笑った。
ここへ来て初めて、テレーゼは家のものではない帳簿を任され、修道院の金や物資を管理するようになった。ヴェロニカとも出会い、自分の得意なことが、エーベルハルト家の中だけで役に立つものではないと知った。兄が家を継ぐのであれば、もう自分が戻る必要はない。
「ここで、やりたいことを見つけましたので」
コンラートはしばらくテレーゼを見ていたが、やがて頷いた。
「分かった」
「引き止めないのですね」
「自分で決めたのだろう? なら、私が言うことはない」
その言葉に、テレーゼは少しだけ目を細めた。
「たまには、まともなことを仰るのですね」
「お前は相変わらずだな」
兄が帰った後、テレーゼはいつもの帳面へ戻った。数字は、勝手に嘘をつくわけではない。人が嘘をつくために数字を使う。けれど、どれだけ形を変えても、金が動けばどこかに痕跡が残る。それを一つずつ拾っていけば、最後には誰が何をしたのかが見えてくる。テレーゼは、それを知っていた。だから今も、帳簿を見る。
そして数年後、ベルク家から集められた記録の中で、かつて自分の人生を変えたものとよく似た数字の並びを、もう一度見つけることになる。




