第十二話 ロザリーと帳簿
テレーゼが同じ頁を何度も見返していた夜から、三日が経った。
食堂の大きな机には、ベルク家に関する資料が以前よりも増えていた。商会から取り寄せた取引記録、過去に屋敷へ出入りしていた者から聞いた話、ミレイユが送った手紙への返事。それぞれ別のところから集められたものを、テレーゼが日付と金額ごとに整理し、必要なものだけを残していく。ロザリーも最近では、言われなくても紙を日付順に並べられるようになっていた。
「これは、こちらですね」
「ええ」
「この商会は前にも出てきました」
「そこへ置いてください」
テレーゼの返事は相変わらず短い。間違っていなければ、それ以上は何も言わない。それにももう慣れた。
「ずいぶん使えるようになったじゃない」
隣から覗き込んだカミラが言った。
「最初からこれくらいはできます」
「最初は石鹸の場所で怒られていたのに?」
「それとこれは関係ありません」
「あると思うけど」
カミラは笑いながら、外で聞いてきた話を書いた紙を机へ置いた。
「前に聞いた商会、もう一軒当たってきたわ。ベルク家から注文が入ったことになってる品の中に、実際には納めてないものがあるって」
テレーゼがすぐに紙を取る。
「誰から聞きましたか?」
「店主本人。最初は昔のことだから覚えてないって言ってたけど、話してたら奥さんが横から思い出してくれた」
「信用できますか?」
「帳面も見せてもらったわよ」
「それなら、使えます」
カミラがロザリーへ顔を向けた。
「聞いた? 今の褒め言葉よ」
「少し分かるようになってきました」
「嫌ね。染まってきてる」
そこへミレイユも何通かの手紙を持ってきた。
「こちらも返ってきましたわ」
「コレットのほうね」
「ええ。相変わらず楽しそうに社交へ出ていらっしゃるようですわよ」
ミレイユは一通を開き、必要なところだけ読み上げた。コレットは最近、以前より高価な衣装を身につけるようになり、茶会や夜会への出席も増えている。ロザリーが使っていた宝飾品によく似たものを身につけていたという話も、別々の相手から届いていた。
「これ、わたくしのものです」
簡単な特徴を聞いただけで分かった。
「やっぱり?」
「昔から家にあった髪飾りです。細工が少し変わっているので」
「持っていかれたのね」
「そうみたいですね」
以前は、コレットが欲しがれば快く貸していた。けれど今は、自分のいない間に勝手に使われていることに腹が立つ。それでも、今はそれより先に考えることがあった。
「売ってはいないということですね」
テレーゼが顔を上げた。
「え?」
「金目のものを何でも換金しているわけではない。欲しいものは手元へ残している」
「……コレットなら、そうすると思います」
「なぜ?」
「お金そのものより、欲しいものを手に入れる方が好きだからです」
自然に出てきた答えに、ロザリーは小さくため息をついた。以前なら、コレットは妹だからと、それ以上考えることをしなかったはずだ。
「セドリックの方も似たようなものよ」
カミラが言った。
「また一緒にいたのですか?」
「今じゃもう、ずいぶん仲がよろしいみたいよ」
「そうですか。よかったですね」
「あら、それだけ?」
「考えてみれば、ただ婚約していただけの相手ですからね」
「冷たくなったわねえ」
カミラは楽しそうに笑った。ミレイユが吹き出した。
「ロザリー、最近少し性格が悪くなりましてよ」
「あなたにだけは言われたくありません」
そんなやり取りの横で、テレーゼだけは帳簿を見続けていた。やがて、手が止まった。
「ロザリー」
「はい」
「ドロテア夫人が家政を任されるようになってから、ベルク家の支出は確実に増えています」
「やはり、お義母様が?」
「最後まで聞いてください」
眼鏡の奥から睨まれ、ロザリーは口を閉じた。
「装飾品、家具、衣服。実際に購入されたものも多い。ただし、それとは別に、納品された記録がない支払いがあります。金額を細かく分けているので一件ずつなら目立ちませんが、まとめれば無視できる額ではありません」
テレーゼは別の紙を重ねた。
「そして一部は、あなた名義で不正に引き出されたとされていた金と、よく似た経路を通っています」
「では、お義母様とコレットが……」
「可能性は高いです。ただし、誰が書類を作り、誰が実際に金を受け取ったのかは、まだ確認が必要です」
そこまでは、ある程度予想していた。だが、テレーゼは帳簿を閉じなかった。
「問題はこちらです」
机の中央へ、新しい紙の束が置かれた。
「何ですか?」
「まだ分かりません」
「どういうこと?」
ベルク家からある商会へ金が支払われ、その商会から別の取引先へ移り、さらにいくつかの貴族家を経由している。ドロテアたちの横領に比べれば、動いている額は大きかった。
「お義母様のものでは?」
「違うと思います。始まった時期が合いません。ドロテア夫人がベルク家へ入る前から、この取引はあります」
テレーゼが指で日付を示した。確かに古い。
「少なくとも、ベルク家側でこの取引を承認できたのは当主です」
ロザリーは紙を見つめた。少なくとも、ドロテアとコレットの横領について、父は知らなかったのかもしれない。しかし、これは違う。
「お父様が、自分で承認していたということですか」
「署名を見る限りでは」
テレーゼは断言しなかった。
「これが何の金なのかを調べないと、まだ何とも言えません」
その時、少し離れた場所で紙を見ていたオデットが立ち上がった。何も言わずにテレーゼの横へ来ると、机に広げられた取引先の一覧を指差す。
「これ」
「何です?」
「前にもあった」
「どこに?」
「別の紙」
オデットは積まれた資料へ手を伸ばした。迷うことなく一枚を抜き取り、同じ名前が記された場所を示す。
王都の宝飾商だった。
「こちらはベルク家とは関係ありませんよ」
ロザリーが言う。
「うん」
「では、どこから?」
「こっち」
さらに別の紙が出てくる。今度は、王家と取引のある商会の記録だった。テレーゼの表情が変わった。
「それを貸してください」
オデットから紙を受け取ると、すぐに日付と金額を確認する。次に別の帳簿を開き、数字を追っていった。
「……繋がります」
「何がです?」
「金の流れです」
ベルク家から出た金は、そのまま宝飾商へ渡っているわけではない。複数の商会と貴族家を通り、名目も金額も少しずつ変えられている。それでも日付を追い、出入りする金額を照合すると、同じ流れの中にあることが分かった。ロザリーには途中からほとんど理解できなくなった。けれどテレーゼには見えているらしい。
「この商会の先は?」
ヴェロニカが尋ねた。
「王家と取引があります」
「何を扱っているところ?」
「宝飾品のほか、調度品も。こちらの業者は建築関係です」
「王宮?」
「いいえ」
テレーゼがもう一枚の記録を見た。
「王太子殿下の私的な屋敷です」
食堂が静かになった。ロザリーもすぐには意味を理解できなかった。
「どうして、うちのお金が王太子殿下の屋敷へ?」
「ベルク家のお金とは限りません」
テレーゼが答えた。
「ここは経由しているだけです」
「では、元は誰のお金なのですか?」
「それを調べます」
ヴェロニカは何も言わず、机の上の記録を見ていた。
その日から調べる相手が増えた。カミラは奉仕活動へ出るたび、王家と取引のある商人についてさりげなく話を拾った。ミレイユは王太子夫妻の最近の動向について手紙を送り、王太子妃がどのような宝飾品を身につけ、どこに金をかけているのかを探った。オデットは集められた資料の中から同じ名前や商会を見つけるたび、短く印をつけてテレーゼへ渡した。そしてテレーゼは、集まった情報を一つずつ金の流れと照らし合わせていった。
数日後。
「分かりました」
夕食後、テレーゼが食卓へ数枚の紙を並べた。
「元は国庫です」
誰もすぐには声を出さなかった。ロザリーは聞き間違えたのかと思った。
「……国庫?」
「はい。ただし、直接ではありません。正規の支出として処理した後、複数の貴族家と商会を経由させています。その中にベルク家も入っていました」
「誰がそんなことを?」
聞きながらも、もう答えは見えていた。テレーゼは一番上の紙をヴェロニカへ向けた。
「王太子殿下です」
ヴェロニカがそれを受け取った。王太子は、国庫から出した金の用途が分からなくなるよう、複数の家と商会を経由させていた。その一部は私的な宝飾品や調度品、屋敷に関わる支出へ流れている。ベルク家は、その経路の一つだった。
「お父様は……」
ロザリーは資料から目を離せなかった。
「これを知っていたのでしょうか」
「全容まで知っていたかは分かりません。ただ、通常とは違う取引だと分かった上で名義を貸し、その見返りを受け取っていた形跡はあります」
ロザリーはしばらく何も言えなかった。父は家を守るためだと何度も言った。家の評判を傷つけるわけにはいかないから、自分の訴えを調べなかった。その父が、王太子の不透明な金の流れには自ら関わっていた。
「……随分と都合のいい家の守り方ですね」
思ったことが、そのまま口から出た。カミラがロザリーを見たが、何も言わなかった。
ヴェロニカは資料を一枚ずつ読み進めた。
「あら」
一枚めくる。
「まあ」
さらにもう一枚。読み進めるほど、ヴェロニカの口元には少しずつ笑みが浮かんでいった。最後の紙まで目を通した頃には、隠す気もないほど楽しそうな顔をしている。
「……嬉しそうですね」
ロザリーが言う。
「ええ。とても」
「わたくしの家が、王太子殿下の不正に使われていたのですが」
「それはお気の毒ですわ」
まったく気の毒そうには聞こえない。
「でも、あなたに会えてよかったわ。ロザリー」
「どういう意味です?」
「あなたも運が良かったけれど、どうやらわたくしも運が良かったみたい」
ヴェロニカはもう一度資料へ目を落とした。
「これを公表するのですか?」
「まさか」
「でも、王太子殿下が国庫のお金を私的に使っているのでしょう?」
「ええ」
「なら――」
「今はまだ、その時ではないわ」
声が変わった。先ほどまでの柔らかな調子ではなかった。ヴェロニカは資料を見下ろしたまま、笑っていない。普段は刺繍をし、花を摘み、ロザリーの質問をのらりくらりとはぐらかす女とは思えないほど、厳しい表情をしていた。ロザリーは息を呑み、乾いた喉を鳴らした。何か言おうとしたが、ヴェロニカを前にすると言葉が出てこない。それ以上、尋ねることはできなかった。
ロザリーが言葉を失っている間に、ヴェロニカはふっと表情を緩めた。先ほどまでの厳しい空気が嘘のように消え、いつもの柔らかな声に戻る。
「テレーゼ、申し訳ないのだけれど、王太子へ繋がるものだけ、別にまとめていただける? 急がなくてよ。時間のある時で構いませんわ」
「分かりました」
テレーゼは頷くと、後で分かるよう該当する資料に目印だけをつけた。
「これはどうするのですか?」
「それは、まだ内緒」
ヴェロニカは再びいつものように微笑んだ。答える気はないらしい。ロザリーも、それ以上は聞かなかった。
「さあ。ロザリーの家のことを続けますわよ」
ヴェロニカはベルク家側の資料へ手を置いた。
「途中で、面白いものを見つけてしまっただけですもの。あなたの復讐を忘れたわけではなくてよ」
「忘れられていたら困ります」
「あら。ずいぶん言うようになったわね」
「皆様のおかげです」
ロザリーは机の上に残された、自分の家に関する資料を見た。最初は、自分の無実を証明して家へ戻ることだけを考えていたが、今は違う。誰が自分を陥れたのか。誰がその状況を利用したのか。そして、誰が自分を切り捨てたのか。全部、自分の目で確かめる。
そのための材料は、もう揃い始めていた。




