第六話 ロザリーの日常
正式に残ると決まったからといって、修道院での暮らしが大きく変わったわけではなかった。
翌朝も鐘が鳴れば起き、祈りを終えれば仕事が待っている。食事も質素なままで、掃除も洗濯も自分たちでする。ミレイユは相変わらず一言多く、テレーゼは細かく、カミラは遠慮がなく、オデットはほとんど喋らない。
ただ、ロザリーを見る彼女たちの目は少し変わった。
「そこ、まだ埃が残っていますわ」
「分かっています」
「昨日も同じところを言いましたけれど」
「今やろうとしていたところです」
「言われる前になされば?」
「ミレイユ」
ロザリーが箒を止めて振り返ると、ミレイユは窓辺に腰掛けたまま、いかにも退屈そうな顔をしていた。
「そこまで気になるなら、あなたがなさったらどうです?」
「わたくしの仕事ではありませんもの」
「では、黙っていてください」
「嫌ですわ」
返事だけは早い。以前なら腹を立てながらも飲み込んでいたが、ロザリーも少しずつ言い返すようになっていた。だからといってミレイユが大人しくなるわけではなく、むしろ楽しそうに嫌味を返してくる。
「朝から仲がよろしいこと」
通りかかったヴェロニカが微笑んだ。
「どこがですか」
ロザリーが答える。
「仲良くなどありませんわ」
ミレイユも同時に言った。ヴェロニカは二人を見比べ、小さく笑った。
「そういうことにしておきましょうか」
そのまま何事もなかったように歩いていく。
「待ってください。どういう意味です?」
ロザリーが尋ねたが、ヴェロニカは振り返らなかった。ミレイユまで鼻で笑う。
「また説明してくださらないのですね」
「ヴェロニカ様は、聞けば何でも教えてくださる方ではありませんもの」
「それはもう、よく分かりました」
ロザリーは箒を動かしながら、廊下の奥へ消えていく淡い金髪を見送った。
ヴェロニカは不思議な女だった。王国中で稀代の悪女と呼ばれた人物であることは間違いない。それなのに普段は刺繍をしたり、庭で花を摘んだり、ヘルミーネと茶を飲んだりしている。ロザリーが想像していた悪女らしい振る舞いなど、一つも見当たらない。
けれど、この修道院で誰が一番大きな力を持っているのかと問われれば、答えは明らかだった。誰もヴェロニカを恐れているようには見えない。それでも、皆が彼女の言葉を聞く。ミレイユなど特に分かりやすかった。
「ヴェロニカ様、今日は何をなさるの?」
昼食が終わると、ミレイユはすぐにヴェロニカの横へ移動した。
「午後は手紙を書くつもりよ」
「では、わたくしもご一緒してよろしい?」
「お仕事は?」
「終わっていますわ」
「本当に?」
「もちろんです」
そこへテレーゼが帳面から顔を上げた。
「終わっていません」
ミレイユの顔が固まる。
「……何が?」
「昨日使った糸の在庫を書いていないでしょう」
「それくらい、後で」
「駄目です」
「一本や二本でしょう?」
「数が合わなくなるでしょう」
「細かいのよ、あなたは」
「細かくなければ帳簿をつける意味がありません」
テレーゼは淡々としている。ミレイユがヴェロニカを見る。
「一本くらい、いいと思いません?」
「テレーゼが駄目と言うなら駄目なのでしょうね」
「ヴェロニカ様まで!」
珍しく本気で不満そうな顔をして、ミレイユは席を立った。ロザリーは思わず笑った。
「何がおかしいの?」
「いえ。あなたにも苦手な方がいるのだと思って」
「苦手ではありませんわ」
「では、随分素直に従うのですね」
「帳簿女に逆らうと、面倒なのよ」
「聞こえています」
テレーゼが言う。
「聞こえるように言いましたの」
「そうですか」
テレーゼはそれ以上相手にせず、帳面へ視線を戻した。彼女の周囲には、いつも数字があった。食料庫へ届いた小麦の量、布や糸の残り、薪の使用量。修道院で使われる物の多くを記録し、少しでも数字が合わなければ原因を確認する。
「こんなところまで帳簿につけるのですか?」
ある日、ロザリーが尋ねると、テレーゼは眼鏡の位置を直した。
「こんなところ、とは?」
「石鹸の数です」
「必要でしょう」
「一つ二つ違っても、大したことではないような」
「その一つ二つを皆が言い始めたら、最後には何も合わなくなります」
「そういうものですか」
「そういうものです」
言い切られた。ロザリーが石鹸を棚へ戻そうとすると、
「そこではありません」
「……こちら?」
「右です」
「ここ?」
「もう一つ右」
「細かいですね」
「よく言われます」
テレーゼは全く気にしていなかった。けれど、ロザリーが間違えなければ、テレーゼは何も言わなかった。ただ、褒めもしない。
「今日は何も仰らないのですね」
「何をです?」
「石鹸です」
「合っているのですから、言うことはありません」
「そうですか」
それがテレーゼなりの合格なのだと理解するまで、少し時間がかかった。
カミラは正反対だった。彼女は仕事中でもよく喋った。
「ねえ、ロザリー。セドリックって、顔はいいの?」
「急に何ですか」
「前から気になってたのよ。あなた、性格の話しかしないじゃない」
「普通だと思います」
「普通って何?」
「普通は普通です」
「好みじゃなかったの?」
「婚約者に好みも何もありません」
「それよ」
洗濯物を畳んでいたカミラが、ロザリーへ指を向ける。
「何です?」
「そういうところ」
「どういうところですか」
「婚約者だから結婚する。家族だから信じる。妹だから服を貸す。あなたって、全部そうなのよ」
「悪いですか?」
「悪いとは言ってないわ」
カミラは畳んだ布を重ねた。
「素直と馬鹿って、紙一重よね」
「余計なお世話です」
ロザリーが布を少し強めに畳むと、カミラは声を上げて笑った。
「でも、最近は前よりいい顔するようになったわよ」
「褒められている気がしません」
「褒めてるのよ」
「あなたの褒め言葉は分かりにくいです」
「そう?」
カミラは人の懐へ入るのが早かった。ヘルミーネと話しているかと思えば、次には厨房で働く女から王都の噂を聞いている。修道院へ荷物を運んできた商人ともすぐに親しげに話し、帰る頃には家族構成まで聞き出していたこともある。
「どうしてそんなことまで話してくださるのです?」
「あっちが気持ちよく喋ってくれるだけよ」
「それだけ?」
「それだけ」
カミラは笑った。
「人って、自分の話を聞いてくれる相手が好きなのよ」
ロザリーには真似できそうになかった。
オデットは、もっと分からなかった。そもそもどこにいるのか分からない時がある。大勢で食事をしていても気配が薄く、気づけばいつの間にか隣へ座っている。長い黒髪で顔の大半を隠し、黙々と自分の仕事をしている。ある日、ロザリーは廊下で紙を落とした。
「あ」
拾おうとした時には、先にオデットが手にしていた。
「ありがとうございます」
「これ」
「はい?」
「名前が違う」
「名前?」
オデットが紙を指差す。修道院へ届けられた日用品の一覧だった。商人の名前が記されている部分だった。
「前は違った」
「前?」
「先月」
「覚えているのですか?」
「うん」
「先月のこともですけど……今の紙だって、一度見ただけでしょう?」
「見たから」
それだけ言って、オデットは紙をロザリーへ返した。何がおかしいのか尋ねようとした時には、もう歩き出していた。ロザリーは紙とオデットの背中を交互に見た。
その日の午後、商人へ確認したところ、先代が息子へ店を譲っただけだった。
「本当に違っていました」
夕食の席で言うと、オデットはパンを食べながら小さく頷いた。
「そう」
「驚かないのですか?」
「何が?」
「あなたが言った通りだったことです」
「見たから」
また同じ答えだった。向かいでカミラが吹き出した。
「諦めた方がいいわよ。その子から長い説明を聞こうなんて無理よ」
「皆様、説明をしなさすぎではありませんか?」
「それは、誰の影響かしらね」
カミラがちらりとヴェロニカを見る。ヴェロニカは聞こえているはずなのに、優雅に茶を飲んでいるだけだった。
夕食後、ロザリーは食堂に残って皿を片づけていた。ヴェロニカもまだ席にいる。窓辺に置いた小さな籠から糸を取り、刺繍を続けていた。
「ヴェロニカ様は、お仕事をなさらないのですか」
何気なく尋ねると、刺繍針が止まった。
「していますわよ」
「今ですか?」
「ええ」
「刺繍が?」
ヴェロニカは微笑む。
「そう見えるでしょう?」
まただ。ロザリーは皿を重ねながら眉を寄せた。
「違うのですか?」
「どうかしら」
「ヴェロニカ様、またロザリーをからかっていらっしゃるの?」
ミレイユが戻ってきた。
「からかってなどいなくてよ」
「絶対にからかっています」
ロザリーが言う。
「まあ」
ヴェロニカは楽しそうに笑った。ロザリーはもう追及しなかった。何を聞いても、のらりくらりとはぐらかされる。それにも少しずつ慣れてきていた。
修道院へ来たばかりの頃、ここにいる女たちは皆、自分と同じように家や婚約者から捨てられた者なのだと思っていた。だから、どこかで彼女たちを理解した気になっていたのかもしれない。けれど実際には、まだちっとも理解できていなかった。
皆、修道院で暮らしながらも、自信をなくして俯いているわけでも、泣きはらして日々を過ごしているわけでもない。これまでロザリーが勝手に思い描いていたような、可哀想な女など、ここには一人もいなかった。
ロザリー自身も、ここで嫌味を言われながら暮らしていれば、腹が立つこともある。けれど、この生活を惨めだと言われれば、それは違う気がした。家を追われ、婚約を失い、修道院へ送られた。起きたことだけを並べれば、確かに哀れな身の上なのかもしれない。それでも今の自分を、可哀想だとは思わなかった。
朝起きて食堂へ向かえば、誰がどこに座っているのかを自然と確認するようになった。ミレイユの甲高い声が聞こえれば、今日も元気なのだと思う。テレーゼが帳面を開いていれば、また誰かが何かを間違えたのだろうと思う。カミラが笑っていれば、そのうち自分にも何か余計なことを言ってくる。オデットがいなくても、気づけばどこかにいる。そしてヴェロニカは、その全てを少し離れたところから眺めている。
「ロザリー」
名前を呼ばれ、顔を上げる。ヴェロニカが刺繍から目を離さずに言った。
「そちらのお皿、もう綺麗になっていてよ」
「……あ」
ロザリーは、しばらく前から同じ皿を拭き続けていたことに気づいた。カミラが笑い、ミレイユまでつられて笑う。
「考え事をしていただけです」
「何を?」
カミラが聞く。
「別に」
「あら。ミレイユみたいなお返事」
「一緒にしないでくださる?」
ミレイユの素早い返事に、今度はロザリーも笑った。




