第五話 コレットと家族
ロザリーが修道院へ送られてから、ベルク子爵家は以前より静かになった。
少なくとも、グレゴールはそう感じていた。娘がいなくなったことを寂しいと思わないわけではない。幼い頃から育ててきた実の娘であることに変わりはなく、あのような形で家を出すことを望んでいたわけでもなかった。だが、屋敷の中から問題そのものが消えたような安堵があるのも事実だった。
ロザリーが無実を訴え続けていれば、いずれ使用人や商会を巻き込んだ調査になっていただろう。家の金が不自然に動いていたことが外へ知られれば、真相がどうであれベルク家の管理能力を疑われる。娘に別の男がいるという話まで社交界へ広がれば、それだけでも醜聞になる。修道院へ入れたことで、それらはひとまず収まった。
「あなた、少しお疲れなのではなくて?」
朝食の席で、ドロテアが心配そうにグレゴールの顔を覗き込んだ。
華やかな色のドレスに、朝からきちんと化粧を施している。ロザリーの母だった前妻なら、朝食の席でここまで着飾ることはなかった。
「そう見えるか?」
「このところ、お仕事ばかりですもの。家のことまで気にしていたら、お身体を悪くしてしまうわ」
「家のことはお前に任せているだろう」
「ええ。だから、あなたは難しいことだけ考えてくださればいいの」
ドロテアはにこやかに笑った。グレゴールは、その笑顔を見ると気が楽になった。
前妻は優秀な女だった。領地の収支も、使用人の配置も、取引先との付き合いも理解していた。グレゴールが見落とした数字に気づけば、その場で指摘した。社交の場でも気が利き、夫が何かを説明する前に相手の意図を察することさえあった。妻として不足があったわけではない。むしろ、よくできた妻だった。だからこそ、グレゴールは彼女といると、自分まで値踏みされているような気分になることがあった。
ドロテアは違う。難しい帳簿を見せれば眉を寄せ、政治の話をすればすぐに分からないと言う。その代わり、グレゴールが説明すれば感心し、頼りにしていると笑った。
「あなたがいてくださらないと、私には何も分からないもの」
そう言われる方が、ずっと居心地がよかった。
「お父様、こちらを使ってもよろしい?」
コレットの声に、グレゴールは顔を上げた。娘が手にしているのは、小さな宝石のついた髪飾りだった。
「何だ、それは」
「お姉様のお部屋にあったものです」
「ロザリーの?」
「ええ。でも、修道院では使わないでしょう?」
コレットは髪へ当ててみせる。
「可愛いと思いません?」
グレゴールは少し迷った。ロザリーが戻ってくる可能性を、全く考えていないわけではない。修道院でしばらく静かに暮らし、自分のしたことを反省すれば、いつか別の形で家へ戻すこともあるかもしれない。しかし、それがいつになるのかは分からなかった。
「母上に聞きなさい」
「お母様は、お父様がよければって」
「なら、好きにすればいい」
コレットの顔が明るくなる。
「ありがとうございます、お父様」
その笑顔に、グレゴールも少し笑った。ロザリーは昔から、こういう甘え方をしなかった。欲しいものがあっても必要性を考え、家の金を使うとなれば理由を説明した。幼い頃から母親によく似ていて、真面目で、物事をきちんとしようとする娘だった。間違ったことではない。
だが、父親としては、コレットのように素直に頼られる方が可愛く思える時もある。
「まあ、よく似合っているわ」
ドロテアが娘を褒める。
「でしょう?」
「ロザリーは地味な色ばかり好んでいたから、こういうものもあまり使っていなかったものね」
「もったいないわ」
コレットは髪飾りを外さず、そのまま鏡を覗き込んだ。
昼を過ぎた頃、セドリックが屋敷を訪れた。ロザリーとの婚約が解消された以上、以前のようにベルク家へ通う理由はない。それでも彼は時折顔を見せていた。
グレゴールへ挨拶を済ませた後、応接室へ入ってきたセドリックを見て、コレットが嬉しそうに立ち上がる。
「セドリック様」
「こんにちは、コレット」
「今日もいらしてくださったのですね」
「近くまで来る用事があったから」
そう言いながら、セドリックも笑っていた。ロザリーと話していた時とは違う。ロザリーは何かを尋ねれば、考えてから答えた。政治や領地経営について話せば、時には自分の意見まで述べた。間違ったことを言うわけではない。むしろ正しいことが多かった。だが、会話をしていて楽しいかと問われれば、別だった。コレットは、セドリックが話すことによく笑った。
「それで、その方はどうなさったんです?」
「結局、何も言えなくなってね」
「まあ。セドリック様に言い負かされたのですね」
「そこまで大した話ではないよ」
「でも、私ならそんなに上手にお話しできませんもの」
尊敬したような目で見上げられ、セドリックは満更でもない顔をした。ドロテアは少し離れた場所で二人を眺めながら、口元を緩めていた。
「随分、仲がよろしいのね」
「お母様」
コレットが恥ずかしそうに頬を染める。
「変なことを仰らないで」
「何も変なことなんて言っていないわよ。セドリック様も、ロザリーのことで色々と大変だったでしょうから、気を遣わずに話せる相手がいた方がいいでしょう?」
「ええ、まあ」
セドリックは否定しなかった。コレットはさらに頬を赤くした。その様子を見ても、グレゴールは特に咎めなかった。ロザリーとの婚約はもう終わっている。セドリックが誰と親しくしようと自由だ。むしろ、これまで両家には長い付き合いがある。ロザリーの件だけでハインツェ家との関係まで悪くなるよりは、今のように行き来が続く方が都合もよかった。
「お姉様は、どうしているでしょう」
しばらくして、コレットが不意に言った。部屋の空気が少しだけ変わる。
「急にどうしたの?」
ドロテアが尋ねた。
「少し気になっただけ。修道院って、厳しいところなのでしょう?」
「当然だろう」
グレゴールが答えた。
「遊びに行ったわけではない」
「そうですよね」
コレットは視線を落とした。
「私、時々考えるんです。お姉様が本当に何もしていなかったら、どうしようって」
「コレット」
セドリックが眉を寄せた。
「君までそんなことを言う必要はない」
「でも……」
「君は見つけたものを話しただけだろう?」
「はい」
「なら、君が責任を感じることではないよ」
コレットはゆっくり顔を上げた。
「そうでしょうか」
「ああ」
セドリックが答えると、ようやく安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます、セドリック様」
ドロテアは何も言わず、紅茶へ口をつけた。
その日の夕方、グレゴールは書斎で何枚かの書類に署名していた。ドロテアが家政を引き受けるようになってから、家の細かな支出に関する書類へ、一枚ずつ目を通すことは減っている。以前は前妻が確認したものをグレゴールがさらに確認していたが、今はドロテアが気を利かせて必要なものだけをまとめて持ってくる。
「こちらもお願い」
「これは?」
「屋敷で使う品物の支払いよ。少し値上がりしたみたい」
「そうか」
グレゴールは金額を一度見て、署名した。
「それからこちらも」
「多いな」
「季節の変わり目ですもの。色々必要なのよ」
ドロテアが困ったように笑う。グレゴールはそれ以上尋ねなかった。
「大変だな」
「ありがとう、あなた」
書類を受け取ったドロテアは、機嫌よく書斎を出ていった。廊下ではコレットが待っていた。
「終わった?」
「ええ」
「何か言われなかった?」
「何も」
ドロテアは小さく笑う。
「あなたのお父様は、難しいことをしている自分がお好きなの。家の細かなお金のことまで、いちいち気になさらないわ」
「じゃあ、大丈夫?」
「今までだって大丈夫だったでしょう?」
コレットも笑った。その髪には、朝グレゴールから使うことを許されたロザリーの髪飾りがついていた。
「それより、セドリック様とはどうなの?」
「どうって?」
「分かっているでしょう」
「まだ何も」
「まだ、ね」
ドロテアが娘の頬を軽く撫でる。
「焦らなくていいわ。ロザリーはもういないのだから」
コレットは返事をせず、髪に触れた。鏡がなくても、そこに何があるかは分かっている。以前は姉のものとして、ただ眺めているしかなかった。髪飾りも、婚約者だった男も、姉が持っていた立場も。今ではそのどれもが、手を伸ばせば届くところに並んでいる。あとは、自分が欲しいものを選ぶだけだった。
「分かってるわ、お母様」
コレットは笑った。




