第四話 ロザリーと悪女
それから数日が過ぎた。
ロザリーは相変わらず修道院での生活に慣れたとは言い難かったが、少なくとも朝の鐘が鳴れば起き、祈りを終えて仕事へ向かい、日が沈めば音を立てないよう部屋へ戻るという一日の流れは覚えた。
箒の扱いにも少しは慣れた。洗濯物を干せば、テレーゼに皺を指摘される回数も減った。カミラの遠慮のない物言いにはまだ腹が立つし、ミレイユとは顔を合わせるたびに一言余計なことを言われる。オデットは必要なことしか話さない。
しかし、夜だけは好きになれなかった。あれ以来、部屋の前で人の気配を感じることはなかった。それでも日が沈むと、修道院は異様なほど静かになる。誰かの咳払い一つ聞こえない廊下を前にすると、理由の分からない規則が頭をよぎった。夜に、絶対に音を立ててはなりません。守らなければ何が起こるのか、今も誰も教えてくれない。同じ日に来た侯爵令嬢がどこへ行ったのかさえ、分からないままだった。
その日の朝も、ロザリーはいつも通り食堂へ向かった。扉を開けたところで、足が止まった。いつもと違う場所に、一人の女が座っていた。淡い金色の髪を低い位置でまとめ、他の女たちと同じ灰色の服を身につけている。宝石もなければ、身分を示す装飾もない。それなのに、不思議と目を引いた。美しいから、というだけではない。背筋を伸ばして茶器へ手を伸ばす、その何気ない仕草だけで、周囲とは何かが違って見えた。
そして、ロザリーはその顔を知っていた。直接会ったことはない。ロザリーが本格的に社交界へ出るよりも前に、その女は表舞台から姿を消しているが、それでも肖像画なら何度も見た。貴族の娘であれば、一度くらいは名前を聞いたことがある。
「……ヴェロニカ・アルヴェーン公爵令嬢」
思わず口から名前がこぼれた。食堂にいた女たちが一斉にロザリーを見る。
当の本人だけは、茶器を持ったまま穏やかに微笑んだ。
「いいえ」
「え?」
「その名前は、ここへ入った時に置いてきたの。今はただのヴェロニカよ」
柔らかな声だった。王太子の元婚約者。王太子が寵愛した令嬢へ嫌がらせを重ね、最後には暗殺まで企てたとされた女。十年ほど前、王国中を騒がせた稀代の悪女。ロザリーが聞いてきた噂の中では、もっと恐ろしい女だった。冷酷で、傲慢で、相手を睨みつけるだけで使用人を震え上がらせるような女だとさえ言われていた。目の前のヴェロニカは、そのどれにも見えない。
「お座りになって?」
声をかけられ、ロザリーはようやく自分が入口に立ったままだったことに気づいた。
「……失礼しました」
空いている席へ向かおうとすると、ヴェロニカが自分の隣を軽く指で示した。
「こちらへどうぞ」
ロザリーは一瞬迷ったが、言われた通り隣へ座った。向かいにはミレイユがいる。普段なら何かしら嫌味の一つでも言いそうなものだが、今日は妙に機嫌がよさそうだった。テレーゼは帳面を閉じている。カミラも笑いを堪えるようにこちらを見ている。オデットだけは、いつもと変わらず静かにパンを食べていた。何かがおかしい。
「……何でしょうか」
誰にともなく尋ねる。答えたのはヴェロニカだった。
「あなたを陥れた方々のお話を、聞かせていただこうと思って」
「私を陥れた……?」
「義母と義妹。それから、お父様と婚約者もいらしたわね」
ロザリーはヴェロニカを見た。
「どうして、そんなことを」
「あなたがここへ来た理由は知っているわ」
「皆様も知っていましたけれど……」
ロザリーはそこで言葉を止めた。改めて食卓を見回す。何かがおかしいのではない。最初から、ずっとおかしかったのだ。新しく来た自分の事情を、全員が知っていた。何をするにも見られていた。過去について遠慮なく質問され、反応を確かめるような言葉を投げられた。ミレイユは夜の廊下で、あまりにも都合よく水差しを落としかけた。そして今、初めて顔を合わせたヴェロニカまで、自分の事情を知っている。
「……私を、試していたのですか」
向かいのミレイユが笑った。
「ようやく気づきましたの?」
「ミレイユ」
ヴェロニカが名前を呼ぶ。咎めるような声ではなかったが、ミレイユは口を閉じた。ロザリーはヴェロニカへ向き直る。
「では、本当に?」
「ええ」
「どうしてそんなことを」
「ここに残っていただくかどうか、決めるためですわ」
「残る?」
ヴェロニカは自分の茶を注ぎ足した。まるで天気の話でもするような調子だった。
「これからも、ご一緒ですね」
「ご一緒って……誰が決めたのですか」
「わたくしです」
あまりにもあっさり答えられ、ロザリーはしばらく言葉が出なかった。
「あなたが?」
「ええ」
「ですが、ここの院長はヘルミーネ様でしょう」
「そうね」
食堂の端にいたヘルミーネへ目を向ける。ヘルミーネはロザリーと目が合っても、表情を変えなかった。
「では、どうしてあなたが決めるのですか」
「そう決まっているからですわ」
「……決まっている?」
話がまるで見えない。ロザリーは額へ手を当てたくなった。
「待ってください。では、あの侯爵令嬢は?」
「別の修道院へ移っていただきました」
「生きているのですか?」
「もちろん」
ヴェロニカが目を瞬いた。
「死んだと思っていらしたの?」
「夜に大きな音がして、翌朝突然いなくなって、誰に聞いても何も教えてくださらなかったのですよ!」
「そういえば、そうだったわね」
「そうだったわね、ではありません!」
思わず声が大きくなる。ミレイユが楽しそうに笑い、カミラまで口元を手で隠した。
「では、夜の決まりも?」
ロザリーはヴェロニカを見た。
「夜に音を立ててはいけないという、あの規則もですか?」
「そうね」
「私の部屋の前にいた人も?」
「いたわね」
「誰ですか」
「さて、誰だったかしら」
ヴェロニカは可愛らしく首を傾げた。ロザリーは向かいのミレイユを見る。ミレイユは澄ました顔で茶を飲んでいる。
「……あなたでしょう」
「何のことかしら」
「今さらそれを続けるのですか?」
ミレイユは答えず、口元だけで笑った。ロザリーは深く息を吐き、もう一度ヴェロニカへ向き直った。
「どうして、そんなことをする必要があるのですか」
ヴェロニカは少しだけ笑みを薄くした。
「人が理不尽な扱いを受けた時に、どんな行動をするか知るのは勉強になりますわね」
「……それが理由ですか?」
ヴェロニカは答えず、静かに茶器へ手を伸ばした。
「追い詰められた時に、感情のまま周囲へ当たり散らすのか。立場の弱い者へ自分の仕事を押しつけるのか。誰かを巻き込んででも自分だけ助かろうとするのか。それとも、腹を立てながらでも周囲を見て、自分で考えられるのか」
ロザリーは、いなくなった侯爵令嬢を思い出した。食事が気に入らないと怒鳴り、自分に割り当てられた仕事を他人へ押しつけようとした女。
「あの方も……」
「ええ。あの方には、ここより合う場所があると判断しただけです」
その言葉には、哀れみも侮蔑もなかった。
「では、私が残された理由は?」
ヴェロニカが笑う。
「ご自分でお考えになってみては?」
ロザリーは黙った。不満を抱きながらも、修道院での生活には真面目に取り組んできたつもりだ。けれど、自分では特段目をつけられるようなことをした覚えもなく、何を基準に選ばれたのかまでは分からなかった。
「分かりません」
「今は、それで構いません」
ヴェロニカはあっさり言った。
「私は、言われたことに何でも従う方が欲しいわけではないもの」
「では、何が欲しいのですか」
「自分で考える方」
ヴェロニカはロザリーをまっすぐ見た。
「何が起きているのか。誰が何を望んでいるのか。自分はどうしたいのか。それを考えられる方と一緒にいたいの」
ロザリーは返事をしなかった。これまで自分は、考えてきたつもりだった。父がなぜ調査を嫌がるのか。セドリックがなぜ自分を信じなかったのか。コレットがなぜ泣いたのか。けれど結局、いつも最後には「家族だから」「悪気はないのだろう」「仕方がなかったのかもしれない」と考えることをやめてきていたと思う。それなのに『自分で考える方』と言われて選ばれたのだから、ますます訳が分からなかった。
「それで、駄目だった方は皆、別の修道院へ?」
「ええ。ここで無理に暮らしていただく必要もないでしょう?」
「ここは修道院ですよね」
「そうよ」
「あなたの屋敷ではありません」
「形式上は違うわね」
ヴェロニカはヘルミーネへ目を向けた。院長は何も言わず、静かに茶を飲んでいる。
「ヘルミーネ様も知っていたのですか」
「知っているも何も、ここは最初から何も変わっておりません」
「……最初から?」
「はい」
悪びれる様子すらない。ロザリーはしばらく二人を見比べた。
「では、本当にあなたが決めているのですね」
「ええ」
ヴェロニカは笑った。
「全員と遊べるほど暇ではないもの。気に入らない方と一緒に暮らす理由もないでしょう?」
「遊びだったのですか?」
「全てではないわ」
ヴェロニカはそこで少し身を乗り出した。
「それで、ロザリー。あなたをここへ送った方々について、聞かせてくださる?」
最初と同じ問いだった。だが今度は、その意味が少し違って聞こえた。
「何のためにですか」
「あなたをもっと知りたいのよ」
「知って、それから?」
「それは、あなたのお話を聞いてから考えましょう」
可憐な笑顔だった。王国中で稀代の悪女と呼ばれた女には、とても見えない。けれどロザリーは、先ほどまでとは違う意味で、その笑顔を警戒した。
「面白い話ではありません。どこにでもある、貴族の家の話です」
「構わなくてよ」
ヴェロニカは頬杖をつく。
「そのために、あなたを残したのだもの」




