第二十二話 カミラの失意
翌朝、両親が迎えに来た。
父はカミラの顔を見るなり、デュラン男爵は何があったのかと尋ねた。カミラは話した。ユリウスたちのこと。レオポルトと、名前も知らない聖職者、怯えていた若い令嬢たちのこと。少し離れたところでは、母が心配そうにカミラを見つめていた。何度か口を開きかけたものの、今は父娘の話を遮らない方がいいと思ったのか、何も言わなかった。
「『どうせ誰も信じない』って言ったの」
父も最後まで口を挟まなかった。話を聞き終えると、しばらく俯いていた。
「その聖職者の顔は覚えているか」
「ええ」
「名前は?」
「知らない。でも、見れば分かるわ」
「そうか」
父はそれだけ言った。
「帰ろう」
「……私の話を信じるの?」
思わず聞いた。父が顔を上げた。
「なぜ信じないと思う」
「だって、私、今まで男の人に――」
「お前が婚約相手を探していたことくらい知っている。だが、お前が人にどう接してきたかも見てきた。……誤解されることはあるかもしれんが、それで疑うつもりはない。お前の言うことを、私は信じる」
あまりにも当然のように言われて、カミラは呆気に取られた。そして父は立ち上がった。
「まず帰る。話はそれからだ」
父の言葉に、カミラは少しだけ肩の力を抜いた。少なくとも、自分の話を疑われてはいないことが嬉しかった。けれど、立ち上がった父はすぐには歩き出さなかった。険しい顔のまま何かを考え込み、小さく呟く。
「……これは、まずいかもしれんな」
「え?」
「いや。帰ってから話そう」
それ以上は答えなかった。その声を聞いて、落ち着きかけていたカミラの胸に、不安が落ちた。
デュラン家へ戻った時には、すでに噂が王都を回り始めていた。
男好きで有名なカミラ・デュランは、グラーフェン家の夜会でも複数の男へ自分から声をかけていた。その後、男たちのいる部屋で何やら騒ぎを起こしたらしい。やはり噂通りのふしだらな女だ、若いくせに毒婦ではないか――そんな話まで、もっともらしく広まっていた。
「早すぎない?」
カミラは届いた話を聞いて呆れた。まだ一日も経っていない。
「昨日の今日よ」
「だからこそだろう」
父の顔は険しかった。
「先に話を作った方が有利になる」
カミラ自身、自分が清廉潔白な令嬢だと思われていないことくらい分かっていた。良い婚約相手を探して夜会へ出て、気になる男がいれば自分から話しかける。けれど、そんな男爵令嬢は他にもいくらでもいる。それまで一度も言われたことのない「毒婦」などという言葉まで使われ始めたことには、さすがに驚くしかなかった。
「まずは、お前の名誉を戻す方が先だ」
「でも、グラーフェン公爵は――」
「今は刺激しない方がいい。こちらから正面切って何かを言えば、余計に不利になる」
カミラは納得できないまま黙った。
「夜会で何があったのか、知っている者はいるはずだ。まずはそちらからだ」
父は、カミラについて広がっている噂を否定するため、夜会に出席していた知人や付き合いのある家を訪ね、話を聞き始めた。母は何も聞かなかった。ただ、カミラの顔を見るたびに気遣うように声をかけ、食事の席ではいつもより近くに座った。噂について触れないことが、かえってありがたかった。家族の優しさに浸るだけではない。カミラはじっとしてはいられなくなり、あの夜会に出ていた令嬢や、以前グラーフェン家へ招かれたことのある者を辿り、自分で会いに行くことにした。
以前グラーフェン家の夜会へ招かれたことのある令嬢を探し、直接会いに行った。一人目は、何も知らないと言った。
「本当に?」
「ええ」
「でも、あなたも去年の夜会に出ていたでしょう?」
「出ましたけれど、何もありませんでした」
目を合わせないまま答えた。二人目は会うことすら断った。三人目は、すでに地方へ嫁いでいた。以前グラーフェン家で働いていた使用人にも話を聞いた。
「屋敷の奥の部屋で、若い令嬢たちが連れていかれるようなことはありませんでしたか?」
「そのようなことは存じません」
「本当に?」
「はい。存じません」
皆、同じだった。知らない。見ていない。覚えていない。普通なら腹が立ってもおかしくない状況だった。けれど、カミラには皆が口を閉ざす理由があまりにも分かりやすく、怒る気にはならなかった。相手はグラーフェン公爵だ。男爵家の娘一人のために、自分の家や仕事を危険に晒す者がどれだけいるだろう。最後に訪ねた令嬢も、最初は何も知らないと言った。
「分かったわ。急に来てごめんなさい」
カミラが帰ろうとすると、その令嬢が小さく呼び止めた。
「……カミラ様」
振り返る。令嬢は扉の向こうを一度確認してから、声を落とした。
「……これ以上、あの夜会のことには関わらない方がいいです」
それだけだった。
「あなた、何か――」
すぐに扉が閉じられた。
「……やっぱり、何かある」
父はカミラのために、懸命に動いてくれた。知人の貴族へ相談し、夜会にいた者へ手紙を出し、教会にも話を持ち込もうとした。その最中だった。マティアス・ケルナーと名乗る司教補佐がデュラン家を訪れた。応接室へ通された男を見た瞬間、カミラは息を呑んだ。
「この人」
父が振り返る。
「何だ?」
「夜会にいたわ」
マティアスは穏やかに微笑んだ。
「お会いしていたのですね」
「公爵と一緒にいたでしょう」
笑みは変わらなかった。
「何のことでしょう」
「女の子たちを奥へ連れていこうとしてた」
「カミラ」
父は確認するように、カミラの名を呼んだ。マティアスは静かに椅子へ座った。
「本日は、その件についてお話に参りました」
「なら、ちょうどいいわ」
カミラも座った。
「何があったのか説明してください」
「まず、少し落ち着いてお話ししましょう」
「落ち着いてるわよ」
「そうですか」
マティアスは父へ向き直った。
「男爵。お嬢様の将来を考えれば、この件はこれ以上大きくなさらない方がよろしいかと存じます」
カミラは一瞬、意味が分からなかった。
「……何ですって?」
「すでに、あの夜のことについては複数の証言がございます。ユリウス様とカミラ様は以前から親しくしておられ、あの夜もカミラ様ご自身がユリウス様について広間を離れた。その前にも複数の男性と親しく言葉を交わしており、無理やり部屋へ連れ込まれたところを見た者はいない、と」
「それで?」
「誤解があった可能性は否定できないでしょう」
「誤解?」
カミラは笑った。
「嫌だと言ってるのに腕を掴まれて、三人がかりで囲まれたのが?」
「実際に大きな被害はなかったと伺っております」
「だから?」
マティアスの笑みは少しも崩れなかった。
「今後のことを考えれば、お互いにこれ以上争わないことが最善ではないかと申し上げています」
「私が黙れば終わるってこと?」
「本日は、カミラ様のご様子が心配で参ったのです。あの夜のことを誤解なさっていたとしても、それでお心を痛めていてはお気の毒ですから」
「……何なの?」
「ですが、こうしてお元気そうなお姿を拝見できて安心いたしました」
あまりにも穏やかに言うので、カミラは言葉を失った。マティアスはそのまま、父を見た。
「男爵家にも、お付き合いがおありでしょう。公爵家と不要な軋轢を生むことが、果たしてお嬢様のためになるでしょうか」
「それは、脅しているのか」
父の声が低くなった。
「まさか、心配しているのです」
マティアスがカミラを見た。
「あなたはまだお若い。今後、良い縁談がないとも限りません。今回の件がこれ以上広がれば、ご自身の評判にも傷がつく」
「もう広げてるのはそっちでしょう」
「はて、何のことでしょう」
カミラはその顔を見て、ようやく理解した。この男は知らないふりをしているのではない。最初から知っている。知った上で、自分が折れるのを待っているのだ。
「あなた、いつもこうしてるの?」
マティアスの眉がわずかに動いた。
「夜会で何かあったら、女の子の家へ行って、将来のために黙れって言うの?」
「カミラ」
今度は父が強く名前を呼んだ。けれど、カミラを叱ったのではなかった。これ以上言えば危険だと分かっている顔だった。
マティアスは立ち上がった。
「本日はこれで失礼いたします」
「答えないの?」
「お嬢様が冷静になられてから、またお話しできればと思います」
「二度と来なくていいわ」
マティアスは何も言わず、穏やかな笑みのまま部屋を出ていった。
数日後、グラーフェン家から抗議文が届いた。あの夜、屋敷内でカミラが訴えるような事件は確認されておらず、ユリウスたちとは本人の意思で行動していたという複数の証言がある。カミラが主張している、屋敷の奥で目撃したという出来事についても事実無根であり、これ以上、根拠のない話によってグラーフェン公爵家の名誉を傷つけるのであれば、相応の対応を検討する。父は手紙を読み終えても、しばらく何も言わなかった。
「……やっぱりね」
カミラが先に言った。
「何がだ」
「こうすれば終わるって知ってたのよ」
カミラは椅子の背へ身体を預けた。
「多分、初めてじゃないわ」
父も否定しなかった。
その後、デュラン家との取引を見直したいという商会が現れた。親しかった貴族からの返事が遅くなった。夜会への招待状が減った。少しずつ、周囲から距離を置かれていく。父はそれでも根気よく連絡を取り続けたが、結果は同じだった。
「力になりたいが、公爵家とは争えない」
誰もが言い方を変えて、同じことを伝えてきた。カミラはその頃には、もう驚かなくなっていた。
「仕方ないわよ」
ある日、返ってきた手紙を父が机へ置くと、カミラが言った。
「この人たちに、家を潰してまで私を助けろなんて言えないわ」
父は答えなかった。悔しくないわけではない。腹も立つ。しかし、これ以上はどうすることもできなかった。
そしてついに、父がカミラを呼んだ。書斎へ入ると、机の上に何枚かの書類が置かれていた。父はひどく疲れた顔をしていた。
「座れ」
カミラは向かいへ座った。
「何?」
父はすぐには話さなかった。何度か口を開きかけて、ようやく言った。
「……お前を、家から外すことになった」
カミラは驚かなかった。むしろ、とうとう来たかと思った。
「そう」
「カミラ」
「分かってる」
「違う」
父が強く言った。
「お前が悪いと思っているわけではない」
「分かってるって」
「私は、お前を信じている」
声が震えていた。カミラは父を見た。
「でも、もう無理なのね」
父は俯いた。
「……すまない。このまま続ければ、家だけでは済まない。お前自身にも、もっと何をされるか分からん」
「うん」
「家から外したという形にすれば、向こうもこれ以上は――」
「分かった」
父が顔を上げた。
「カミラ」
「分かったって」
怒っているわけではない。父が自分を捨てたいわけではないことくらい、見れば分かった。むしろ最後までどうにかしようとして、もう何もできなくなったのだ。
「そんな顔しないでよ」
「……すまない」
「だから、謝らないで」
「だが」
「お父様が公爵だったら勝てたかもね」
カミラは笑った。
「そんな言い方をするな」
「事実よ」
父は何も言えなくなった。家を外されれば、カミラは貴族としての身分を失い、再び平民になる。せっかく手に入れた身分だった。良い結婚をして、もっと上へ行ってやろうと思っていた。夜会へ出て、着飾って、いつか本当に好きになれる男まで見つけてやろうと思っていた。全部なくなった。それでも、父を恨む気にはならなかった。自分の父になってくれて、ここまで自分のために動いてくれた人を、どうして恨めるだろうか。
今でも、あの夜のことが頭をよぎる。背中を押された感触と、閉じられた扉。逃げ出した時の息苦しさまで蘇り、カミラは小さく身を震わせると、自分の腕を強く掴んだ。恨む相手なら、他にいる。それだけは、はっきりしていた。
「これから、どうするの?」
カミラが尋ねた。
「修道院を手配した」
「修道院?」
「少なくとも、あそこなら安全だ」
王都から二日ほど離れた山間の修道院。訳ありの貴族令嬢が最後に送られる場所として、悪い噂ばかり聞いていた。
「私、もう貴族じゃないけど」
「それでも受け入れると言われた。修道院長にも確認済みだ」
父はそれ以上詳しく説明しなかった。カミラも聞かなかった。
家を出る日、父は馬車の前まで見送りに来た。母は隣で俯いていた。カミラが何も言えずにいると、堪えきれなくなったように肩を抱き寄せる。その腕に力がこもった瞬間、カミラはようやく、この家を出ていくのだという実感を持った。
「何かあれば手紙を出せ」
「出していいの?」
「当たり前だろう」
「公爵家に怒られない?」
「手紙の一通や二通、向こうにとっては気に留めるほどのことでもない。今の私たちは、その程度の相手だ」
カミラは少し笑った。父も、ほんの少しだけ笑った。それが最後だった。馬車が動き出し、デュラン家の屋敷が見えなくなる。カミラは窓の外を見たまま、ずっと考えていた。自分は負けたのだ。戦う相手が悪すぎた。真実を知っている人間がいても、公爵家を相手に口を開けない。父が信じてくれても、男爵家では何も変えられない。正しいことを言えば通るわけではない。
馬車は山道へ入った。やがて、木々の向こうに石造りの建物が見えてくる。大きな鉄門の前で馬車が止まった。カミラは荷物を持って降りた。門の向こうには、灰色の修道服を着た女が一人立っていた。
「カミラ・デュラン様ですね」
「もうデュランじゃないわ」
女は表情を変えなかった。
「承知しております」
「そう」
「修道院長のヘルミーネ・クラウゼです。中へどうぞ」
カミラは鉄門の向こうを見た。灰色の修道服を着た女たちが何人かいる。これから自分がどうなるのか、まだ何も分からなかった。復讐してやるとも思っていなかった。そんなことができるとも思っていない。公爵家を相手に、平民になった自分が何をできるというのだろう。ただ、生きていく場所がここになった。その程度に考えていた。ヘルミーネについて歩き出した時、建物の入口に一人の女が立っていることに気づいた。金色の髪。灰色の修道服を着ているのに、場違いなくらい綺麗な女だった。カミラを見ると、柔らかく笑う。
「ようこそ。お会いしたかったですわ」
その時のカミラはまだ知らなかった。ここが、何もかも失った女をただ閉じ込めるための場所ではないことを。
そして、自分が諦めたはずの話が、何年も経ってから再び動き始めることも。




