第二十一話 カミラと夜会
広間を出てしばらくは、まだ音楽が聞こえていた。
ユリウスは先を歩きながら、時折振り返ってカミラに話しかけた。先ほどまでと変わらない調子だった。庭に珍しい花があること、グラーフェン家では外国から取り寄せた植物も育てていること、この屋敷へ来るのが初めてなら見ておいて損はないこと。
カミラも最初は適当に相槌を打っていた。以前の別れ際、ユリウスが妙にあっさり引き下がったことは覚えている。それでも、その後いくつかの夜会で顔を合わせても何もされなかった。互いに話しかけることもなく、それで終わった話だと思っていた。
「温室って、まだ先なの?」
「もうすぐだよ」
「随分奥まで来たわね」
広間から離れるにつれて、廊下を行き交う人の姿が減っていた。壁に並ぶ燭台の間隔も広くなり、窓の外には庭ではなく、建物の裏手らしい暗い石壁が見える。カミラは足を止めた。
「やっぱりいいわ。戻る」
「どうして?」
「思ったより遠いもの。せっかく夜会に来たのに、こんなところを歩いてる方がもったいないわ」
「少しくらいいいだろ」
「よくない。私、まだ話してない人がいるのよ」
踵を返そうとすると、ユリウスが腕を掴んだ。強い力だった。
「何するの」
「ちょっと待てよ」
「離して」
カミラが腕を引くと、ユリウスは反対に引き寄せた。
「そんなに急ぐなって」
「離しなさい」
声を低くした。それでも、ユリウスは笑っていた。
「昔はもっと愛想が良かったのにな」
「その話は終わったでしょう」
「終わった?」
ユリウスの笑い方が変わった。
「君が勝手に終わらせただけだろ」
カミラは眉を寄せた。
「何を言ってるの?」
「俺に散々期待させておいて、急に気が変わったから終わり。そんな勝手な話があるか?」
「期待させた覚えはないわ。あなたが勝手に――」
「どうしようもない奴だな」
ユリウスが手を離した。けれど、すぐ横の扉を開く。
「入れよ」
「嫌よ」
カミラが足を止めたままでいると、ユリウスは苛立ったように背中を強く押した。身体が前につんのめり、そのまま部屋の中へ踏み込む。
「何するのよ!」
振り返った時には、ユリウスも中へ入り、背後で扉を閉めていた。部屋の中に人影が見えた。一人ではない。夜会の広間で見たことのある男が二人、壁際にいた。酒杯を持っていた男と、少し年上の男だった。二人とも、カミラを見ると笑った。そこでようやく、背中に冷たいものが走った。
「……何、これ」
「皆、君と話してみたいって言うからさ」
「私は話したくないわ」
「いつも男を探してるんだろ?」
「だから何?」
「俺らが駄目で、他の男ならいいっていうのも変じゃないか」
カミラは扉へ向かった。ユリウスが前へ回り込む。
「帰るわ」
「まだ来たばかりだろ」
「どいて」
「少しくらい付き合えよ。お前だって、こういうの嫌いじゃないだろ?」
カミラはユリウスの顔を見た。
「何を根拠に言ってるの?」
「何人の男に声かけてきたんだよ」
「それと何の関係があるの」
「同じだろ」
「そんなわけないでしょう」
はっきり言った。
「私は結婚相手を探していただけよ。誰と話そうが、誰に笑いかけようが、あなたたちにこんなことをされていい理由にはならない」
「まだ何もしてないだろ」
「だったら、どいて」
誰も動かなかった。カミラは一歩下がった。そこで、一人の男が腕を伸ばしてきた。肩を掴まれる。
「触らないで!」
振り払おうとすると、今度は別の男が手首を掴んだ。
「騒ぐなよ」
「離して!」
「自分からここまで来たんだろ」
「騙して連れてきたんでしょう!」
カミラは身体を捻った。マーメイドラインの細い裾では走りにくい。夜会では自分を一番綺麗に見せてくれたドレスが、今はひどく邪魔だった。ユリウスが近づいてくる。
「大げさなんだよ。君だって今まで散々男に媚びてきたじゃないか」
「だから何よ!」
「俺はそういう君でも理解してやろうと思ってたんだぞ」
「いらないわ!」
カミラは掴まれていた腕を思いきり引いた。外れない。なら、と目の前にいた男の足を踵で踏みつける。
「痛っ!」
男が怯んだ隙に腕を振りほどこうとしたが、すぐに別の男に肩を掴まれた。背中を押され、そのまま床へ倒される。起き上がろうとしたところを上から押さえつけられ、両腕も自由にならない。
「離して!」
身体を捻っても、力の差はどうにもならなかった。一人を振り切っても、まだ二人いる。扉は閉じられ、助けを呼べる相手もいない。このままでは、本当に何をされても逃げられない。その考えが浮かんだ瞬間、カミラの身体から血の気が引いた。その考えが浮かんだ瞬間、カミラの身体から血の気が引いた。それでも、押さえつけている腕が顔の近くまで下りてきた瞬間、カミラは迷わず噛みついた。
「っ、てめえ!」
男が反射的に腕を引く。その隙に、カミラは身体を捻って片膝を立て、目の前の男を思いきり蹴り上げた。
「ぐっ……!」
呻き声とともに身体が離れる。
カミラは床へ手をつき、転がるようにして距離を取ると、そのまま立ち上がった。ユリウスが後ろから掴みかかる。その手を避けたところで、背中からドレスを掴まれた。布が張り、縫い目が裂ける音がした。
「離して!」
振り返りざまに手を振るう。爪が男の頬に当たり、相手が顔を押さえた。
「この女!」
扉まであと少しだった。カミラは取っ手へ手を伸ばし、身体ごと扉へぶつかるようにして開けた。
「待て!」
後ろから声がしたが、そのまま廊下へ飛び出し、夢中で走った。来た道を戻れば広間へ出られる。そう思っていたのに、焦っていたせいで最初の角を間違えたのか、知らない廊下へ入った。
「最悪……!」
戻るか迷ったところで、後ろから足音が聞こえた。考えている暇はない。カミラはさらに奥へ走った。裾が足へまとわりつく。片側の肩は裂け、髪も崩れていた。それでも立ち止まるよりましだった。角を曲がる。
その先だけ、廊下の雰囲気が違った。客のために整えられた場所ではない。装飾は少なく、扉の数も少ない。使用人用とも違う。屋敷の奥へ続く私的な区画なのだろう。人の声がした。カミラは反射的に足を止めた。男の声だった。
「嫌だと申しているわけではないでしょう」
聞き覚えのある声ではなかった。少し先の扉の前に、数人の人間がいた。グラーフェン公爵レオポルト。夜会の主催である大貴族の男だった。その隣に聖職者らしい服装の男がいる。そして、二人の前に若い令嬢がいた。いや、若いというより、幼く見えた。夜会に出られる年齢ではあるのだろう。それでも、カミラより明らかに年下だった。淡い色のドレスを着た少女は、もう一人の同じくらいの娘と手を握っている。
「でも、お父様から、あまり遅くならないようにと……」
「心配はいりませんよ」
聖職者の男が穏やかに答えた。
「公爵閣下がお話をなさりたいだけです。すぐに戻れます」
少女は頷かなかった。レオポルトが笑った。
「父上には私から話しておこう。君の家にも悪い話ではない」
その言葉に、少女の顔がさらに強張った。カミラは動けなかった。何をしているのかはっきり見たわけではないが、あの子たちが行きたくないことだけは分かった。しかし公爵から誘われ、聖職者まで隣にいる。低い爵位の家の娘なら、断れるはずがない。
先ほどまで自分がいた部屋と、目の前の光景があまりにも同じだった。カミラの喉が乾いた。その時、レオポルトが顔を上げた。ほんの一瞬だが、目が合った。カミラの息が止まる。レオポルトの視線が、裂けたドレスの肩口へ落ちる。乱れた髪。息を切らし、こんな場所まで逃げ込んできた女。何があったのか察するには十分だった。
「……誰だ?」
そばにいた男が振り返った。カミラは走り出した。
「待て!」
後ろから声が上がる。追ってくる。そう思った。けれど、すぐに別の声がした。
「放っておけ」
レオポルトだった。カミラの足が一瞬だけ鈍った。
「しかし、閣下」
「構わん」
少しも慌てていない声だった。
「どうせ、あの娘が何を言ったところで誰も信じん」
カミラは振り返らなかった。その言葉だけは、はっきり聞こえた。
また角を曲がり、人の声を探す。今度は遠くから音楽が聞こえた。広間だ。そこまで戻ればいい。走った。階段を下り、人の姿を見つけた瞬間、ようやく声が出た。
「誰か……!」
給仕をしていた使用人が振り返る。
「お嬢様?」
「お願い、誰か呼んで」
カミラは壁へ手をついた。
「男の人が……部屋に……」
うまく言葉が続かない。近くにいた女中が慌てて駆け寄ってきた。
「まあ、お召し物が……」
「違うの。聞いて。ユリウスが――」
何人かが集まってきた。その中には夜会の客もいた。
「何があった?」
「大丈夫ですか?」
「お部屋へお連れします」
「待って。奥にも女の子が――」
「まずお休みください」
「違う、グラーフェン公爵が――」
その名を出した瞬間、周囲の空気が変わった。誰も露骨な反応はしなかった。ただ、カミラを支えていた女中の手が少しだけ強くなった。
「……今はお休みくださいませ」
何を言っても、同じ言葉を繰り返されるばかりだった。その夜、カミラは客室の一つで保護された。やがて夜会の喧騒も遠のき、屋敷の中は静かになっていった。けれど、ユリウスは現れなかった。追ってきた男たちも、主催であるグラーフェン家の者も、事情を確かめに来ることはなかった。
あれだけの騒ぎが起きたというのに、何の反応もないことが、かえって不気味だった。




