第二十話 カミラの矜持
平民の母から生まれ、後に父であるデュラン男爵に引き取られたカミラは、貴族令嬢として育った期間が他の令嬢より短かった。
そのことを恥じてはいなかったが、せっかく手に入れた身分を利用しない理由もないと思っていた。顔立ちには恵まれている。男から声をかけられることも多い。それなら、できるだけ条件の良い相手と結婚したい。平民の母から生まれたカミラにとっては、それも一つのハングリー精神だったのだろう。
夜会へ出れば有力な家の子息を探し、気になる男がいれば自分から話しかけた。相手が何を好むかを見て、話題も態度も変える。けれど、だからといって誰にでも媚びたり、自分を安売りしたりするつもりはない。曲がりなりにも、自分はいま貴族の娘なのだという矜持があった。
「条件が良ければ誰でもいいってわけじゃないのよ」
以前、そう言って友人に笑われたことがある。
「玉の輿を狙ってるくせに?」
「狙ってるわよ。でも、どうせ結婚するなら好きになれる人がいいじゃない」
「欲張りねえ」
「一生に一度なんだから、それくらい欲張ってもいいでしょ」
現実的に相手を見定めながらも、どこかでは、自分にもいつか本当に心から惹かれる相手が現れるのではないかと思っていた。見込みがないと思えば深追いせず、次を探す。それでも最後に選びたいのは、家柄だけではなく、自分自身が一緒にいたいと思える相手だった。
そんなふうに出会いを重ねていれば、当然、気の合わない男や不快な相手にも出会う。ユリウスも、その一人だった。
最初に知り合った頃は、カミラもユリウスを悪くない相手だと思っていた。家柄も財産も申し分なく、見た目も整っている。話していて退屈もしない。何度か夜会で顔を合わせるうちに、食事へ誘われるようにもなった。
「次の夜会、君も来るんだろう?」
「ええ。そのつもり」
「だったら、最初のダンスは空けておいてくれよ」
「どうして?」
「どうしてって、俺と踊るからに決まってるだろ」
あまりにも当然のように言うので、カミラは一瞬返事に困った。
「まだ約束してないけど」
「今した」
「勝手ね」
「君だって嫌じゃないだろ?」
そう言って笑う顔には、本気で断られる可能性など考えていない自信があった。最初のうちは、それも少し強引なくらいだと思っていた。
「昨日、アルベールと随分長く話してたな」
「見てたの?」
「嫌でも目に入るよ。あいつ、君に気があるんじゃないか?」
「さあ。普通に話していただけよ」
「やめた方がいい」
「どうして?」
「君には釣り合わない。あいつの家なんて大したことないし、本人も地味だろ」
「本当に普通の話をしていただけよ。私だって、会う男全員を婚約者候補として見てるわけじゃないわ」
「そう言って、いつも男を狙ってるんだろ」
カミラは眉をひそめた。
「俺は寛容だから、そういうところも理解してるよ」
「……何それ」
「君のためを思って言ってるんだよ」
自分の判断が正しいことを疑っていない。
別の日には、カミラが最近読んだ芝居の話をしても、半分も聞かないうちに話を遮られた。
「そういうのも悪くないけど、今度うちの馬を見に来ないか?」
「馬?」
「新しく買ったんだ。王都でもなかなか手に入らない血統でね。父上もかなり金を出したらしい」
「へえ」
「乗馬も教えてやるよ。君、あまり上手くないだろ?」
「別に困ってないわ」
「でも俺が教えた方が早い」
そこからは延々と、自分がどれだけ馬に詳しいか、どれだけ父に期待されているか、最近どこの家から縁談めいた話を持ちかけられたかという話が続いた。
「この前なんて伯爵家からも声をかけられたんだ。でも、正直あそこの娘じゃ退屈でね」
「断ったの?」
「まだ。向こうがかなり乗り気だから、少しくらい期待させておいてもいいだろ」
カミラはそこで、ようやくはっきり思った。自分も男を見定めている。条件の良い相手を探しているし、気のあるような態度を取ることもある。けれど、これは違う。ユリウスにとって、女は対等に付き合う相手ではなく、自分より下にいて当然の存在なのだ。
「僕だって、結婚したあとに他の女と遊ぶことくらいはあるかもしれない」
「……は?」
「でも、君だって男に声をかけて回ってるだろ?」
「それと浮気を一緒にしないで。私は誰とも付き合ってないわよ」
「そういうところも含めて、僕は理解してるって言ってるんだよ」
「勝手に同類にしないでくれる?」
「だからこそ、君には僕みたいな男が一番合うんだ。普通の男なら、君みたいな女は扱いきれないだろ?」
「ずいぶん都合のいい話ね」
「僕くらい余裕のある男じゃないと無理だってことだよ」
本気だった。カミラは思わず笑った。
「何?」
「別に。ただ、あなたって本当に自分のことが好きなのね」
「自信がない男よりいいだろ?」
「限度ってものがあるわよ」
その頃にはもう、婚約相手としてはもちろん、友人として付き合うのもご遠慮したい相手になっていた。だから、カミラは早々に婚約候補から外した。
「ごめんなさい。あなたと結婚する気はないわ」
遠回しに期待を持たせるより、その方がいいと思って、カミラははっきり告げた。ユリウスは一瞬きょとんとしたあと、すぐに笑った。
「何を言ってるんだ?」
「そのままの意味よ」
「また駆け引きか? 君も好きだな」
「違うわ。本当に、あなたとは合わないと思ったの」
笑っていたユリウスの口元が、わずかに引きつった。
「……誰か他にいるのか?」
「いないわよ」
「なら、どうして」
「私にだって選ぶ権利はあるもの」
「選ぶ権利?」
ユリウスは鼻で笑った。
「ずいぶん偉そうなことを言うんだな。所詮は平民上がりの男爵令嬢だろ?」
「何ですって?」
「平民だった頃に何をしてたのかなんて、だいたい想像つくよ。今さら貴族の娘みたいに気取って、男を選ぶ立場だなんて本気で思ってるのか?」
カミラはしばらくユリウスを見た。
「そういうところよ」
「何がだ」
「女を最初から自分より下に見て、勝手に決めつけるところ。断られたら相手を貶さないと気が済まないなんて、ずいぶん器が小さいのね」
ユリウスの顔から笑みが消えた。頬がわずかに引きつり、握った手に力が入る。怒鳴り返したいのを堪えていることくらい、カミラにも分かった。けれど、しばらくするとユリウスはゆっくりと手を開いた。表情まで何事もなかったように整えていく。
「……そうか」
声だけが妙に静かだった。それ以上は言い返さず、ユリウスはカミラを見つめたまま、わずかに口元を上げた。その笑みには、先ほどまでの余裕も愛想もなかった。
「分かったよ」
あまりにも素直に引き下がったことには、少しだけ引っ掛かりが残った。それでも、その後いくつかの夜会で顔を合わせても、ユリウスから話しかけてくることはなく、カミラもわざわざ近づこうとはしなかった。
しばらくして、デュラン家へ一通の招待状が届いた。
グラーフェン公爵家の夜会だった。カミラは何度も封蝋を確かめた。グラーフェン家は、王都でも指折りの大貴族である。その夜会には高位貴族だけでなく、将来有望な若い子息も多く招かれる。爵位の低い家の令嬢にとって、招待状が届くだけでも滅多にない機会だった。良い結婚相手を探しているカミラにとっては、憧れていた場所と言ってもよかった。どうして自分が招かれたのかは分からなかった。父も驚いていたが、断る理由はなかった。
カミラは数日前から衣装を選んだ。選んだのは、同年代の令嬢が好む明るい色よりも少し落ち着いた、深い青みを帯びた灰色のドレスだった。上半身から腰までは身体の線に沿い、裾へ向かって緩やかに広がるマーメイドラインで、華美な飾りは少ない。その代わり、生地の艶と細かな刺繍が動くたびに光を拾った。若い令嬢らしい可憐さを見せる衣装ではなかった。けれど、カミラにはよく似合った。豊かな黒髪をまとめ、耳元にだけ宝石をつける。鏡の前で全身を確認した時、カミラは満足した。可愛い令嬢はいくらでもいる。なら、自分は自分の得意なところで勝負すればいい。
夜会の会場は、カミラがそれまで出席してきたどの屋敷よりも豪華だった。
広間にはいくつもの大きな燭台が灯され、楽団が途切れることなく演奏を続けている。料理も酒も惜しみなく並べられ、聞いたことのある家名の令息たちが、当たり前のように談笑していた。カミラは胸が高鳴った。ここなら、本当に良い相手を見つけられるかもしれない。何人かと話した。父より高い爵位を持つ家の次男もいたし、商会との繋がりが強い伯爵家の男もいた。カミラはいつものように笑い、相手の話を聞き、ここぞという時には得意の妖艶さをちらつかせた。
レオポルトとも一度だけ挨拶を交わした。公爵はカミラを一瞥しただけだった。
「デュラン男爵の娘か」
「はい。今夜はお招きいただき、ありがとうございます」
「楽しんでいきなさい」
それだけだった。カミラも気にしなかった。公爵本人に見初められることを狙っていたわけではない。むしろ、この夜会へ出入りできる人間と知り合える方が重要だった。
夜が深くなった頃、ユリウスが現れた。
「楽しんでるみたいだな」
声をかけてきたことに、カミラは少し驚いた。
「あなたも来ていたのね」
「失礼だな。俺だって招待くらいされる」
以前のことを気にしている様子はなかった。むしろ機嫌が良かった。
「良い相手は見つかった?」
「どうかしら」
「相変わらずだな」
「放っておいて」
カミラが笑うと、ユリウスも笑った。
「前のこと、まだ怒ってる?」
「別に」
「ならよかった。俺も大人気なかったと思ってたんだ」
意外だった。カミラは、自分が少し警戒しすぎていたのかもしれないと思った。
「この屋敷、初めてなんだろ?」
「ええ」
「庭も見た?」
「まだ」
「奥に温室があるんだ。珍しい花が置いてある」
興味がないわけではなかった。それに、人の多い夜会の最中である。屋敷の中を少し案内してもらう程度ならと、カミラはユリウスについて広間を出た。
背後では、まだ楽団の演奏が続いていた。眩しいほどの灯りの下で着飾った男女が笑い、酒杯を傾け、次の曲を待っている。初めて足を踏み入れたグラーフェン家の夜会は、カミラが思い描いていた通り、華やかで魅力的な場所に見えていた。




