第十九話 ロザリーと毒婦
ロザリーはエンフェルト家を継いでからも、何かにつけて修道院へ足を運んでいた。
理由は様々だった。テレーゼに見てもらいたい帳簿がある、ヴェロニカへ報告することがある、ミレイユへ頼まれた品を届ける。中には、本当にわざわざ自分で来る必要があるのかと思うような用事も少なくなかった。
あまりに頻繁に訪れるものだから、そのうちヘルミーネから修道院の仕事を任されるようになった。
修道院では以前から、教会と協力して貧しい者へ食事や衣類を配ったり、生活に困っている女性の相談を受けたりしている。そうした活動には商会や貴族からの寄付も必要であり、時には行政や教会との調整もあった。修道院だけで話を進めるより、貴族家の当主であるロザリーが同行した方が都合の良い場面も多い。
「明日は王都近郊の教会へお願いいたします」
そうヘルミーネに言われた時も、ロザリーは特に疑問を持たず頷いた。
「分かりました。必要な書類はありますか?」
「こちらにまとめてございます。カミラも同行いたしますので、現地での対応は二人で」
「はい」
「……ずいぶん慣れてきましたわね」
横で聞いていたミレイユが呆れたように言った。
「何がですか?」
「あなた、もうこちらに住んでいないのでしょう? それなのに、わたくしより修道院の予定を把握している気がいたしますわ」
「仕事を任せていただいていますから」
「最初と印象が変わってませんこと?」
意味が分からずロザリーが首を傾げると、ミレイユはそれ以上説明しなかった。
翌日、ロザリーはカミラとともに王都にほど近い教会へ向かった。
その日は、教会が定期的に行っている食事の配布を手伝う予定になっていた。修道院から持ち込んだ食料のほか、近隣の商会や農家から寄付された野菜やパンが並び、教会の裏庭では朝から大きな鍋が火にかけられている。ロザリーは寄付された品の確認と教会側との話を担当し、カミラは配膳へ回った。こういう場所では、カミラの方がずっと要領が良かった。
「はい、おばあちゃん。こっちの方が柔らかいパンだから、こっち持って帰りなよ」
「でも、これは子供たちに」
「まだあるわよ。それにこの前は、固いパン残したでしょ」
「あんた、よく見てるわねぇ」
「おばあちゃん好きだから、気になっちゃうのよ」
そう言いながら笑って、相手が遠慮する前に籠へ入れてしまう。
少し離れたところでは、小さな子供が皿をひっくり返しかけた。
「おっと」
カミラはすぐに手を伸ばして皿を支えた。
「危ない。せっかく並んだのに、また後ろに並び直すところだったわよ」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいから、両手で持ちなさい」
誰に対しても距離を詰めるのが早い。相手が堅い人間なら少し丁寧に、冗談を言える相手ならすぐに砕ける。その切り替えが自然だから、初対面の人間にも警戒されにくかった。
「相変わらずの人たらしぶりですね」
昼を過ぎ、人の流れが落ち着いたところでロザリーが声をかけると、カミラは空になった籠を積みながら振り返った。
「ちょっと口が悪くなってない?」
「褒めていますのよ」
「ミレイユの真似やめて」
「あ、バレましたか」
「あなたも、だいぶ肩の力が抜けたわね。最初は、誰に話しかけても『きちんとお話を伺わなければ』って顔してたもの」
「そんな顔をしていましたか?」
「してた。相談する側まで緊張するような顔」
「そうでしたか……気をつけます」
「もう大丈夫だって。そうやって真面目に受け取るところは変わらないわね」
カミラが笑う。いつも通りだった。だから、その少し後に見せた反応が、ロザリーには余計に異様に映った。
「カミラ?」
男の声だった。教会の前を数人の男女が通りかかっていた。王都へ戻る途中なのか、身なりはいずれも良く、その中でも声をかけてきた男はひと目で貴族だと分かる服装をしている。二十代前半ほどで、整った顔立ちをしていた。カミラが動きを止めた。手にしていた木箱の端が、石床へぶつかる。
「……カミラ?」
ロザリーがもう一度呼んだ。返事がない。男は連れへ何か告げると、一人でこちらへ近づいてきた。
「やっぱりカミラじゃないか。随分久しぶりだな」
その声を聞いた途端、カミラが一歩下がった。ロザリーはカミラの顔を見た。血の気が引いている。普段なら、好ましくない相手に声をかけられてもこんな顔はしない。むしろ笑顔のまま相手をあしらい、あとからロザリーに悪口を言うくらいだった。
「修道院にいるって話は本当だったんだな」
男はカミラの服装を眺め、口元を歪めた。
「似合わないな。昔はあれだけ派手に着飾ってたのに」
「……帰って」
カミラが言った。声がかすれていた。
「何だよ。久しぶりに会ったんだから、もう少し愛想よくしてくれてもいいだろう?」
「話すことなんてない」
「昔はあんなに愛想が良かったのにな」
男が笑う。
「男を見つけるたびに、よく笑ってたじゃないか」
カミラの手が震えた。ロザリーは持っていた書類を脇へ抱え直し、二人の間へ入った。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
男が初めてロザリーを見る。
「誰だ、君は」
「ロザリー・エンフェルトと申します。本日は、この修道院の奉仕活動の監督を任されております」
「エンフェルト?」
男は一瞬考え、それから興味を失ったように視線をカミラへ戻した。
「こいつの知り合いか何か?」
「少なくとも、今はわたくしと一緒に仕事をしています」
「だったら忠告しておくよ。そいつを信用しすぎない方がいい」
「やめて」
カミラの声が強くなった。男はそれを面白がるように眉を上げた。
「何を怒ってるんだ? 別に嘘は言ってないだろう。昔のお前を知ってる人間なら、皆知ってることだ」
「もういいから、帰って」
「随分偉そうになったな。男爵家からも追い出されて、こんなところにいるくせに」
カミラが息を呑んだ。ロザリーはすぐに男を見た。
「これ以上、彼女に話しかけないでください」
「だから、君には関係ないだろう」
「本人が嫌がっています」
「何も知らないからそんなことが言えるんだ」
男は鼻で笑った。
「そいつは昔、自分から男に近づいて回ってた女だぞ。良い家の男を見つければ媚びて、気に入らなければ次へ行く。今さら清廉な修道女みたいな顔をしてる方がおかしいだろう」
ロザリーは男から視線を離さないまま、そっとカミラの手を握った。それから、はっきりと言った。
「それと、今ここで嫌がっている相手につきまとうことに、何か関係がありますか?」
男の顔から笑みが消えた。
「俺とこいつの間に何があったのかも知らないくせに」
「知りません。ですから、過去については何も申し上げていません。今、カミラがあなたと話したくないと言っている。それだけです」
ロザリーの声が一瞬、辺りの喧騒の中に響いた。周囲にいた教会の者や、片づけをしていた修道院の者たちも、次々とこちらへ目を向け始めた。男もそれに気づいたらしい。
「……馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるように言って、ロザリーの横からカミラを見る。
「相変わらず、自分が被害者みたいな顔をするんだな」
カミラの肩が揺れた。
「ユリウス」
初めて、カミラが男の名前を呼んだ。
「もう、二度と私に話しかけないで」
ユリウスはしばらくカミラを見ていたが、やがて薄く笑った。
「心配しなくても、今のお前に用なんてないよ」
そう言い残して、連れのもとへ戻っていった。姿が見えなくなっても、カミラは動かなかった。
「カミラ?」
ロザリーが腕へ触れると、びくりと身体が跳ねた。
「あ……ごめん」
「座りましょう」
「平気よ」
「平気な顔ではありません」
「本当に、大したことじゃ――」
言いながら、カミラが口元を押さえた。
「……ごめん、やっぱりちょっと、気持ち悪い」
ロザリーはすぐに近くにいた教会の者へ声をかけた。奥の部屋を借り、カミラを椅子へ座らせると、冷たい水を持ってきてもらった。カミラが少し落ち着いたところで、早めに修道院へ戻れるよう、残っていた仕事はその場にいた者たちへ引き継いだ。
「ごめん。仕事の途中なのに」
「謝らなくて結構です」
「でも」
「体調の悪い人を働かせる方が問題です」
カミラは水の入った杯を両手で持った。その指には、まだ少し震えが残っていた。ロザリーは向かいに座ったが、先ほどの男について尋ねなかった。名前は分かった。ユリウス。それ以上は、カミラが話すまで聞くべきではないと思った。
「……聞かないの?」
しばらくして、カミラの方から言った。
「聞いてほしいのですか?」
「そう言われると困るわね」
「では、聞きません」
「真面目」
「カミラが話したくなったら聞きます」
カミラは杯へ目を落とした。
「そう」
それきり、修道院へ戻るまでユリウスの話は出なかった。
夕方前、馬車が修道院へ着くと、玄関先にいたミレイユがすぐに二人へ気づいた。
「早かったですわね。何をして――」
そこまで言って、カミラの顔を見た。
「……どうなさいましたの?」
「何でもないわよ」
「何でもない顔ではございませんわ」
「ロザリーと同じこと言わないで」
「そんな酷い顔をして、言わない方がおかしくてよ」
カミラがいつものように言い返さなかったので、ミレイユの表情がさらに険しくなった。
「誰かに何かされましたの?」
「ミレイユ」
奥からヘルミーネが現れた。
「まずは中へ。カミラ、夕食までは少し休みなさい」
「大丈夫よ」
「休みなさい」
「……はい」
院長に言われ、カミラは素直に従った。その様子だけで、ミレイユは何か言いたそうにしていたが、ヘルミーネに視線を向けられると口を閉じた。
食堂へ向かう途中、ロザリーはヴェロニカとすれ違った。
「あら。お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
ヴェロニカはロザリーを見たあと、少し先を歩くカミラへ目を向けた。ほんの一瞬だった。いつもの柔らかな笑みが消えた。
「……ヴェロニカ」
「何かしら」
「今日、ユリウスという方に会いました」
ヴェロニカは驚かなかった。それだけで、ロザリーは察した。
「ご存じなのですね」
「ええ」
「何があったのかも?」
ヴェロニカは少しだけ視線を伏せた。
「カミラからお聞きになって」
「あなたからは話さないのですか?」
「あの子のお話ですもの」
それ以上、ヴェロニカは何も言わなかった。
夕食の頃には、カミラの顔色もだいぶ戻っていた。普段より口数は少なかったが、ミレイユがスープの具を選り分けているのを見つけて「子供みたいなことしてるんじゃないわよ」と言える程度には落ち着いている。
「あなたにだけは言われたくありませんわ」
「どういう意味よ」
「そのままの意味です」
テレーゼが二人を見てため息をつき、オデットは何も気にせず食事を続けていた。ロザリーも何も聞かなかった。ヴェロニカも、ヘルミーネも同じだった。食事が終わり、皆がそれぞれ席を立とうとした時だった。
「ねえ、ちょっといい?」
カミラが言った。皆の視線が集まる。カミラは一度ロザリーを見たあと、ヴェロニカへ視線を向けた。
「今日会った男のことなんだけど」
ヴェロニカは何も言わず、続きを待っていた。
「そろそろ、皆にも話しておこうかなと思って」
いつもの軽い調子のように話す。その言葉に、皆がそれぞれ席へ座り直した。ミレイユも口を閉じ、テレーゼは手元のものを置く。オデットも顔を上げ、ヴェロニカとヘルミーネも静かにカミラへ視線を向けた。
「私がこの修道院に来ることになった時の話」




