第十八話 ロザリーの出発
セドリックが帰った日の夕食後、ロザリーはヴェロニカと二人で茶を飲んでいた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「ええ。どうぞ」
「もしコレットが、わたくしではなくここへ送られていたら、残していましたか?」
ヴェロニカは少しだけ考えた。
「残したかもしれませんわね」
「助けたのですか?」
「それは分かりませんわ」
あっさりした答えだった。
「全員に手を差し伸べることなんてできませんもの。あなたはここへ来て、たまたま残った。コレットにはその機会がなかった。それだけのことですわ」
以前なら、冷たいと思ったかもしれない。けれど今のロザリーには、ヴェロニカが誰にでも優しい人間ではないことくらい分かっていた。そして、もう一つ分かるようになったことがある。
「……ヴェロニカ」
「何かしら」
「あなた、本当に王太子妃を暗殺しようとしたのですか?」
カップを持ち上げていたヴェロニカの手が止まった。
「あら」
驚いたというより、面白がっている顔だった。
「どうしてそう思いましたの?」
「あなたの事件について、ここへ来る前から知っていました。王太子殿下が今の王太子妃を選ばれてから、あなたが嫌がらせを繰り返し、最後には暗殺を企てたと」
「ええ。そういうことになっておりますわね」
「でも、おかしいです」
ロザリーは続けた。
「今回のことで、あなたがどれだけ慎重に行動する人なのかは分かりました。証拠を確かめて、相手が次にどうするかまで考えている。それなのに当時のあなたは、人目につくところで嫌がらせを繰り返し、ご自分が疑われるような証拠まで残したことになっている」
ヴェロニカの笑みが少しずつ深くなった。
「暗殺まで考えた人が、そんなに分かりやすく証拠を残すでしょうか」
しばらく沈黙したあと、ヴェロニカは静かにカップを置いた。
「そんなふうに思ってらっしゃるのね。ロザリーに褒めていただけて、とても嬉しいわ」
「褒めてはいますが、誤魔化さないでください」
「私はロザリーを褒めておりますのよ。本当に」
楽しそうに笑ってから、ヴェロニカは少しだけ声を落とした。
「わたくしも、何もしていなかったわけではなくてよ。気に入らない相手へ圧力をかけたこともありますし、方々から情報を集めたこともあります。随分と嫌われるようなこともいたしました」
「では、暗殺は?」
「しておりませんわ」
「嫌がらせの証拠は?」
「わたくしがしたこともあれば、そうでないものもございました」
ロザリーは眉を寄せた。
「では、やはり――」
「当時、アルヴェーン家は少々力を持ちすぎていたのです」
ヴェロニカはそれだけ言った。王太子が別の令嬢を選んだ時期に、強大になりすぎた公爵家の娘を王太子妃の座から外したい者が複数おり、ヴェロニカ本人にも敵が多かった。
「色々な方にとって、ちょうど良かったのでしょうね」
まるで他人事のように言う。
「反論しなかったのですか?」
「いたしましたわよ。けれど、あの頃にはもう、王家の中で結末は決まっておりましたの」
ヴェロニカは少しも悔しそうに見えなかった。
「まあ、わたくしも所詮は勝負に負けた女ということですわ」
「そんな言い方……」
ロザリーは言葉を止めた。本当にそれだけなのだろうか。十年近く修道院にいて、それでもなお王都や各地へ手を伸ばし続けている。王太子夫妻のことを口にしても、ヴェロニカには追い詰められた者らしい様子がまるでなかった。それどころか、どこか余裕さえある。そう考えれば、今回見つかった王太子へ繋がる証拠を、すぐには公にしなかったことも気になった。
「では、王太子殿下へ繋がる帳簿を公にしないことも、その件と関係があるのですか?」
「あら」
「まだ使い道があるから残しているのでしょう?」
「さて、どうかしら」
「帝国とも関係がありますか?」
ヴェロニカはカップへ口をつけた。
「ロザリー、お茶が冷めてしまいますわよ」
「ヴェロニカ」
「冷めたお茶は美味しくありませんもの」
それ以上は何を聞いても、最近届いた茶葉の話と、来年植える花の話しか返ってこなかった。
数日後、ロザリーはテレーゼから頼まれた書類を運んでいる途中で、修道院宛ての手紙がいくつも積まれているのを見た。王都だけではない。地方の貴族家、商会、教会、見覚えのない家名から届いたものまで混じっている。以前にも、修道院の外に多くの協力者がいることは知っていた。自分の件を調べる際にも、王宮や商会、貴族家、昔の使用人にまで協力を求めていた。けれど、そのすべてがヴェロニカ個人のために動いているのだろうか。
「違いますわよ」
尋ねると、ヴェロニカはすぐに否定した。
「わたくし一人のためだけに、これほど大勢の方を働かせたら申し訳ないでしょう?」
「では、皆さんは何をしているのですか?」
「慈善事業ですわ」
「……慈善事業?」
ロザリーは聞き返した。
「ええ」
ヴェロニカはいつもの柔らかな笑顔で頷いた。
「家の財産を奪われた方のお手伝いをしたり、身に覚えのない罪を着せられた方の証拠を探したり、随分と酷い目に遭わされた方が相手へお返しをするのを少しお手伝いしたり。色々ですわね」
「それって慈善事業なんですか?」
「困っている方を助けているのですから、似たようなものではなくて?」
ロザリーは何も言わずヴェロニカを見た。
「もちろん、全員を助けられるわけではありませんわ。人も、お金も、時間も有限ですもの。それでも、この修道院には次々と人が参りますでしょう? ここだけですべてを抱えるのは大変なのです」
「だから、ここを出た方々にも手を借りていると」
「ええ。皆様、お忙しいのに親切ですこと」
立場はそれぞれ違っていて、ヴェロニカへの恩、自分と似た境遇の者を助けたいという思い、修道院との繋がりから得られる利点など、関わる理由も一つではなかった。
「皆さん、あなたの言うことを何でも聞くわけではないのですね」
「あら。そんなふうに、人を駒のように言うものではありませんわよ?」
ロザリーは思わずヴェロニカを見た。ヴェロニカは笑った。
「自分で考えて、自分で決めていただいた方がよろしいでしょう?」
その言葉に、ロザリーは少しだけ笑った。
「それをわたくしにもさせたのですね」
「何のことでしょう?」
「もう結構です」
聞いたところで、またはぐらかされるだけだと分かっていた。
それからしばらくして、ロザリーにも修道院を出た後について正式に考えなければならない時が来た。名誉は回復された。ベルク家へ戻る必要もない。父から届く手紙にも返事をしていない。代わりに、母方の一族から一通の手紙が届いた。亡くなった母の生家の傍系にあたる家が断絶寸前になっており、現在その家名を継げる者はほとんど残っておらず、ロザリーが望むなら、必要な手続きを経て家名と爵位を継がないかという話だった。
以前のロザリーなら、親族から届いた話というだけで安心したかもしれない。今回は違った。家の財産、領地、負債、過去の取引、抱えている使用人の人数まで確認した。分からないところはテレーゼに尋ね、継承した場合に自分が負う責任も調べた。すべてを確認した上で、ロザリーはその話を受けることにした。ベルク家から逃げるためではない。父への当てつけでもなかった。自分で調べて確認し、自分が背負えると考え、自分で選んだ。決めたことを伝えると、ヴェロニカは特に驚かなかった。
「そう。では、修道院を出ますのね」
「はい」
「寂しくなりますわ」
「そうは見えませんけれど」
「あら、酷い」
「それに、もう来ないとは言っていません」
ヴェロニカが瞬いた。
「わたくしは母の家を継ぎます。そこで、自分の立場を作ります」
「ええ」
「その上で、この修道院とも関わっていくつもりです」
ロザリーは少しだけ姿勢を正した。
「陰で動くあなたたちには、表で堂々と動ける、誠実な駒も必要でしょう?」
一瞬だけ、ヴェロニカが黙った。それから、ヴェロニカは口元を隠すようにして笑った。
「まあ。ご自分から駒を名乗るなんて、随分と大胆になりましたこと」
「使われるだけのつもりはありません」
「あら」
「わたくしにできないことがあれば、こちらからもあなたを頼ります。その代わり、わたくしにできることなら協力します」
「条件つきなのですね」
「当然です」
ロザリーは答えた。
「わたくしはもう、何も考えずに誰かの言う通りにはしませんから」
ヴェロニカはしばらくロザリーを見ていた。
「それなら、安心ですわ」
「何がですか?」
「こちらの話です」
また、はぐらかされた。
修道院を出る日、特別な見送りはなかった。ヘルミーネは荷物と必要な書類を確認し、テレーゼは継承後にもう一度確認した方がいい帳簿の一覧を渡した。オデットは短く「また」とだけ言い、カミラは「今度は男を見る時もそれくらい慎重になりなさいよ」と余計なことを付け加えた。ミレイユだけは最後まで不機嫌そうだった。
「別に、用もないのに来なくてよろしくてよ」
「用があれば来てもいいのですね」
「どうしてそうなりますの?」
ロザリーが笑うと、ミレイユは顔を背けた。
最後にヴェロニカを見る。
「では、行ってまいります」
「ええ。好きになさい」
以前なら、その言葉を無責任だと思ったかもしれない。今は違う。誰かに決めてもらわなくてもいいという意味なのだと、ロザリーには分かっていた。
ロザリーは修道院を出た。母の家名を継ぎ、自分の家として整えながら、修道院との関係も切らなかった。証言が必要なら自分の名で人に会い、商会との契約を確認する必要があれば表から問い合わせる。修道院に身を置く者では動きにくい場所へ、貴族家の当主として堂々と入ることもできた。そして、書類だけで済む用事であっても、ロザリーは時々自分で修道院まで持っていった。
最初は歓迎された。二度目も、特に何も言われなかった。その後も用事を見つけては修道院を訪ねていた。今月になって何回目かのある日、玄関を入ったところでミレイユと鉢合わせた。ミレイユはロザリーの顔を見て、その手にある書類へ視線を落とし、それから露骨に眉をひそめた。
「あなた、修道院に来すぎですわよ」




