第十七話 ロザリーの決別
セドリックが修道院を訪れたのは、ベルク家への処分が決まってからしばらく後のことだった。
ロザリーの名誉はすでに回復していた。 横領の証拠とされた書類も、セドリックへ送ったとされた手紙も、ロザリーが作ったものではないと正式に認められている。修道院へ送られる理由もなくなり、いつ出ていっても構わない身になっていた。
それでも、ロザリーはまだ修道院にいた。父からは何度か手紙が届いていた。最初の一通には謝罪が並び、その後には、自分も騙されていたこと、ベルク家を立て直すために戻ってきてほしいことが続いていた。
ロザリーは返事を書かなかった。以前なら、父も被害者だったのだからと考えたかもしれない。けれど、手紙を読むたびに、父が今も自分のしたことより、自分がどれだけ困っているかを伝えようとしていることが分かった。あの時も父は家を守ることを優先し、ロザリーの言葉を確かめようとはしなかった。そして今も、家を立て直すために娘へ戻ってきてほしいと求めている。
きっと、この人はこれからも大きくは変わらない。そう考えた時、ロザリーは父を変えようとするのをやめた。父には父の考えがある。それなら自分も、自分がどうしたいのかを考えればいい。その結果、戻らないと決めた。父のためでも、ベルク家のためでもなく、これからは自分に対して誠実に選んでいこうと思った。
「ロザリー様。面会のお客様がお見えです」
ヘルミーネに名前を聞いた時も、胸が大きく揺れることはなかった。面会室へ入ると、セドリックが立ち上がった。以前より少し痩せて見えた。ロザリーを見るとすぐに表情を強張らせ、それから深く頭を下げた。
「ロザリー、すまなかった」
「……はい」
「本当に、すまなかった。私は証拠を信じた。君が違うと言っていたのに、話を聞こうともしなかった」
ロザリーは向かいの椅子へ座った。セドリックも少し遅れて腰を下ろした。
「もっと調べるべきだった。君を信じるべきだった」
「そうですね」
短く返すと、セドリックは苦しそうに目を伏せた。以前なら、そんな顔をさせたことに自分まで罪悪感を抱いたかもしれない。彼も騙されていたのだから、責めすぎてはいけないと思っただろう。今は、謝罪を受け取ることと、その人をもう一度信頼することは別だと分かっていた。
「許してほしいとは、簡単には言えない。でも、できるなら……もう一度、やり直したいと思っている」
ロザリーはしばらくセドリックを見た。婚約していた頃は、この人と結婚するのだと思っていた。特別情熱的な恋をしていたわけではない。それでも長く婚約者として付き合い、いずれ同じ家で暮らし、子供を持ち、年を取っていくのだと当然のように考えていた。修道院へ来たばかりの頃なら、その言葉を待っていたかもしれない。
「必要ありません」
セドリックが顔を上げた。
「ロザリー」
「復縁するつもりはありません」
「すぐに答えを出さなくてもいい。私は待つつもりだ」
「待っていただく必要もありません」
「だが、私は君を誤解していたんだ。真実が分かった今なら――」
「真実が分かったから、ですか?」
セドリックが黙った。
「わたくしが無実だと証明されたから、もう一度信じてくださるのですか?」
「それは……当然だろう。君が何もしていなかったことが分かったんだから」
「では、また別の証拠が出てきたら?」
「何?」
「今度は、わたくしが本当に何かしたように見える証拠が出てきたら、どうなさいますか?」
「そんなことはもう起きない」
その答えを聞いて、ロザリーは少しだけ目を伏せた。以前の自分も、同じことを言った。今回のことが明らかになれば、もう同じことは起きない。そう答えた自分へ、ヴェロニカは次はもっと上手にやるかもしれないと言った。
「そうですか」
「ロザリー、私は反省している。君を傷つけたことも分かっている。それでも、これまでのことまで全部なくなるわけではないだろう。私たちは長く婚約していたんだ」
「ええ」
「なら――」
「長く婚約していたにもかかわらず、わたくしが何を言っても信じていただけなかったことは、よく分かりました」
セドリックの口が止まった。
「わたくしは、分からないから調べてほしいと言いました。自分はしていないと何度も言いました。それでも、あなたは何もしませんでした」
「私は……あの時は、証拠が」
「ですから、疑ったことだけを言っているのではありません。疑ったあとで、何もしなかったことを言っているのです」
「何もしていないわけではない」
「では、何をしたのですか?」
セドリックは答えなかった。
ロザリーは待った。以前のように、相手が困っているからと自分で答えを補うことはしなかった。
「……父上とも話した。ベルク子爵とも」
「それで?」
「証拠を確認した」
「それ以外は?」
また答えが止まった。その沈黙だけで十分だった。
「分かりました」
「待ってくれ。あの状況で、私に何ができたと言うんだ」
少し強くなった声を聞いて、ロザリーはセドリックを見た。
「調べることはできたと思います」
「簡単に言うな。君の家の中の問題だ。私が勝手に帳簿まで調べられるはずがない」
「では、わたくしの話を聞くことは?」
「聞いたじゃないか」
「聞いて、信じなかった。それで終わりました」
セドリックは唇を結んだ。謝罪をしていた時の彼は、ロザリーが知っていた婚約者と同じに見えた。穏やかで、争いを好まず、できるだけ面倒なことを避けようとする男。以前は、それを温厚なのだと思っていた。今は、その穏やかさが誰の負担の上に成り立っているのかまで考えるようになった。
「ベルク子爵からも手紙が届いているんだろう?」
「はい」
「戻らないのか?」
「戻りません」
「父親だぞ」
「ええ」
「今回のことでは、あの方も騙されていたんだろう」
「そうですね」
「だったら、少しくらい話をしてもいいんじゃないか。ベルク家も大変なことになっている。君なら立て直すのを手伝えるだろう」
ロザリーは一瞬、返事をしなかった。
「どうして、わたくしが立て直すのですか?」
「君の家だからだ」
「わたくしを追い出した家ですよ」
「それでも家族だろう」
その言葉を聞いた時、ロザリーは不思議なくらい何も感じなかった。少し前まで、自分もそう考えていた。家族なのだから。妹なのだから。父なのだから。婚約者なのだから。それだけで、どこまでも相手を理解しようとしていた。
「ドロテア夫人とコレットは?」
ロザリーが尋ねると、セドリックの表情がわずかに硬くなった。
「……今は、その話は関係ないだろう」
「お二人も家族だった方です。平民になり、これまでの暮らしも失いました」
「自業自得だ。君を陥れて、家の金まで使い込んでいたんだぞ」
「そうですね」
「それでも、君なら見捨てずに手を差し伸べると思っていた」
「どうしてですか?」
「君は、そういう人だっただろう」
「いいえ。助けません」
はっきり答えると、セドリックは眉を寄せた。
「……君は、そんなに冷たい人だったか?」
ロザリーはしばらく彼を見た。自分を陥れた二人を助けないと言った。それだけで、目の前の男はロザリーの優しさを疑った。
「セドリック様は、コレットが疑われた時、会いに行かれたのですか?」
「何?」
「自分は悪くないと訴えていた時に、話を聞きましたか。何か調べようとなさいました?」
セドリックの顔が強張った。
「それとこれは違う」
「では、処分が決まってからは? 何もかも失ったコレットに、寄り添おうとは思われなかったのですか?」
「あの女は君を陥れたんだ。それに、私まで騙していた」
「だから、何もしなかったのですね」
「当然だろう」
「それなら、わたくしも同じです」
「君は姉だろう」
「血は繋がっていません。それに、姉なら何をされても助けなければならないのですか?」
「そういう意味じゃない。ただ、以前の君なら、困っている人間をそのままにはしなかった」
「そうかもしれませんね」
ロザリーは素直に認めた。
「父の手紙にも返事をして、コレットたちのことも心配して、あなたが謝りに来れば、きっと許そうとしたと思います」
「なら――」
「でも、そうやってわたくしは修道院へ送られました」
セドリックの言葉が止まった。
「人を疑わないことが善良なのだと思っていました。相手にも事情があるのだからと考えて、自分が我慢すればいいと思っていました。家族なら許すべきだとも、婚約者なら信じるべきだとも思っていました」
「ロザリー、君は変わったよ」
責めるような声だった。
「こんな言い方をする人ではなかった。前はもっと優しかった」
その言葉を聞いて、ロザリーはようやく分かった。セドリックが戻ってきてほしいと思っているのは、今ここにいる自分ではない。何をされても相手の事情を考え、傷つけられても自分から折れ、疑われても最後には許してくれる。彼にとって都合のよかった、以前のロザリーだった。
「いいえ」
ロザリーは静かに首を振った。
「わたくしは、善良な心まで捨てたとは思っていません。ただ、ちゃんと考えるようになったの」
「……何を」
ロザリーはセドリックを見た。
「あなたは、面倒なことが嫌いなのですね」
セドリックの顔色が変わった。
「争うのが嫌いで、問題が起きると楽な方へ流れてしまう。だから、自分で確かめたり、誰かのために動いたりはしない。いつも、その時いちばん簡単な答えを選んできたのでしょう」
「違う」
「そうですか?」
「私は君を心配して――」
「わたくしが修道院にいた間、一度でも会いに来ましたか?」
セドリックは何も言わなかった。ロザリーはその顔を見ていた。以前なら、この沈黙に傷ついたはずだった。今は、ただ答えを確認しただけだった。
「もういいのです」
「ロザリー」
「今のわたくしは、もうあなたにほとんど興味がありません」
セドリックが息を止めた。
「嫌いだからではありません。憎んでいるわけでもない。ただ、あなたとどうなりたいのかを考えても、何も浮かばないのです」
「……ロザリー」
「そんな状態で復縁しても、意味がないでしょう」
セドリックは何か言おうとして、結局口を閉じた。
「父のところへも戻りません。手紙にも返事はしないつもりです」
「では、どうするんだ」
「それは自分で決めます」
「簡単に言うが、一人でやっていけると思っているのか?」
セドリックの声に、わずかな苛立ちが混じった。
「貴族の娘が後ろ盾もなく生きていくのは、そんなに甘い話じゃない」
「分かっています」
「だったら、意地を張らずに――」
「意地ではありません」
ロザリーはしばらく黙っていた。本当は、これを言うつもりはなかった。謝罪を受け取り、復縁するつもりはないと伝え、それで終わらせるつもりだった。長く婚約していた相手なのだから、最後まで傷つけたいわけではない。けれど、何を言ってもセドリックはロザリーが変わったことを責め、自分が何もしなかったことからは目を逸らしたままだった。ロザリーは小さく息を吐いて、立ち上がった。
「セドリック様のお家は、ベルク家から借り入れがありますね」
セドリックの表情が固まった。膝の上に置いていた手がわずかに動き、指先が衣服を掴む。
「婚約を解消し、両家の縁が完全に切れれば、一括での返済を求められる契約になっている…違いますか?」
「誰からそれを――」
思わず身を乗り出したところで、セドリックは口を閉じた。先ほどまでロザリーを見ていた視線が逸れ、机の上へ落ちる。
「今のベルク家がどれほど弱っていても、借金までなくなったわけではありません。だから、わたくしと復縁して、返済を少しでも先へ延ばしたいのですね」
「違う! 私はそんな理由で来たんじゃない」
声が急に大きくなった。すぐに取り繕うように姿勢を戻したが、強く握った手はそのままだった。
「では、どうして最初にお話しにならなかったのですか?」
セドリックの唇が動いたが、言葉は出てこなかった。一度ロザリーを見て、また視線を逸らす。
「本当にわたくしへ誠実に謝るつもりだったのなら、ご自分に都合の悪いことも先に話すべきだったと思います」
「ロザリー、これは家同士の問題だ」
ようやく出た声には、先ほどまでの苛立ちよりも焦りが滲んでいた。
「ええ。ですから、なおさらです」
ロザリーは彼をまっすぐ見た。
「わたくしとの復縁を望みながら、大切な話はなさらない。家のためだと仰るのに、都合が悪くなれば家同士の話だからと隠すのですね。あまりにも都合が良すぎると思いませんか?ますます、戻る理由がなくなりました」
セドリックは呆然とロザリーを見た。反論しようとしたのか、何度か口を開きかけたが、結局何も言葉にはならなかった。これまで自分が口にしてきたことを一つずつ返され、もう取り繕う余地もないと悟ったのか、やがて視線を伏せたまま口を噤んだ。
それ以上、話すことはなかった。
面会室を出ると、石造りの廊下にはいつもの静けさが戻っていた。窓の向こうでは洗濯物が風に揺れ、遠くから畑仕事をしている令嬢たちの声が聞こえる。初めてここへ来た日には、何もかも失った自分が閉じ込められる場所に見えた修道院だったが、今は違う。ここを出ることもできる。残ることもできる。父のもとへ戻る必要も、セドリックと結婚する必要もない。どうするのかは、これから自分で決めればいい。
食堂へ戻る途中、向こうからミレイユが歩いてきた。ロザリーを見るなり、何も聞かずに眉を上げる。
「遅かったですわね」
「ええ。少し話が長くなりました」
「そう」
それだけ言って、ミレイユは踵を返した。
「お茶が冷めますわよ」
「今行きます」
ロザリーはその後を追った。
まだ何も決めていない。けれど、今は少しも怖くなかった。ロザリーの足取りは、しっかりとしていた。




