第十六話 コレットの喪失
あの髪飾りには、どのドレスが似合うだろう。
コレットは鏡の前で髪を持ち上げながら、何度目か分からない想像をしていた。淡い色のドレスでもいいし、次の夜会で着る予定の濃紺にも合う。耳飾りまで揃いなのだから、二つ一緒につけた方が、絶対に綺麗に決まっている。
あの外商は、正式な手続きが済めば届けると言っていた。数日経ってもまだ届かないことだけが不満だったが、大きな商会なら確認にも時間がかかるのだろう。契約はした。父の署名もある。ベルク家にも利益が出るのだから、後から事情を話しても怒られるようなことではない。むしろ、父は褒めるかもしれない。自分が見つけた話で家に利益が出るのだ。
ロザリーがいなくなってから、コレットは少しずつベルク家の令嬢として扱われるようになっていた。茶会へ出れば以前より名前を覚えてもらえたし、セドリックとも人目を気にせず話せる。今回の取引まで上手くいけば、父だっていつまでも自分を何も分からない娘として扱わなくなるだろう。そこまで考えたところで、扉が叩かれた。
「コレットお嬢様。旦那様がお呼びです」
「お父様が?」
ちょうどいいと思った。契約の話だろうか。もしかすると商会から父へ直接連絡があり、利益の大きさに気づいたのかもしれない。コレットは鏡でもう一度髪を整えてから、父の書斎へ向かった。
「お父様、呼んだ?」
扉を開けた瞬間、思っていた空気とは違うことに気づいた。グレゴールは机の前に立っていた。手には、見覚えのある契約書がある。何も言わず、それをコレットの前へ突き出した。
「これは何だ」
コレットの視線が署名欄へ落ちる。
「誰が私の名前を書いた」
「何のこと?」
さっきまで、父はきっと自分を褒めてくれると思っていた。けれど、目の前のグレゴールの表情はまるで違う。その空気に押され、コレットは反射的に知らないふりをした。
「とぼけるな。私はこんな契約書に署名していない」
「でも、それは……」
「お前か」
コレットは言葉に詰まった。
「違うの、その……」
「お前が書いたのか!」
大きな声に肩が跳ねる。
「だって、家にも利益が出るのよ!」
「そんなことを聞いているんじゃない!」
「お父様だって、見れば絶対にいいと言ったわ。だから少し先に――」
「私の署名を勝手に書いたのかと聞いている!」
コレットは黙った。どうしてそこまで怒るのか分からなかった。確かに父の名前を書いたのは自分だ。でも、父が反対するような契約ではない。家の金を勝手に捨てたわけでもなければ、誰かを騙して金を奪ったわけでもない。少し手順を飛ばしただけだ。
「すぐに商会へ使いを出せ」
「でも」
「黙れ!」
グレゴールは呼び鈴を鳴らした。
「契約は取り消す。署名に不備があったと伝えろ。原本を返してもらえ。今日中だ」
「旦那様、もう夜になりますが」
「構わん。行け!」
使用人が慌てて出ていく。コレットはまだ納得できなかった。あの契約を取り消してしまえば、髪飾りも耳飾りも手に入らない。
「お父様、そんなに大変なことなの?」
「大変なことだと?」
「だって、本当に家には利益が出る話なのよ。騙したわけではないし、誰も損をしていないわ」
「そういう問題ではない! 向こうはもう、署名が偽物ではないかと疑っているんだぞ!」
グレゴールは契約書を握りしめた。
「しかも、もう数日も経っている。今さら何を調べられているのか、どこまで話が広がっているのかも分からないんだ!」
そこで初めて、コレットも黙った。署名が調べられている。
「……どうして?」
グレゴールは答えなかった。
「どうして偽物だって分かるの? ちゃんと似せたのに」
口にしてから、失敗したと思った。父の顔がさらに険しくなる。
「部屋へ戻れ」
「でも」
「戻れ!」
追い出されるように書斎を出た。廊下を歩きながらも、まだ実感はなかった。父が改めて署名すれば済むことではないのか。契約そのものには問題がないのだから、商会だってわざわざ騒ぎを大きくする理由はないはずだ。
母に相談しようかとも思った。だが、そうすれば髪飾りと耳飾りのことも知られる。今さらそれを説明するのも嫌だった。どうせ父が何とかする。コレットはそう思うことにした。
ところが、何日経っても何も元には戻らなかった。商会から契約書は返されず、屋敷へ届く書状が増えた。父は日に日に機嫌を悪くし、使用人たちはコレットを見ると口を閉ざすようになった。そして数日後、見知らぬ者たちが屋敷へ入ってきた。
「何をしているの?」
廊下へ出ると、使用人が帳簿を何冊も抱えて運んでいる。
「監査だそうです」
「監査?」
聞いたことはあっても、自分の家で見るものだとは思っていなかった。
「今回の契約だけでしょう?」
「私どもには何とも……」
使用人は目を合わせず、そのまま行ってしまった。その日の午後、コレットも何度も話を聞かれた。なぜ父が不在なのに契約したのか。なぜ体調を崩していると外商へ説明したのか。誰から父の署名の書き方を教わったのか。どの書類を見て真似したのか。
「だから、わたくしが勝手にしただけですわ」
最初はそう答えた。
「家にも利益が出る契約でしたし、お父様なら承認すると思ったのです。少し早く手続きをしただけで」
何度説明しても、監査官たちは納得しなかった。それどころか、確認される書類は増えていった。契約書だけではない。屋敷の帳簿、過去の支出、ロザリーの名前が書かれた承認書まで机の上へ並べられた時、コレットは初めて落ち着かなくなった。
「どうして、それまで調べるの?」
誰も答えてはくれなかった。母なら何とかしてくれる。そう思っていた。これまでだってそうだった。何か欲しいと言えば、どうすれば手に入るかを一緒に考えてくれた。ロザリーが邪魔になった時も、セドリックが欲しいと言った時も、母は味方だった。だから、ドロテアが呼ばれた時、コレットは少し安心した。
「今回の署名は、わたくしは何も知りません」
最初に母が言った言葉を、コレットはすぐには理解できなかった。
「全部コレットが一人でしたことです。あの子が勝手に欲を出しただけで、わたくしは止めることすらできませんでした」
「お母様!」
思わず声が出た。ドロテアはコレットを見ようとしない。
「本当のことでしょう?」
「何よ、それ! 今までだってお母様が――」
「コレット!」
母の顔色が変わる。その反応を見た瞬間、コレットにも分かった。母は自分を助けるつもりがない。全部、自分だけのせいにするつもりなのだ。
「今まで、とは?」
監査官の声がした。コレットは母を見る。
「……全部、わたくしのせいにするの?」
「あなたが勝手にしたことでしょう」
胸の奥で何かが切れた。
「お姉様の時は、お母様がやれって言ったじゃない!」
父の顔が変わった。
「コレット」
「違うの、お父様」
「ロザリーの時とは何だ」
「それは……」
「答えろ!」
黙れば、自分だけが悪いことになる。母は助けてくれない。なら、自分だけ黙っているなどできるはずがなかった。
「あなた、落ち着いて。あの子は混乱しているだけよ」
「お母様が、お姉様の署名を真似すればいいって言ったのよ!」
コレットは叫んだ。
「手紙だってそう! セドリック様がお姉様を嫌になれば、わたくしの方を見てくれるって。お金だって、少しくらいなら分からないって言ったのはお母様でしょう!」
「黙りなさい!」
「どうしてよ! 全部わたくしのせいにするなら、お母様だって同じでしょう!」
そこからは止まらなかった。母が何を言ったのか。どの帳簿なら父に気づかれないと言ったのか。ロザリーの文字を真似した時、どこを直されたのか。セドリックへ見せる手紙について、どんな内容なら信じるか二人で考えたこと。
ドロテアも黙ってはいなかった。コレットが欲しがったからしたのだ。自分は娘のために手を貸しただけだ。セドリックへ近づいたのも、ロザリーのものを欲しがったのも、最初からコレットだった。互いに相手のせいだと言いながら、隠してきたことを自分たちで一つずつ明かしていった。父が何も言わなくなったことには、しばらく気づかなかった。
「……なぜ」
グレゴールの声がして、コレットはようやく振り返った。
「なぜ、こんなことをした」
「あなた」
「ロザリーを追い出す必要などなかっただろう!」
今さら何を言っているのだろうと思った。父だってロザリーを信じなかった。父が修道院へ送ったのだ。
「今さら何を言っているの?」
ドロテアも同じことを言った。
「あなたも信じたでしょう。ロザリーをここから出すと決めたのは、あなたよ」
「私は騙されていた!」
「だから?」
「私も被害者だ!」
コレットは父を見た。父も自分たちと同じだった。誰か一人を悪者にして、自分だけはそこから外れようとしている。それからのことは、あっという間だった。
監査はさらに続けられ、自分が父の署名を書いた契約だけではなく、過去の書類や帳簿まで、すべて調べられた。何度呼ばれても、コレットは自分だけが悪いわけではないと訴え続けた。母も関わっていたし、父だって何も見ていなかった。自分は少し欲しかっただけなのだ。それでも、誰も仕方がないとは言ってくれなかった。
セドリックにも会えなくなった。最初のうちは、きっと心配していると思っていた。事情が分かれば助けてくれるかもしれない。けれど、面会を求めても返事は来なかった。
茶会への招待も止まった。以前なら届いていた手紙も来なくなった。屋敷の中では、使用人まで自分を見る目を変えた。その頃になって初めて、コレットは自分の周りから何かが一つずつなくなっていることに気づいた。
数週間後、処分が決まった。文書偽造、横領への関与、過去の帳簿改竄、ロザリーを陥れた書類への関与。聞かされても、最初はまだどこか他人事だった。罰金を払えばいいのだと思った。しばらく社交へ出られなくなるくらいなら我慢できる。父が何とかしてくれる。ベルク家の娘であることまで変わるはずがない。そう思っていた。
「離縁ですって? あなたまでわたくしたちを切り捨てるの?」
母の声が響いた。コレットは顔を上げた。父はドロテアと離縁すると告げた。それだけではなかった。二人とも、ベルク家を離れる。ドロテアはグレゴールと離縁し、処分によってコレットとともに貴族としての身分も失うことになった。
「お父様、わたくしまで? わたくしはベルク家の娘でしょう?」
グレゴールはコレットを見なかった。
「お父様」
返事はない。
「ねえ、お父様。わたくし、もうしないわ。ちゃんとするから」
それでも父は振り返らなかった。母が何か怒鳴っていた。自分だけを捨てて逃げるのか。自分だって家のためにしてきた。グレゴールにも責任がある。コレットには、もうほとんど聞こえていなかった。
「平民になるって、どういうこと?」
コレットは実父が生きていた頃から男爵令嬢として育ち、母がグレゴールと再婚してからも貴族の娘として暮らしてきた。自分が平民になるなど、考えたこともなかった。茶会にも出られない。今まで使っていた宝石も、衣装も、馬車も、自分のものではなくなる。セドリックの隣に立つこともできない。
そこで突然、あの日の髪飾りと耳飾りを思い出した。二つとも欲しかった。母にも渡したくなかった。他の令嬢が手にすることなど考えられなかった。結局、一度も自分のものにはならなかった。それどころか、それを欲しがったところから始まって、今まで手に入れたものまで全部なくなった。
「そんなの、聞いてない」
コレットは呟いた。母が振り返る。
「何?」
「こんなことになるなんて聞いてない!」
誰に言っているのか、自分でも分からなかった。
「元を辿れば、あなたのせいでしょう!」
母が自分を責める声も、もうコレットにはほとんど届いていなかった。
数日後、コレットは母とともにベルク家を出た。持っていけるものは限られており、私財の多くは処分のために売られた。身につけているのも、以前なら見向きもしなかったような質素な服だった。
隣を歩くドロテアも同じだった。以前なら二人で衣装や宝石を選び、どちらが似合うか言い合っていたのに、今は互いにほとんど口を利かない。コレットが母を見ると、ドロテアは険しい顔で前だけを見ていた。
以前ロザリーから借り、そのまま使っていた宝飾品も、ベルク家の財産として残すよう言われた。
「それはわたくしのよ!」
思わず手を伸ばすと、使用人は静かに首を振った。
「これはロザリー様の物です」
コレットの手が止まった。そうだった。借りただけだった。ずっと身につけていたから、いつの間にか自分のもののような気がしていただけだ。箱の蓋が閉じられる。コレットはそれを見ていた。髪飾りも、耳飾りも、ロザリーの宝石も、ベルク家の令嬢という立場も。
もう何一つ手元に残っていなかった。




