第十五話 グレゴールの誤算
グレゴール・ベルクが屋敷へ戻った数日後、王都の商会から一通の書状が届いた。
新しく結ばれた取引についての礼状だった。
『このたびは、ご体調の優れない中、ご契約いただき誠にありがとうございます』
最初の一文を読んだところで、グレゴールの眉が寄った。
「……体調?」
書状に記されたその日は朝から外へ出ていた。体調を崩してなどいない。そのまま読み進める。
『ただ、先日の契約について、一点確認させていただきたく存じます。当方では、ご令嬢より、ご当主様はご体調を崩され、人とお会いになれる状態ではないと伺っておりました』
グレゴールの手が止まった。
『ところが後ほど、同じ日に別件の商談へご出席なさっていたと伺いました。行き違いであれば問題ございませんが、正式な契約書をお預かりしている以上、念のため確認させていただければと存じます』
「何の話だ……」
その日、確かにグレゴールは別の商談へ出ていた。商会同士に繋がりがあれば、その程度の話が耳に入っても不思議ではない。しかし、自分はこの商会の者とは会っていない。そもそも、この契約自体を知らない。その下には、さらに気になる一文があった。
『また、ご署名につきましても、当商会で過去に保管しておりますベルク子爵様のものと若干の相違がございましたため、併せて確認の必要が生じております』
グレゴールは椅子から立ち上がった。
「契約書を持ってこい!」
声を聞いた執事が慌てて書斎へ入ってくる。
「先日、コレットがまとめたという取引だ! 控えがあるだろう!」
しばらくして差し出された書類を、グレゴールは奪うように受け取った。取引条件を読む。問題はない。むしろベルク家にとって利益のある話だった。もし、自分のところへ持ってこられていれば、普通に署名していたかもしれない。だからこそ、最後の頁を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。
当主承認。その下に、自分の名前がある。グレゴール・ベルク。
「……私は、書いていない」
見間違いではない。自分の字によく似ている。だが、自分の署名ではなかった。
「コレットを呼べ」
「旦那様?」
「今すぐだ!」
執事が部屋を飛び出していく。グレゴールはもう一度、商会からの書状へ目を落とした。商会はまだ断定していない。ただ確認したいと言っているだけだ。ならば、今ならまだ間に合うはずだ。娘が勝手にしたことだと説明し、契約をやり直せばいい。取引そのものには問題がない。自分が改めて署名すれば、商会に損もない。大事にする必要などない。そう考えようとした。
だが、商会はすでに署名の違いに気づいている。しかもコレットは、父親が病気で家にいるという嘘までついていた。グレゴールの額に汗が滲んだ。
「お父様、呼んだ?」
扉が開いた。グレゴールは何も言わず、契約書をコレットの前へ突き出した。
「これは何だ」
コレットの目が一瞬だけ泳いだ。それを見た瞬間、グレゴールは答えを聞く前から理解した。
「誰が私の名前を書いた」
コレットの表情が止まった。
「何のこと?」
「とぼけるな。私はこんな契約書に署名していない」
「でも、それは……」
「お前か」
「違うの、その……」
「お前が書いたのか!」
コレットの肩が跳ねた。
「だって、家にも利益が出るのよ!」
「そんなことを聞いているんじゃない!」
「お父様だって、見れば絶対にいいと言ったわ。だから少し先に――」
「私の署名を勝手に書いたのかと聞いている!」
コレットは黙った。グレゴールの背中に冷たい汗が滲んだ。娘が愚かなことをした。その程度なら叱りつければ済んだ。だがこれは違う。正式な契約書へ当主の署名を偽造し、それを相手へ渡している。
「すぐに商会へ使いを出せ」
「でも」
「黙れ!」
グレゴールは呼び鈴を鳴らした。
「契約は取り消す。署名に不備があったと伝えろ。原本を返してもらえ。今日中だ」
「旦那様、もう夜になりますが」
「構わん。行け!」
使用人が慌てて出ていく。グレゴールは椅子へ座り、額を押さえた。
「お父様、そんなに大変なことなの?」
「大変なことだと?」
「だって、本当に家には利益が出る話なのよ。騙したわけではないし、誰も損をしていないわ」
「そういう問題ではない! 向こうはもう、署名が偽物ではないかと疑っているんだぞ!」
グレゴールは契約書を握りしめた。
「しかも、もう数日も経っている。今さら何を調べられているのか、どこまで話が広がっているのかも分からないんだ!」
怒鳴りながらも、頭の中ではこの問題をどう収束させるかという考えが激しく巡っていた。商会へ事情を話し、内々に済ませるしかない。金で済むなら払えばいい。契約自体がまともなものなら、先方も大事にはしたくないはずだ。一つずつ処理すればいい。そう考えて、グレゴールは少しだけ落ち着きを取り戻した。
ところが、何日経っても原本は戻らなかった。代わりに届いたのは、商会からの丁重な返書だった。
『先日お預かりいたしました契約書につきまして、当主様ご本人による署名ではない可能性が確認されております。すでに本件について監査が入っておりますため、誠に恐縮ではございますが、現時点で契約書の返却には応じかねます。
また、事実確認のため、ベルク家にて保管されております関連書類一式につきましても———』
そこまで読んだところで、グレゴールは紙を握り潰した。
「余計なことを……」
ただ返せばいいだけではないか。契約しないと言っているのだから、それで終わる話だ。なぜ調べる必要がある。なぜ外へ広げる。
数日後、商会からの申し立てを受け、ベルク家へ正式な監査が入った。
「今回の契約書だけを見れば済むことでしょう」
グレゴールは応接室で何度目かになる同じ主張をした。
「署名したのは娘です。本人も認めている。私は関与していない」
「その点については確認しております」
「なら、もう十分ではないですか」
「いいえ」
監査官は机の上へ別の書類を置いた。グレゴールは見覚えがあった。ロザリーの名義で金を引き出したとされる承認書だった。
「なぜ、それを」
「今回の署名偽造について調べる過程で、ベルク家では以前にも筆跡を巡る問題があったと分かりましたので」
さらに一枚。セドリックへ渡された手紙。さらに一枚。ロザリーが別の男と暮らすため金を用意していたとされた文書。グレゴールの喉が詰まった。
「これは、娘が書いたものです」
「ロザリー嬢が?」
「そうだ。当時も筆跡を確認した」
「どなたが?」
「……何?」
「筆跡を専門の者へ確認させたり、紙やインクの入手先を調べたりは?」
「そこまでする必要はないと思った。誰が見てもロザリーの字だった」
答えながら、グレゴールは苛立った。なぜ今さらそんなことを聞く。ロザリーの件は終わった話だった。証拠が揃っていた。本人は否定したが、否定するのは当然だ。家の評判をこれ以上傷つける前に処理する必要があった。そう判断した。間違っていないはずだった。
「では、当時は詳しい調査を行わなかったということですね」
「家の中の問題だったからだ」
「ロザリー嬢は、調べてほしいと訴えていたそうですが」
「それは……」
グレゴールの頭に、あの日の娘の顔が浮かんだ。
『分からないから、調べてほしいと言っているのです』自分は何と答えた。『これ以上、家の恥を広げるわけにはいかない』急に胸の奥がざわついた。
「今回のコレット嬢の署名と、こちらの文書について、いくつか共通する特徴が確認されています」
「何を言っている」
「紙やインクの入手経路についても調査中です」
グレゴールは椅子から身を乗り出した。
「待て。では、ロザリーの時の文書まで、コレットが作ったと言うのか」
「まだ確認中です」
「そんなはずはない。あの時はドロテアも確認していた。コレットが見つけて――」
そこで言葉が止まった。コレットが見つけた。ドロテアが確認した。自分は、何をした。二人が差し出したものを見て、それを信じただけだった。ロザリーが何度否定しても、家の恥を早く片づけることしか考えなかった。
「ドロテアを呼べ」
グレゴールは立ち上がった。
「今すぐだ」
その日の午後から、屋敷の中は騒然となった。帳簿が運び出され、金庫が開けられ、過去の契約書まで確認された。使用人は一人ずつ呼ばれ、誰がいつ帳簿へ触れたのか、誰の命令で金を動かしたのかを尋ねられた。グレゴールは何度も、自分は関与していないと口を挟んだ。やがて、ドロテアが呼ばれた。
「今回の署名は、わたくしは何も知りません」
最初に彼女が言ったのは、それだった。
「全部コレットが一人でしたことです。あの子が勝手に欲を出しただけで、わたくしは止めることすらできませんでした」
「お母様!」
隣にいたコレットが叫んだ。
「本当のことでしょう?」
「何よ、それ! 今までだってお母様が――」
「コレット!」
ドロテアの顔色が変わった。だが遅かった。
「今まで、とは?」
静かな問いに、コレットは母を見た。先ほどまで泣きそうだった顔から、別の感情が浮かぶ。
「……全部、わたくしのせいにするの?」
「あなたが勝手にしたことでしょう」
「お姉様の時は、お母様がやれって言ったじゃない!」
グレゴールの耳の奥で、何かが鳴ったような気がした。
「コレット」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
「今、何と言った」
コレットは振り返った。
「違うの、お父様」
「ロザリーの時とは何だ」
「それは……」
「答えろ!」
娘は黙った。代わりにドロテアが口を開いた。
「あなた、落ち着いて。あの子は混乱しているだけよ」
「お母様が、お姉様の署名を真似すればいいって言ったのよ!」
コレットが叫んだ。
「手紙だってそう! セドリック様がお姉様を嫌になれば、わたくしの方を見てくれるって。お金だって、少しくらいなら分からないって言ったのはお母様でしょう!」
「黙りなさい!」
「どうしてよ! 全部わたくしのせいにするなら、お母様だって同じでしょう!」
二人の声が重なった。そこからは、互いに責任を押しつけ合いながら、これまで隠していたことまで次々と口にした。グレゴールは机へ置いた手に力を入れた。
否定してほしかった。今のはコレットの嘘だと、ドロテアに言ってほしかった。だが、ドロテアは自分が関わっていないとは言わなかった。代わりに、どこまでが自分で、どこからがコレットなのかを言い争い始めた。
その時になってようやく、グレゴールは理解した。ロザリーは何もしていなかった。本当に、何もしていなかった。『本当に、私がしたと思っているのですか』あの日の声が蘇る。ロザリーは泣き叫ばなかった。机の向こうから自分を見て、調べてほしいと言った。もし、あの時ほんの一日でも時間を取っていれば、こんなことにはなっていなかった。
「……なぜ」
声が漏れた。ドロテアとコレットがこちらを見る。
「なぜ、こんなことをした」
「あなた」
「ロザリーを追い出す必要などなかっただろう!」
ドロテアの顔が強張った。
「今さら何を言っているの?」
その一言で、グレゴールは口を閉じた。
「あなたも信じたでしょう。ロザリーをここから出すと決めたのは、あなたよ」
「私は騙されていた!」
「だから?」
「私も被害者だ!」
反射的に出た言葉だった。監査官たちが黙ってグレゴールを見る。その視線に気づき、グレゴールは言葉を重ねた。
「私は何も知らなかった。こいつらが勝手にやっていたんだ。家の金を盗んだのも、ロザリーを陥れたのも、私は知らない。証拠を見せられたから信じただけだ!」
「ですが、ベルク子爵」
監査官の一人が帳簿へ手を置いた。
「この家の当主はあなたです」
グレゴールは答えられなかった。
そこから調査はさらに広がった。ドロテアが家政を任されてから増えた支出。納品記録のない品。少額ずつ分けて動かされていた金。ロザリー名義で引き出された資産。グレゴールの知らないものが、次々に出てきた。
知らなかった。知らなかった。知らなかったと言うたび、自分の立場が悪くなっていく。
「私は、知らなかったんだ!」
声を荒らげても、帳簿に書かれた数字は変わらなかった。そして、調査もそれで終わらなかった。
「こちらの取引についても伺います」
別の帳簿が開かれた。グレゴールの顔から血の気が引いた。それはドロテアが勝手に動かした金ではない。自分で承認した取引だった。
「これは……今回の件とは関係ない」
「通常の取引とは違うようですが」
「先方の都合で、いくつかの商会を経由しているだけだ」
「先方とは?」
「それは言えない」
グレゴールは即座に答えた。王都の上位貴族から持ち込まれた話だった。断れば今後の付き合いに響くことは明らかで、その一方で、名義を貸すだけでもベルク家には十分な利益が入る。詳しい金の行き先まで尋ねないことも、最初から暗黙の条件になっていた。
グレゴールにとっては、珍しい話ではなかった。高位の家との繋がりを保ち、こちらにも利益がある。それなら余計なことを聞く必要はないと思っていた。
「違法な金だと認識していましたか」
「そんなものではない!」
「では、何のための取引かご存じなのですね?」
「……先方の事情までは聞いていない」
「用途も分からない金の流れに、ベルク家の名義を貸したと?」
「相手は信用できる家だ!」
声を荒らげてから、グレゴールは口を閉じた。相手の名を出すことはできない。今ここで上位貴族を巻き込めば、それこそベルク家の立場が危うくなる。
「私は家のためにやったんだ。断れるような話ではなかったし、ベルク家にも利益があった。皆、それくらいはしている」
「皆、とは?」
「言葉の綾だ!」
グレゴールは自分でも、何を説明しているのか分からなくなっていた。
知らなかった。家のためだと思っていた。それでいいと考えていた。その結果、家の帳簿は不正で埋まり、妻と義娘は罪を重ねた末に自滅していき、自分もまた、それを見過ごしながら悪事に手を染めていた。
数週間後、処分が決まった。コレットは文書偽造と横領への関与を問われ、ドロテアについても、長期間にわたる資産の不正な移動と帳簿の改竄が認められた。グレゴールはドロテアと離縁し、ドロテアとコレットはともにベルク家を離れ、平民へと落とされた。
そしてグレゴールも、何も知らなかったという言葉だけで責任を免れることはできなかった。当主として家の財産を管理せず、長期間の不正を放置し、自らも通常ではない資金移動へ名義を貸して利益を得ていた。ベルク家は領地の大半と、多くの財産を失うことになった。
その知らせを受けた日、グレゴールは一人で書斎に座っていた。棚には、持ち出された帳簿の跡がいくつも残っている。ロザリーを呼びつけた日も、自分はこの机の向こうにいた。『分からないから、調べてほしいと言っているのです』あの時、信じなくてもよかった。ただ調べればよかったのだ。そうしていれば、ドロテアとコレットが何をしていたのか、もっと早く気づけたはずだった。
前妻が生きていた頃は、こんなことはなかったなと、ふと思った。彼女は細かい女だった。支出が増えれば理由を聞き、帳簿の数字が合わなければ使用人へ確認し、グレゴールが適当に済ませようとすれば何度でも口を挟んだ。それが鬱陶しいと思うこともあった。何でも自分より早く気づく妻の隣にいると、自分が無能に見えるようで嫌だった。ロザリーも母親によく似ていた。大人しく見えて、妙なところで細かかった。帳簿を見せれば質問しただろう。支出がおかしければ気づいたかもしれない。その娘を、自分は追い出した。
「……ロザリーを戻せば」
無実は証明された。自分も妻と義娘に騙されていたのだから、事情を話せば分かってくれるかもしれない。父親として判断を誤ったことを謝り、家へ戻ってもらえばいい。
まだ自分は爵位まで失ったわけではない。ロザリーが戻れば、ベルク家を立て直すこともできる。
グレゴールは新しい紙を取り出した。娘へ何と書けば戻ってくるのか考えながら、最初の一行を書き始めた。




