第二十三話 カミラと憤怒
カミラが話し終えたあと、食堂はしばらく静まり返っていた。
カミラは自分の手元へ目を落とした。これは昔の話だった。修道院へ来てニ年ほど経ち、今は思い出さない日の方が多い。それでも、最初から最後まで順に話してみれば、背中を押された感触も、ドレスが裂けた音も、マティアスの穏やかな笑顔も、思っていた以上にはっきり残っていた。皆へ話すと決めたのは自分だ。それなのに、誰も何も言わない時間が続くと、急に居心地が悪くなる。
「……何よ。みんなそんな顔しないで。もう済んだ話なんだから」
おどけながらカミラは言った。
「最低過ぎます」
すぐに返したのはロザリーだった。声そのものは大きくなかった。けれど、カミラが顔を上げると、ロザリーは明らかに怒っていた。膝の上で重ねた手に力が入り、普段ならきちんと整えている表情も隠せていない。
「いや、どうしたのロザリー」
「許せないです」
「ロザリー?」
「わたくし、自分の時より腹が立っています」
そこまで言われて、カミラは目を瞬いた。ロザリーは自分の家を追われ、身に覚えのない罪を着せられ、父にも婚約者にも信じてもらえなかった。その顛末を知っているだけに、カミラには意外だった。
「何でよ。あんたも大概、酷いことされたじゃない」
「比べる話ではありません」
ロザリーは即座に返した。
「それに、男が何人も寄ってたかって一人の女を取り囲むなんて、それだけでも悍ましいです。それが公爵家の名の下で、当然のことのように行われていたなんて……」
「まあ……そうね」
ロザリーの声が少し低くなった。
「カミラが婚約相手を探していたことも、その中でユリウスという方と揉めたことも分かります。でも、それがカミラにあんなことをしていい理由になるはずがありません」
そこで一度言葉を切り、ロザリーはカミラを見た。
「あのユリウスという方、自分が何をしたのか分かった上で、あんなふうにあなたへ話しかけていたのですね」
「多分ね」
カミラが肩をすくめると、ロザリーの眉間にさらに皺が寄った。
「何であんたが私より怒ってるのよ」
「最低すぎるからです。これまで生きてきて耳にした話の中でも、これほど酷いものはありません」
そんなロザリーを見て、カミラは思わず笑いそうになった。けれど、向かいに座るミレイユへ目を向け、今度は少し驚いた。普段なら真っ先に誰かへ嫌味の一つでも言う少女が、珍しく口を閉じている。腕を組み、露骨に機嫌の悪い顔をしていた。
「……何よ、ミレイユまで、静かになって」
「今、喋れば余計なことを言いそうですもの」
「あんたがそんなこと気にするの?」
「失礼ですわね」
言い返したものの、いつもの勢いはなかった。
「そのユリウスという男も十分不愉快ですけれど、公爵と聖職者の方はもっと理解できませんわ。年端もいかない令嬢を、立場を利用して連れ込もうとしていたのでしょう?」
ミレイユはそこで鼻を鳴らした。
「随分と卑怯な方々ですこと」
「珍しく意見が合いますね」
テレーゼが言った。
「珍しくとは何ですの?」
「そのままの意味です」
テレーゼも普段より表情が硬かった。怒鳴るような女ではない。腹を立てたところで声を荒らげることもない。ただ、先ほどから眼鏡の奥の目が冷えたままだった。
「カミラが話した内容だけでも、随分と手慣れています。噂が広まるまでが早すぎる。証言も最初から向こうに都合のいいものだけが揃っている。その上、教会の人間まで直接デュラン家へ出向いた」
「私も、初めてじゃないと思ったわ」
「でしょうね」
テレーゼは短く答えた。
「同じことを以前にもしていなければ、あれほど早く動けないでしょう」
カミラは隣へ視線を移した。オデットだけは、相変わらず何を考えているのか分からなかった。長い黒髪の間からテーブルを見つめ、先ほどからほとんど動いていない。
「オデット?」
呼ぶと、ゆっくり顔を上げた。
「何?」
「いや。ずっと黙ってるから」
「考えてた」
「何を?」
オデットは少しだけ間を置いた。
「色々」
それだけ言うと、また考え込むように視線を落とした。
カミラは息を吐き、最後にヴェロニカを見た。ヴェロニカは最初からほとんど口を挟んでいなかった。いつものように背筋を伸ばして座り、カミラの話を最後まで聞いていた。驚いた様子もない。
「ねえ、ヴェロニカ。あなた、やっぱり知ってたでしょう?」
ヴェロニカは少しだけ首を傾げた。
「何を?」
「とぼけないで。ユリウスの名前を聞いた時も驚かなかったし、今だってレオポルトやマティアスの名前を聞いて、初めて聞いた顔してないじゃない」
「あら。よく見ていますこと」
「それで?」
ヴェロニカはすぐには答えなかった。茶器へ手を伸ばしかけ、すでに中身がなくなっていることに気づくと、そのまま静かに手を戻した。
「少しは存じておりましたわ」
「少し? 絶対もっと知ってたでしょ」
カミラはじっと顔を見る。
「どうかしら」
「その返しする時、大体知ってるのよ」
ヴェロニカは可憐に笑った。
「ですが、あなたから直接お話を聞いたのは、今日が初めてですわ」
確かにそうだった。修道院へ来た時、ヴェロニカはカミラが何をしてここへ送られてきたのか、必要以上に尋ねなかった。男を手玉に取った毒婦だという外の噂については笑って聞いたくせに、その原因になった夜会のことだけは、直接聞かれた覚えがない。
「……わざと?」
「あなたがお話しになりたくないことを、わたくしが知っているからといって聞き出す必要はありませんもの」
「でも、調べてたのね」
「それとこれとは別ですわ」
悪びれる様子もなかった。カミラは呆れて笑った。
「本当に、そういうところよね」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
ヴェロニカと過ごした時間はまだそれほど長くない。それでも、カミラは自分のこともある程度は調べられているだろうと思っていた。実際、ヴェロニカは何かを知っている様子だった。それなのに、ロザリーの時のように事情を詳しく聞こうとはしなかった。そこには、ヴェロニカなりに思うところがあったのだろう。
その区別だけは、最初から守っていたのだろう。
「では、どこまで分かっているのですか?」
ロザリーが尋ねた。ヴェロニカの視線がそちらへ移る。
「グラーフェン公爵家については、数年前から調べておりますわ」
「数年前?」
「ええ。カミラの件だけではありません」
カミラは眉を上げた。ヴェロニカは淡々と続ける。
「力のある公爵家ですもの。噂の一つや二つでどうにかできる相手ではありません。それに、教会の人間まで関わっている可能性がありましたでしょう?」
「マティアスね」
「ええ」
ヴェロニカの笑みが少し薄くなった。
「公爵家だけを見て動けば、教会側から何をされるか分からない。反対に教会だけを探れば、今度は公爵家に気づかれる。どこまで繋がっているのか分からないうちに手を出せば、カミラのお父様の二の舞を踏むことになりますわ」
グラーフェン公爵家は、国内でも指折りの力を持つ家だった。国王とも近く、表向きの評判も良い。王都の貴族社会だけでなく、諸外国にも独自の繋がりを持ち、その名を無視して動ける者はほとんどいなかった。正面から疑いを向ければ、証拠を集めるより先にこちらの動きを察知される。それほどまでに、相手の持つ権力も人脈も大きかった。カミラには、その厄介さがよく分かっていた。父がどれだけ動いても、結局は誰もグラーフェン公爵家に逆らえなかったのだから。
「だから何年も放っておいたの?」
「放っておいたつもりはなくてよ」
「言い方が悪かったわね。表立って動かなかったの?」
「そうですわね」
ヴェロニカは認めた。
「急いで失敗するより、相手が逃げられないところまで揃える方がよろしいでしょう?」
ミレイユがヴェロニカを見る。
「では、もう揃っていますの?」
「それがね、まだ全てではありませんの。でも、完璧を待っていれば、いつまで経っても始められませんでしょう」
そこでヴェロニカは、ほんの少し楽しそうに目を細めた。
「そろそろ詰めに入ってもよろしい頃でしょうね」
その言い方に、カミラは背筋を伸ばした。
「……本気でグラーフェン公爵家をやる気なの?」
「あら」
ヴェロニカは何でもないことのように微笑んだ。
「あなた、恨んでいないの?」
「恨んでるわよ」
即答だった。
あの夜のことを思い出せば、今でも身体が強張る。ユリウスの顔も、レオポルト言葉も、マティアスの笑顔も忘れていない。
ただ、どうにもできないと思っていただけだ。
「でも、相手は公爵よ。教会まで絡んでるんでしょう? 私のお父様でもどうにもできなかったの」
「そうね。でもそれは『男爵家だけでは』でしょう?」
カミラは言葉を止めた。ヴェロニカは周囲を見回した。テレーゼがいる。ミレイユがいる。オデットがいる。ヘルミーネもいる。そして今は、修道院の外に自分の家と立場を持つロザリーまで、この卓に座っている。
「一人で公爵家へ挑む必要などありませんわ」
ヴェロニカが言った。
「もちろん手伝いますわ」
真っ先に答えたのはミレイユだった。
「わたくし、ああいう、自分が偉いから何をしても許されると思っている方は嫌いですの」
「あなたも大概、自分が偉いと思っていますけどね」
テレーゼが言う。
「わたくしは何をしても許されるとは思っておりません!」
いつもの調子の掛け合いが始まりそうになるが、テレーゼが眼鏡を直した。
「私も協力します。何年も続いているなら、どこかに記録は残っているでしょう。帳簿でなくても、人と金が動けば何も残らないということはありません」
カミラがオデットを見る。
「オデットは?」
「やる」
「即答ね。今まで、何を考えてたの?」
「まだ内緒」
オデットはそれ以上答えなかった。そしてロザリーは、まだ怒った顔をしていた。
「わたくしももちろん手伝います」
ロザリーは姿勢を正した。
「言いましたでしょう? 陰で動くあなたたちには、表で堂々と動ける、誠実な駒も必要だと」
カミラは思い出した。ロザリーが家を継ぎ、修道院を出ると決めた頃の話だ。
「言ってたわね」
「なら、その誠実さを使います。わたくしは嘘をつきません。存在しない証拠も作りません。誰かを陥れるために、していないことをしたとも言いません。でも、悪事を黙って差し上げるつもりもありません」
ロザリーは迷いなく言った。その言葉を聞き、ヴェロニカがわずかに笑った。
「悪いことをした方々にとって、この誠実さで、とことん面倒な相手になって差し上げますわ」
カミラはしばらく何も言えなかった。この話は『仕方がないのだ』と思って、修道院へ来た時には、もう終わった話だった。
「……こんな事って、あるのね」
カミラは笑った。今度は、無理に笑ったわけではなかった。
「じゃあ、お願いしようかしら」
ロザリーが頷く。
「もちろんです」
「ヴェロニカも?」
「あら。今さら確認なさるの?」
柔らかな笑顔だった。
「この時を、何年待ったと思っていらっしゃるのかしら」
ヴェロニカは静かに茶器を置いた。
「では、始めましょうか」
あの時と同じように、柔らかく微笑む。
「皆さん、楽しい復讐の時間です」




