第二話 ロザリーの追放
翌朝、ロザリーはもう一度父の書斎へ呼ばれた。
昨夜と同じようにグレゴールが机の向こうに座り、ドロテアとコレットもいる。セドリックの姿まで変わらなかった。ただ、机の上に並べられていた書類だけはすでに片づけられていた。ロザリーはそのことに気づき、椅子へ腰を下ろす前に父を見た。
「お父様。昨日お願いした件ですが、帳簿は調べていただけましたか?」
「その必要はない」
「……必要がない?」
「昨日見せた証拠で十分だ」
「十分ではありません。私が署名したものではないのですから」
「またその話をするのか」
グレゴールは露骨に顔をしかめた。
「ロザリー。これ以上、この件を大きくするつもりはない。家の中で収める」
「では、私はどうなるのです?」
「しばらく王都を離れてもらう」
ロザリーは父の言葉を待った。嫌な予感はしたが、それでも、どこかの領地へ移される程度だと思っていた。 人目を避けたいという父の考えには納得できなかったが、この場で話し合う余地はまだあると思っていた。
「修道院へ入ってもらう」
その言葉を聞いた瞬間、ロザリーは何も言えなかった。
「……修道院、ですか」
「ああ」
「どちらの?」
「お前も聞いたことがあるだろう。問題を起こした貴族令嬢を預かっている修道院だ」
聞いたことならあった。貴族社会で失態を犯した令嬢が、最後に送られる場所。婚約を破棄された者、不貞を働いた者、家の財産へ手をつけた者。それ以上の罪を犯した女までいるとも噂されていた。そこへ送られたというだけで、その令嬢の名を社交界で聞くことはほとんどなくなる。
「待ってください。私は何もしていません」
「声を抑えなさい」
「ですが、お父様」
「だからこそ、これ以上騒ぎを広げたくないと言っている」
グレゴールは苛立ったように額へ手を当てた。
「家の金を横領したという話が外へ出れば、ベルク家そのものの信用に関わる。お前が無実だと言い張って調査を求めれば、商会にも使用人にも事情を説明しなければならない。そんなことをして何になる」
「私が無実だと分かります」
「まだ分からないのか!」
机を叩く音に、ロザリーは口を閉じた。父は一度息を吐き、声を落とした。
「家のことも考えなさい。これ以上問題を起こさず、静かにしていてくれればいい」
調査を嫌がっている理由は、ロザリーにもなんとなく分かっていた。それでも家族なのだから、時間を置けば考え直してくれるかもしれない。もう一度きちんと話せば、自分の言っていることを理解してくれるかもしれない、だが、父が選んだのは、真相を確かめることではなかった。何があったのかを調べるより、この話を外へ出さないことを優先したのだ。
「お父様は、私がしたと思っているのですか?」
「その話は昨日もしただろう」
「答えていただいていません」
「証拠がある。それ以上に何を言えというんだ」
「では、私のことは信じてくださらないのですね」
グレゴールは答えなかった。代わりに、セドリックが口を開いた。
「ロザリー。私からも話がある」
彼はロザリーと目を合わせ、わずかに間を置いた。
「君との婚約は解消する」
「……そうですか」
「今の状況では、これまで通りというわけにはいかない。家同士のこともある」
「私が無実でも?」
「だから、それを証明できないだろう」
証明できないのではない。誰も、証明しようとしないだけだ。ロザリーは昨日と同じ言葉を返しかけて、やめた。調べてほしいと、昨日から何度言ったのかもう分からない。証明するために調べてほしいと言っているのに、証明できないから信じられないと言われる。その話を繰り返しても、何も変わらなかった。
「分かりました」
ロザリーが答えると、セドリックは少し驚いたようだった。
「ロザリー」
「婚約を解消なさるのでしょう。今、そう仰いました」
「ああ。だが」
「でしたら、承知しました」
声は自分でも意外なほど穏やかだった。隣でコレットが不安そうにロザリーを見ている。
「お姉様……」
「何?」
「こんなことになるなんて、私……」
コレットはそこで言葉を詰まらせ、俯いた。
「ごめんなさい」
ロザリーは返事をしなかった。昨日なら、泣きそうな顔をする妹を見れば、こちらが悪いことをしたような気持ちになっていたかもしれない。だが今は、何を言えばいいのか思いつかなかった。ドロテアが娘の背を撫でる。
「ロザリー。しばらく静かな場所で過ごせば、あなたも落ち着いて考えられるわ。今は色々なことが重なって混乱しているのよ」
「私は混乱していません」
「でも」
「していないのです」
ロザリーはそれだけ言って、父へ向き直った。
「いつ出発するのですか?」
「明日の朝だ」
「分かりました。荷物をまとめます」
それ以上、話すことはなかった。
結局、誰も調べなかった。帳簿を改めることも、書類を扱った使用人に話を聞くことも、手紙に書かれていた男を探すこともなかった。ロザリーが何度否定しても、 父は家の恥を広げたくないと言い、セドリックは証拠があると言った。
そして翌朝、ロザリーはベルク家の屋敷を出ることになった。持っていくことを許された荷物は多くなかった。衣装も宝石も必要ないと言われ、最低限の着替えと身の回りの品だけが小さな旅行鞄へ収められた。
玄関前にはすでに馬車が待っている。父は見送りに出なかった。ドロテアの姿もない。来たのはコレットだけだった。
「お姉様、ごめんなさい」
ロザリーが馬車へ乗ろうとすると、コレットが後ろから声をかけた。
「私、お父様に黙っておくことも考えたんです。でも、それでは家のためにならないと思って……」
「そう」
「本当に、ごめんなさい」
「もういいわ」
「セドリック様のことも心配しないでください。私たちで支えますから」
ロザリーの手が、馬車の取っ手に触れたまま止まった。振り返ると、コレットはいつものように心配そうな顔をしていた。大きな瞳を伏せ、今にも泣きそうに唇を結んでいる。これまでなら、その顔を可哀想だと思った。自分を責めているのだろう。悪気はなかったのだろう。家のために正しいと思ったことをしただけなのだろう。そう考えて、慰めていたはずだった。
「……そう」
それだけ答えて馬車へ乗った。
「お姉様!」
扉が閉まる。走り出した馬車の窓から屋敷を振り返ると、コレットはまだそこに立っていた。ロザリーは前を向いた。余裕のない気持ちで妹の声を聞くと、その甲高い響きだけが妙に耳に残った。
修道院までは、王都から馬車で二日ほどかかった。街道を外れ、山間へ入るにつれて人家は減っていった。二日目の午後には道の両側を木々が覆い、窓から見える景色にもほとんど人の姿がなくなった。
ロザリーは馬車の中で、幼い頃に聞いた噂を思い出していた。王国内で失態を犯した令嬢が最後に送られる修道院。無実を訴えている女もいるという。しかし社交界では、そんな話を真面目に聞く者はいなかった。修道院へ送られた時点で、何かをした女なのだと思われる。
ロザリー自身も、これまではそうだった。どのような事情があったのか確かめたこともない。ただ、恐ろしい場所なのだろうと思い、そこへ送られた令嬢の名を聞けば、自分とは縁のない話として忘れていた。その修道院へ、今は自分が向かっている。
やがて馬車の速度が落ちた。窓の外に、高い石の塀が見えた。塀は山肌に沿うように長く続き、その中央に重い鉄門がある。門の向こうには古い石造りの建物が建っていた。王都の教会で見慣れた華やかな装飾はなく、灰色の壁と細長い窓が並んでいるだけだった。鉄門が開き、馬車が中へ入る。そこにも、貴族の屋敷にあるような庭園はなかった。手入れされた畑と井戸、洗濯物を干すための紐が並び、飾り気のない石畳が建物の入口まで続いている。
馬車が止まり、ロザリーは自分で降りた。迎えに出てきたのは、灰色の修道服を身につけた女だった。五十を過ぎたくらいだろうか。背筋をまっすぐ伸ばし、ロザリーを見ても表情をほとんど変えない。
「ロザリー・ベルク様ですね」
「はい」
「修道院長のヘルミーネ・クラウゼです。中へどうぞ」
名乗った女は、ロザリーの荷物を確認すると、それ以上の挨拶もなく建物へ入った。ロザリーも後に続く。
中は外観と同じく質素だった。石の床に白い壁、必要最低限の家具。窓には色硝子もなく、廊下へ差し込む冬の光がそのまま床を照らしている。
ヘルミーネは歩きながら、淡々と説明を始めた。
「ここでは、以前の身分によって待遇を変えることはありません。朝は鐘とともに起床し、祈りの後はそれぞれ仕事をしていただきます。食事は朝、昼、夕の三度です」
「仕事というのは?」
「炊事、洗濯、掃除、畑仕事など、その時に必要なものを割り振ります。経験がなくとも覚えていただきます」
「分かりました」
「私物の持ち込みには制限があります。手紙の受け取りと発送は認めていますが、内容によっては確認させていただく場合があります」
「はい」
ロザリーは一つずつ頷いた。厳しいとは思うが、どれも理解できない規則ではない。修道院なのだから、貴族の屋敷と同じ暮らしができるとは考えていなかった。ヘルミーネは廊下の奥へ進み、階段の前で足を止めた。
「それから、もう一つだけ」
ロザリーも立ち止まる。
ヘルミーネは、それまでと変わらない声で告げた。
「夜に、絶対に音を立ててはなりません」
ロザリーは一瞬、意味が分からなかった。
「……音、ですか?」
「日が沈んでから、翌朝の鐘が鳴るまでです。声を出さない。物を落とさない。扉も静かに開閉してください」
「夜は会話をしてはいけない、という意味でしょうか」
「会話だけではありません。音を立てないでください」
「もし、誤って何かを落としたら?」
「落とさないようにしてください」
「ですが、もし破ってしまった場合は、どうなるのでしょう」
ヘルミーネはロザリーを見た。怒っているようには見えない。脅しているわけでもない。ただ、その問いに答えるつもりがないことだけは分かった。
「守ってください」
それ以上の説明はなかった。




