第一話 ロザリーと家族
父が再婚すると聞いた時、ロザリー・ベルクは素直に嬉しいと思った。
母を亡くしてから、ベルク子爵家の屋敷には長く父とロザリーしかいなかった。もちろん使用人は大勢いるし、ロザリーにも婚約者や親しい令嬢はいる。それでも家族というものは別だった。夕食の長い卓についても向かいにいるのは父一人で、父が領地の仕事に追われていれば、ロザリーは一人で食事をすることも珍しくなかった。
「ドロテアには娘が一人いる。お前より一つ年下だ」
再婚の話を告げた父グレゴールは、どこか言いにくそうにロザリーの顔を見ていた。
「では、私にも妹ができるのですね」
「ああ。コレットという」
「楽しみですわ」
ロザリーがそう答えると、父は目に見えて肩の力を抜いた。
「そう言ってくれると思っていた。ドロテアも、お前とうまくやりたいと言っている」
「もちろんです。これから家族になるのですもの」
それ以外の答えを、ロザリーは考えもしなかった。
ドロテアが初めて屋敷へ来た日は、香水の匂いが廊下まで漂っていた。華やかな色のドレスに、目元も唇もはっきりと化粧を施した女で、亡くなった母とは随分雰囲気が違う。けれど笑顔は明るく、ロザリーの手を両手で包んだ。
「あなたがロザリーね。まあ、本当に綺麗なお嬢さん。ずっとお会いしたかったのよ」
「ロザリー・ベルクです。私もお会いできるのを楽しみにしておりました。これからよろしくお願いいたします、お義母様」
「そんなに畏まらないで。私のことも、本当の母親だと思ってくれたら嬉しいわ」
その横では、コレットが落ち着かなそうにロザリーを見ていた。柔らかな色の髪に大きな瞳、頬にはまだ少女らしい丸みが残っている。ロザリーが笑いかけると、コレットはおそるおそる一歩近づいた。
「初めまして。コレットです。これからよろしくお願いいたします」
「ロザリーよ。こちらこそよろしくね」
「えっと……あの……お姉様と、お呼びしてもいいですか?」
「ええ、嬉しいわ。もちろんよ」
「本当ですか! 私、一人っ子だったから、お姉様が欲しかったんです」
そう言われれば、嫌な気持ちになるはずがなかった。
コレットはすぐにロザリーの部屋へ遊びに来るようになった。
「このドレス、とても素敵」
「気に入った?」
「はい。でも、お姉様だから似合うんでしょうね。私にはこんな上品な色、きっと似合いません」
「そんなことないわ。今度着てみる?」
「いいんですか?」
コレットの顔がぱっと明るくなる。
「もちろん。姉妹でしょう」
衣装だけではなかった。宝石箱を開けば、コレットは一つ一つ、目を輝かせて眺めた。ロザリーが夜会で身につけた髪飾り、普段使いの首飾り、婚約者の家から贈られた品。
「あ、これは駄目ね。セドリック様のお家からいただいたものだから」
「分かっています。そんな大切なもの、借りようなんて思いません」
コレットは慌てて手を引っ込める。
「ごめんなさい。疑ったわけではないのよ」
「お姉様は優しいですね」
「普通でしょう?」
「私なら、こんなに色々貸してあげられるか分かりません」
ロザリーは笑った。
「それなら、私が姉でよかったわね」
コレットも笑った。家の中が以前より賑やかになったことを、ロザリーは喜んでいた。
ドロテアは家政を引き受けた。最初のうちは分からないことが多いからと、ロザリーに帳簿の置き場所や使用人の役割を尋ねていたが、そのうち自分で処理するようになった。
「あなたはもうすぐお嫁に行く身でしょう? 家の細かなことまで気にしなくていいのよ」
「でも、お義母様に任せきりでは」
「いいの、いいの。私にやらせてちょうだい。こういうこと、好きなのよ」
そう言って笑うドロテアを見れば、無理に取り上げる理由もなかった。
父も以前より機嫌がよかった。亡くなった母がいた頃の父を、ロザリーはそれほど鮮明には覚えていない。ただ、母が帳簿や領地の報告書を前に父と長く話し込んでいたことは覚えている。ドロテアはそうした話をほとんどしなかった。
「難しいことはあなたに!任せるわ、グレゴール」
「そうか、任せなさい」
父はそう言われると満足そうだった。
家族がうまくいっているなら、それでいい。ロザリーはそう思っていた。コレットを自分の茶会へ連れていったのも、その延長だった。
「緊張します」
「大丈夫よ。最初は皆そうだから」
馬車の中で何度も手袋を直しているコレットの手を、ロザリーは軽く叩いた。
「私の知っている方ばかりよ。無理に話そうとしなくても、最初は笑って挨拶していれば大丈夫」
「お姉様は、こういう場所でも緊張しないんですか?」
「するわよ」
「全然そう見えません」
「見えないようにするのも淑女の嗜みだと教えられたもの」
ロザリーが答えると、コレットは感心したように見つめてきた。
「私、お姉様みたいになりたいです」
「私なんて普通よ」
「そんなことありません」
茶会でもコレットは愛想がよかった。最初こそロザリーの後ろについていたが、若い令嬢たちから可愛らしいと褒められるうちに緊張も解け、帰る頃には何人かと次の約束までしていた。セドリックと会わせた時も同じだった。
「こちらが義妹のコレットです。これから顔を合わせることも増えると思いますから、妹だと思って接してくださると嬉しいです」
「初めまして、セドリック様」
コレットは少し頬を赤くして頭を下げた。
「ロザリーから話は聞いているよ。そんなに緊張しなくてもいい」
「だって、お姉様の婚約者様ですもの。失礼があったらどうしようって」
「堅苦しく考えなくていいよ」
セドリックは笑った。普段の彼は、ロザリーに対してそれほどよく笑う男ではない。二人とも婚約者として必要な礼儀は守っていたし、関係が悪いとも思っていなかった。ただ、ロザリーもセドリックも、婚約とはそういうものだと思っていた。家同士が決めた相手と少しずつ互いを知り、結婚してから夫婦になっていく。
だから、コレットを相手に楽しそうに話すセドリックを見ても、ロザリーは特に気にしなかった。人懐こいコレットと話す方が、話題も多いのだろう。
「セドリック様って、もっと怖い方かと思っていました」
帰宅したコレットが言った。
「どうして?」
「お姉様がいつもきちんとしているから、婚約者様も厳しい方なのかなって。でも、とてもお優しいんですね」
「ええ。誠実な方よ」
「お姉様は幸せですね」
「そうね」
ロザリーは疑いなく頷いた。
父には新しい妻ができた。自分には母と妹ができた。いずれ自分はセドリックと結婚し、この家を出る。それでも家族であることは変わらない。
困ったことがあれば助け合い、何か行き違いがあれば話し合えばいい。家族とはそういうものだと、ロザリーは思っていた。
だから、父の書斎へ呼ばれた日も、最初は何か家の相談だと思っていた。部屋へ入ると、父だけではなかった。ドロテアとコレットが並んで座り、セドリックまでいる。
「セドリック様?」
予定を聞いていなかったロザリーが首を傾げる。誰も笑わなかった。父の机には何枚もの書類が並べられている。
「座りなさい、ロザリー」
「はい」
言われるまま椅子へ腰を下ろした。何か問題が起きたのだろうとは思ったが、それが自分に関係することだとはまだ考えていなかった。最初に紙を取ったのはコレットだった。
「こちらは、お姉様の署名でしょう?」
差し出された書類へ目を落とす。ロザリー・ベルク。確かに自分の名前が書かれていた。
「そう見えるけれど……これは何?」
「子爵家の口座からお金を引き出した時の承認書です」
ロザリーはもう一度紙を見る。金額は小さくない。それが一枚ではなく、机には同じような書類が何枚も並んでいた。
「私はこんな書類に署名していないわ」
「でも」
コレットが困ったように父を見る。
「筆跡はあなたのものだ」
答えたのはセドリックだった。
「似ています。でも、私ではありません」
「似ているどころではない」
セドリックは別の紙を持ち上げた。
「これも君が書いたものではないと言うのか」
手紙だった。そこには、ロザリーがセドリックとの婚約を解消した後、別の男と暮らすつもりであること、そのために子爵家から金を確保していることが書かれていた。最初の数行を読んだところで、ロザリーは顔を上げた。
「これも私ではありません」
「ロザリー」
「本当に違います」
セドリックの声には、すでに疑問より落胆が滲んでいた。
「では、なぜこれほど証拠が揃っている」
「分かりません」
それはロザリーにも分からない。
「だから調べてください。帳簿も、書類を扱った者も調べれば分かるはずです」
「お姉様……」
コレットが小さな声を出した。
「私、お姉様を責めたいわけじゃないの」
「なら、なおさら調べればいいでしょう?」
「でも、これ以上大事になったら……」
コレットは不安そうに父を見る。ドロテアも娘の肩へ手を添えた。
「ロザリー。何か事情があるなら、今ここで話してくれていいのよ。私たちは家族なのだから」
「事情も何もありません。私がしていないのですから」
声が少し強くなった。ロザリーは息を整えた。
「ごめんなさい。でも本当に、身に覚えがないのです」
家族なのだから。ドロテアが今そう言った。ならば、話せば分かるはずだった。
「お父様。調べてください。帳簿も、書類を扱った者も。それに、この手紙に書かれている別の男とやらについても、私の最近の行動を調べれば、そのような相手などいないと分かるはずです」
父を見る。グレゴールは机の書類へ目を落としたまま、すぐには答えなかった。
「お父様?」
「これ以上、家の恥を広げるわけにはいかない」
「……家の恥?」
ロザリーは聞き返した。
「ドロテアとコレットが気づかなければ、もっと大きな損失になっていた」
「でも、私がしたのではありません」
「まだ言うのか」
「事実です」
父の眉間に皺が寄った。ロザリーは混乱しながらも、できるだけ落ち着いて言葉を選んだ。
「でしたら、なおさら確認が必要でしょう。誰かが私の署名を真似しているなら、家にとっても問題です」
「そんな話を外へ持ち出せと言うのか?」
「外へとは言っていません。まず家の中で――」
「使用人を一人ずつ問い詰めるのか。商会にも照会するのか。そうすれば、何があったのか嫌でも広まる」
ロザリーは口を閉じた。父が何を心配しているのかは分かった。それでも、疑いを残したまま話を終わらせることには納得できなかった。
「ですが、このままでは私がしたことになります」
「証拠があるんだ!」
グレゴールの声が大きくなった。ロザリーは目を瞬いた。父が一度咳払いをする。
「……すでに、これだけの証拠がある。これ以上騒ぎを大きくして何になる」
「私の無実が分かります」
「ロザリー」
セドリックが静かに名を呼んだ。その声音に、ロザリーは嫌なものを感じた。
「何ですか」
「君との婚約についても、考え直さなければならない」
「なぜです?」
「なぜって……」
セドリックは信じられないという顔をした。
「この状況で、何事もなかったように婚約を続けられると思っているのか?」
「私は何もしていません」
「だが証拠がある」
「ですから、それを調べてほしいと言っています」
先程から同じやり取りを繰り返している。自分は「調べれば分かる」と言っている。父もセドリックも、「証拠がある」と言っている。誰も、その証拠が本物なのか調べようとはしてくれなかった。
「セドリック様」
ロザリーは彼を見た。
「本当に、私がこの手紙を書いたと思っているのですか?」
「……筆跡は君のものだ」
「それは答えになっていません」
「では、他にどう考えろと言うんだ」
セドリックは苛立ったように視線を逸らした。その先にコレットがいた。コレットは不安そうに両手を胸の前で組んでいる。
「セドリック様、あまりお姉様を責めないでください。きっと何か理由が――」
「コレットは黙っていなさい」
ロザリーが言うと、コレットの肩がびくりと揺れた。
「そんなつもりでは……」
「ごめんなさい。今はあなたに庇ってもらう話ではないの」
きつく言いすぎたと思い、すぐに謝った。しかしコレットは傷ついたように俯いた。セドリックの表情が険しくなる。
「コレットは君を心配しているだけだ」
「分かっています」
「なら、そんな言い方をする必要はないだろう」
「……そうですね。ごめんなさい」
その場の雰囲気に飲まれて謝ってしまったが、自分が何を謝っているのか、少し分からなくなった。
ドロテアが深く息を吐く。
「今日はもう、このくらいにした方がいいんじゃないかしら。ロザリーも混乱しているでしょうし」
「そうだな」
父は頷いた。
「待ってください」
ロザリーだけが立ち上がった。
「何も決まっていません」
「今日は休みなさい」
「お父様」
「部屋へ戻りなさい」
父はもうロザリーを見なかった。セドリックも、机の上の手紙へ視線を落としている。ドロテアは心配そうな顔をしていた。コレットも泣きそうな目でこちらを見ている。
「明日、もう一度お話しさせてください」
「……分かった」
父の返事を聞いて、ロザリーは頭を下げた。部屋を出る直前、振り返る。家族なのだから。明日になれば、もう少し落ち着いて話せる。父もきっと調べる必要があると分かってくれる。セドリックも、自分がそんなことをする人間ではないと思い直してくれるだろう。
そう考えて、ロザリーは扉を閉めた。書斎の中に、自分以外の四人を残して。




