第9話 踏み台を失った人々
第9話 踏み台を失った人々
クラウゼル伯爵夫妻の裁判が始まった朝、王都には冷たい雨が降っていた。裁判所の石段には濡れた落ち葉が張りつき、傘を持たない新聞売りの少年が軒下で号外を配っている。エレナは葡萄色のドレスに濃紺の外套を重ね、アルディスや王宮書記官とともに証言者用の控室で待っていた。
卓上には温かな紅茶と焼き菓子が用意されていたが、エレナは何度も同じ頁を読み返していた。紙をめくる指先には、帳簿を燃やされたときの薄い傷痕が残っている。リナは何も言わず、冷めた紅茶を新しいものへ取り替えた。
「エレナ。証言を取りやめても、提出した証拠だけで裁判は進められる」
アルディスは向かいの椅子に座り、返事を待った。代わりに証言するとも、勇気を出せとも言わない。エレナは焼き菓子を半分に割り、乾いた杏の入った生地をゆっくり飲み込んだ。
「自分で話します。黙ったままでは、あの家で起きたことまで、なかったことにされそうですから」
「分かった。私は傍聴席にいる」
「もし途中で声が出なくなったら、少しだけ待っていてください」
「いくらでも待つよ」
法廷には、クラウゼル領の村長や元使用人たちが集まっていた。正面の長机には三人の判事が座り、その背後には王国の天秤をかたどった紋章が掲げられている。火鉢では炭が赤く燃えていたが、石造りの広間を暖めるには足りず、傍聴人たちは外套を着たままだった。
マリアンヌは飾りのない灰色の服を着せられ、被告人席で何度も髪を直していた。宝石も香油も取り上げられ、唇は乾いて白くなっている。隣に座るベルトランドは、旧式の黒い礼服を着ていたが、襟元の伯爵章は外されていた。
「これは陰謀です」
罪状が読み上げられる前に、マリアンヌが立ち上がった。監視役に座るよう命じられても、王子が娘に惑わされ、自分を追い落とそうとしているのだと訴える。判事が木槌を鳴らすと、天井近くに止まっていた鳩が驚いて羽音を立てた。
「被告人マリアンヌ。発言を許可されるまで、着席しなさい」
「私は被害者なのです。実の娘に裏切られ、身に覚えのない罪を着せられました」
「あなたがエレナ嬢へ渡した林檎茶から、眠り薬と同じ成分が検出されています。薬屋にも、あなたが購入した記録が残っています」
「あの子が眠れないと言うから買ったのです。母親として心配しただけですわ」
薬屋の主人は、マリアンヌから「大人を半日眠らせる量」を何度も確認されたと証言した。屋根裏部屋の鍵からは彼女の指紋が見つかり、招待状と身分証も彼女の鞄から押収されている。言い逃れをするたび、新しい証拠が法廷の机へ並べられた。
続いて、横領された金の流れが説明された。エレナの持参金、衣装費、教育費、領民救済金が、宝石やドレスの支払いに使われている。証拠として運び込まれた宝石箱を見ると、マリアンヌは身を乗り出した。
「その首飾りは私のものよ。傷をつけないでちょうだい」
「購入には、洪水被害を受けた村の救済金が使われています」
「村人には畑があるでしょう。翌年になれば、また作物が実るわ」
「その冬、食料を買えずに家畜を売った者が三十二名いました」
「それが私と何の関係があるの?」
法廷から声が消えた。傍聴席にいた村人たちは、膝の上で帽子を握っている。マリアンヌは自分へ向けられた視線の意味が分からず、宝石の留め金が壊れていないかだけを尋ねた。
ベルトランドは、妻の浪費を知らなかったと主張した。しかし、彼自身が署名した偽造帳簿と、救済金の不足を隠すために作った架空の領収書が提出される。王宮で高い評価を得ていた領地政策について質問されても、一つとして説明できなかった。
「旱魃時の配水制度を考案したのは、あなたですか」
「当主である私の指示によるものだ」
「では、最初に水を配る村を、どのような基準で決めましたか」
「そのような細部は覚えていない」
「エレナ嬢が作成した下書きと、あなたが提出した報告書は、表紙以外すべて一致しています」
ベルトランドは、家族の仕事を当主の名で出すことは当然だと答えた。判事が娘へ報酬を支払ったかと尋ねると、屋敷で暮らさせていたことが報酬だと言い返す。傍聴席の元料理長が、前掛けの端で目元を拭った。
エレナが証言台へ呼ばれると、マリアンヌは急に声を柔らかくした。娘へ微笑みかけ、今なら許してあげると両手を広げる。エレナの足は一度止まったが、傍聴席のアルディスを見ず、自分で証言台まで歩いた。
「エレナ。お母様を助けてちょうだい。家族でしょう?」
「私は、見たことと、自分がされたことを話します」
「母親を罪人にするつもりなの?」
「罪を決めるのは裁判所です。私ではありません」
エレナは、母に薬を飲まされ、屋根裏へ閉じ込められた経緯を話した。母が帳簿と手紙を燃やしたこと、父へ何度助けを求めても謝るよう命じられたことも伝える。声が止まったときには一度水を飲み、誰かに続きを促される前に、自分から話し始めた。
証言が終わると、判事は翌日に判決を言い渡した。マリアンヌには横領、監禁、傷害、王家への身分詐称が認定される。財産と身分を失い、被害者への賠償が終わるまで王立救護院で働くことになった。
ベルトランドも爵位と官職を剥奪された。妻の横領を隠蔽し、公文書を偽造し、娘の報告書を自分の功績として提出した責任を問われた。没収された屋敷、宝石、馬車、土地の一部は、領民と未払い給金のある使用人への補償に充てられることが決まった。
「お前が浪費したからだ!」
退廷を命じられたベルトランドは、妻へ向かって怒鳴った。マリアンヌは椅子を倒して立ち上がり、夫の袖をつかむ。灰色の服の裾が倒れた水差しに触れ、濡れて黒くなった。
「あなたがもっと稼がなかったからよ! 甲斐性のない夫を持った私こそ被害者だわ!」
「私が仕事をしている間、お前は宝石を買うことしか考えていなかった!」
「その仕事だって、エレナにやらせていたのでしょう!」
二人は互いの罪を叫びながら、警護兵に引き離された。以前なら、エレナが二人の間へ入り、どちらにも謝っていただろう。だが彼女は証言台の横に立ったまま、一歩も近づかなかった。
数日後、マリアンヌは王都郊外の救護院へ送られた。朝は鐘が鳴る前に起き、冷たい水で寝具を洗わなければならない。初めて洗濯桶へ手を入れた彼女は、灰汁で赤くなった指を見て金切り声を上げた。
「こんな仕事はできないわ。私は伯爵夫人よ!」
「ここに伯爵夫人はいません。洗い終えたら、昼食の配膳をお願いします」
「手が荒れたらどうしてくれるの? 香油を持ってきなさい!」
「軟膏ならあります。皆で使うものですから、一人分だけ多くは渡せません」
救護院の職員は声を荒らげず、次の寝具を桶へ入れた。昼には薄い豆のスープと黒パンが出されたが、マリアンヌが味がないと皿を押し返しても、別の料理は用意されない。夜になっても髪をとかす侍女は来ず、自分で脱いだ服は自分で畳まなければならなかった。
ベルトランドは王都の小さな借家へ移された。爵位も部下もなく、食費を得るには日雇いの帳簿整理をしなければならない。しかし数字の誤りを見つけられず、三日目には商店主から仕事を断られた。
部屋には固い寝台、欠けた杯、脚の曲がった机しかなかった。窓の外では行商人が焼き栗を売り、香ばしい匂いが薄い壁を越えて入ってくる。ベルトランドは財布の中の銅貨を数えたが、一袋買うには足りなかった。
一方、クラウゼル領は王家の管理下へ置かれた。村の代表者と領地官が集まり、救済金の使い道を毎月公開する仕組みが作られる。エレナが考案した備蓄制度も、今度は彼女の名前を記したまま正式に採用された。
判決後、エレナは離宮の庭へ出た。雪の間から黄色い福寿草が小さな蕾を出し、庭師が凍った土へ腐葉土を混ぜている。彼女は両親の処罰を喜ぶことも、かわいそうだと言って取り消しを求めることもしなかった。
「これで、本当によかったのでしょうか」
隣を歩くアルディスへ尋ねると、彼はすぐに答えなかった。庭師がこぼした土を二人で避け、白い息を吐きながら歩く。やがて彼は、結果ではなくエレナ自身の気持ちを尋ねた。
「君は、二人を助けたいと思っている?」
エレナは立ち止まり、手袋の中で指を動かした。救護院で働く母と、狭い借家で暮らす父の姿を思い浮かべる。胸の内に重いものは残ったが、迎えに行かなければという考えは浮かばなかった。
「いいえ。私は、もう戻りません」
「それでいい」
「二人が困っていても、私が何とかしなくてよいのですね」
「二人が自分で引き受けるべき人生だ。君の仕事ではない」
エレナは足元の福寿草を踏まないよう、少し遠回りして歩き出した。離宮へ戻れば、リナが蜂蜜入りの温かな山羊乳を用意している。両親の間へ立って謝る必要も、誰かの食べ残しを待つ必要もなかった。
自分には、両親を救う義務がない。その言葉を胸の中でもう一度確かめると、エレナは外套の襟を自分で整えた。そして雪の残る庭を、振り返らずに離宮へ戻った。




