第8話 私は、あなたたちの娘を辞めます
第8話 私は、あなたたちの娘を辞めます
王都に二度目の雪が降った朝、エレナは離宮の執務室で帳簿を綴じていた。窓辺の冬菫は白い花を三つ咲かせ、暖炉の上では濡れた手袋が乾かされている。朝食の茸入り粥は半分ほど残っていたが、冷めてもあとで食べるつもりで蓋をかぶせてあった。
机に並んでいるのは、燃やされた帳簿を復元したものだった。領地から取り寄せた記録、商人の領収書、使用人の証言を照らし合わせ、失われた数字を一つずつ書き直している。右手のやけどは薄い赤い痕になり、ペンを握っても以前ほど痛まなくなっていた。
「エレナ様。少しお休みになりませんか」
茶を運んできたリナが、インクで黒くなった吸い取り紙を交換した。盆には焼いた胡桃と、小さな砂糖菓子も載っている。エレナは胡桃を一つ口へ入れ、香ばしい匂いと苦みを確かめてから頷いた。
「この一頁を終えたら休みます。ここに、お母様の首飾りの代金があるのです」
「王宮の調査官へ任せてもよいのではありませんか」
「任せることはできます。でも、自分に何が起きたのか、今度は自分で確かめたいのです」
エレナは新しい帳簿の表紙を撫でた。そこには作成者として、エレナ・クラウゼルと記してある。以前なら自分の名を見るだけで父に見つからないかと身構えたが、今は消そうとは思わなかった。
廊下から急ぎ足が近づき、王宮侍従が入ってきた。今日、両親は裁判前の聴取を受けるため、警護隊に付き添われて王宮へ来ている。聴取を終えた二人が馬車へ戻ることを拒み、エレナに会わせろと面会室で騒いでいるという。
「お断りすることもできます。殿下からは、エレナ様のご意思を最優先するよう命じられております」
侍従は返事を急かさず、扉のそばで待った。エレナは蓋をしていた粥を一口食べたが、冷えた茸が喉へ引っかかり、なかなか飲み込めない。母の甲高い声と、父が机を指で叩く音を思い出すと、匙を持つ指が震えた。
「会います」
「よろしいのですか」
「はい。伝えなければならないことがあります。でも、殿下と王宮書記官にも同席していただきたいのです」
それは、以前のエレナなら口にできなかった条件だった。彼女は復元した帳簿と数通の証言書を革鞄へ入れ、薄青色のドレスの上へ濃紺の外套を羽織る。廊下へ出る前に冬菫の土へ触れると、まだ湿っていたため水は与えなかった。
王宮の面会室は、法務棟の一階にあった。灰色の壁には王国の地図が掛けられ、中央の長机には水差しと四つの杯が置かれている。花瓶に生けられた赤い椿は暖房の熱で少し萎れ、窓硝子の向こうでは雪が細かく舞っていた。
マリアンヌは、エレナの姿を見るなり椅子から立ち上がった。以前のような絹のドレスではなく、古い茶色の外出着を着ている。髪を整える侍女もいないため、後ろの毛が一房だけ結い残されていた。
「エレナ! ようやく会いに来たのね」
母は両手を広げて近づこうとしたが、警護兵に止められた。すぐ後ろには、皺のついた黒い礼服を着たベルトランドが立っている。剃り残した顎を指でこすりながら、娘の外套と王宮で仕立てられたドレスを値踏みするように見た。
「その兵を下がらせなさい。親子で話をするだけよ」
「警護兵は下げません。お話は、こちらで伺います」
「まあ、母親を犯罪者のように扱うの? あなたを産んだのは私なのよ」
マリアンヌは口元を押さえ、大きな声で泣き始めた。しかし目元に涙は浮かんでおらず、指の隙間からアルディスの反応を確かめている。アルディスはエレナの隣に立ったまま、母へ声をかけなかった。
「あなたがいなくなってから、私は眠れないのよ。髪を結ってくれる人もいないし、朝のお茶だって誰も用意してくれないの」
「それは、ご自分でなさってください」
「産んであげた恩を忘れたの? 病気にならないよう育てて、貴族の娘として屋敷に置いてあげたでしょう」
「お母様は、それを理由に私を連れ戻したいのですか」
「当たり前でしょう。母親の世話をするのは、娘の務めよ」
マリアンヌは泣くのをやめ、当然のことを説明するように言った。エレナの指が外套の内側で震え始める。幼い頃、熱を出した母の枕元で一晩中扇を動かし、翌朝に居眠りをして叱られた記憶が浮かんだ。
ベルトランドが咳払いをし、母の前へ出た。彼は父親らしく見せようと背筋を伸ばしたが、片方の靴には乾いた泥がついている。暖房の利いた部屋でも外套を脱がず、襟元を何度も直していた。
「エレナ、くだらない意地を張るのはやめなさい。お前はクラウゼル伯爵家の長女だ。家が苦しいときに戻り、責任を果たせ」
「私が戻れば、何をさせるつもりですか」
「まず、領地から届いた書類を処理しろ。王宮には、家族内の誤解だったと説明するのだ。お前から殿下へ頼めば、調査も打ち切られるだろう」
「お父様は、私に帳簿を書かせ、今度は罪まで隠させるのですか」
「親を助けるのは罪ではない。お前一人を育てるために、どれだけ金がかかったと思っている」
父が机を叩くと、水差しの中の水が揺れた。エレナの呼吸が浅くなり、足元の床が傾いたように感じる。アルディスが一歩前へ出ようとしたため、彼女はとっさにその手を握った。
「エレナ?」
「大丈夫です。私に話させてください」
握った手は温かく、逃げずに立つための支えになった。アルディスは父の前に立つ代わりに、エレナの半歩後ろへ下がった。彼女がいつでも手を離せるよう、指へ力を入れずに待っている。
エレナは革鞄から三冊の帳簿を取り出した。持ち上げる手はまだ震えていたが、一冊ずつ机の上へ置く。紙と革表紙が触れるたび、乾いた音が面会室へ響いた。
「これは、私の持参金を使った記録です。衣装代や教育費として支出されたことになっていますが、実際にはお母様の宝石と香油に使われています」
「家族のお金を、誰が使っても同じでしょう」
「こちらは、領民の救済金です。橋を直したと報告されていますが、橋は壊れたままでした。救済金と同じ額が、翌日に宝石商へ支払われています」
「夫から渡された金よ。どこから出たかなんて、私が知る必要はないわ」
「そして、これは私が作成した報告書です。表紙だけを取り替え、お父様がご自分の功績として王宮へ提出しました」
エレナは焼け残った古い紙と、王宮に保管されていた報告書を並べた。文章だけでなく、文字の癖や誤ってつけた小さなインク染みまで一致している。ベルトランドは紙を裏返し、証拠を見えなくしようとした。
「家族の中で手伝っただけだ。伯爵家の功績は当主のものだと、何度も説明しただろう」
「私の仕事も、時間も、名前も、お父様のものではありません」
「お前は私たちがいなければ、何もできなかった。食事も、服も、教育も、すべて与えてやったのだぞ」
「私も、そう思っていました」
エレナは母の茶色い外出着を見た。ほつれた袖も、結い損ねた髪も、以前なら自分が直さなければと手を伸ばしていた。今は指を動かさず、机の上へ置いたままにした。
「私は、お母様を美しく見せるための鏡ではありません。お父様の地位を守るための手でもありません」
「何を生意気なことを言っているの。殿下に優しくされたから、自分が偉くなったと勘違いしたのね」
「私は偉くなったのではありません。最初から、一人の人間だったのです」
「親に逆らう娘なんて、誰からも愛されないわよ!」
母の声が耳へ刺さり、エレナの膝から力が抜けそうになった。何度も聞かされ、何度も信じてきた言葉だった。けれど、今朝食べた茸の粥、窓辺に咲いた冬菫、名前の書かれた村からの手紙を思い出すと、握った手を離さずに立っていられた。
「愛してほしかったです。お母様にも、お父様にも、家族として見てほしかった」
マリアンヌが勝ち誇ったように顎を上げた。帰ると言えば許してあげると口にし、娘へ手を差し出す。エレナはその手を見たが、近づかなかった。
「でも、そのために自分を差し出すのは、もう終わりにします」
「あとで後悔しても知りませんよ。家名を捨てた女など、王子が妻にするはずがないわ」
「殿下に選ばれるために、決めるのではありません。私が自分の人生を生きるために決めました」
王宮書記官が、用意していた書類を机へ置いた。両親との法的な関係を断ち、クラウゼル家の相続権を放棄するための申立書だった。エレナは内容をもう一度読み、自分の名前を記した。
ベルトランドが書類を奪おうとしたが、警護兵に腕を止められた。マリアンヌは相続権を捨てれば一文無しになると叫び、今度は王子へすがろうとする。アルディスは一歩も動かず、エレナが署名を終えるまで黙って見守った。
「今日から私は、あなたたちの望む娘を辞めます」
エレナはペンを置いた。父の署名を書かされていた頃とは違い、紙の最後には自分の名前だけが残っている。震えていた指を開き、両親の顔を順に見た。
「私の人生を返してください」
「そんな勝手は許さないぞ!」
「あなたが戻らないなら、私はどうすればいいのよ!」
「それを考えるのは、あなたたちです。もう、私の役目ではありません」
面会時間の終了を告げる鐘が鳴り、警護兵が両親を扉へ導いた。マリアンヌは娘の名を呼びながら、産んでやった、育ててやったと繰り返す。ベルトランドは裁判が終われば必ず連れ戻すと怒鳴ったが、二人の声は厚い扉が閉じると聞こえなくなった。
エレナは机の前に立ったまま、扉を見つめていた。握っていたアルディスの手を離すと、掌には爪の痕が残っている。足に力が入らなくなり、椅子へ座ろうとしたものの、うまく位置を確かめられなかった。
「終わりました」
「うん。君が自分で終わらせた」
「怖かったです」
「怖いまま言えたことを、私は忘れない」
アルディスは抱き締めようとせず、エレナが何を望むか待った。窓の外では雪がやみ、雲の切れ間から白い光が差し込んでいる。花瓶の椿は一枚だけ花びらを落とし、机に置かれた絶縁の申立書へ赤い色を添えた。
エレナは自分から両腕を伸ばした。アルディスはその動きを確かめてから、彼女の体を静かに受け止める。濃紺の外套越しに伝わる温もりの中で、エレナは初めて、謝る言葉を口にしなかった。
しばらくして面会室を出ると、廊下ではリナが温かな飲み物を用意して待っていた。林檎と生姜を煮た茶から甘く辛い香りが立ち、盆には昼に残した胡桃の砂糖菓子も載っている。エレナは両手で杯を受け取り、自分のために一口飲んだ。
「離宮へ帰りましょう、エレナ様」
リナがそう言うと、エレナは王宮の長い廊下の先を見た。以前なら帰る場所とは、母の機嫌を取り、父の帳簿を書く屋敷のことだった。今は白い冬菫の咲く窓辺と、冷めた粥をあとから食べても叱られない部屋が待っている。
「はい。帰りましょう」
エレナは自分で外套の前を留め、歩き出した。アルディスに引かれたのでも、両親に押し戻されたのでもない。雪解けの水が光る中庭を見ながら、彼女は自分で選んだ帰り道を、自分の足で進んだ。




