第7話 娘を失った伯爵家
第7話 娘を失った伯爵家
王宮での取り調べを終えたマリアンヌとベルトランドは、裁判までの間、クラウゼル伯爵邸で謹慎を命じられた。屋敷の門には王宮警護隊が立ち、夫妻の外出も来客も許可されていない。初雪の降った庭では、摘み取られなかった赤い山茶花が重たい雪に押され、枝を低く垂らしていた。
帰宅したマリアンヌは、冷え切った玄関で外套を脱いだ。いつもなら三人の侍女が駆け寄るのに、今日は年老いた執事が一人で待っている。彼は外套を受け取らず、銀盆に載せた書類を夫妻へ差し出した。
「これは何なの?」
「侍女五名、料理人二名、御者一名からの退職届でございます。三か月分の給金が支払われておりませんので、本日をもって屋敷を出ました」
「勝手なことを許した覚えはないわ。すぐに呼び戻しなさい」
「皆、自分の意思で辞めたのです。私にも、止める権利はございません」
マリアンヌは執事の手から退職届を払い落とした。紙は雪で濡れた床へ散らばり、彼女の黄色い靴の下へ入り込む。ベルトランドは腰をかがめて拾おうともせず、書斎へ向かいながら夕食を用意するよう命じた。
食堂の長卓には、固いパンと冷えた玉葱のスープだけが置かれていた。いつも使っていた銀の皿は王宮の調査官に押収され、縁の欠けた白い皿が二枚並んでいる。スープの表面には薄い脂が浮かび、窓の隙間から入る冷気で固まり始めていた。
「肉料理はどこなの?」
「料理長が辞めましたので、台所に残っていた物を温めただけでございます」
「温まっていないではないの。食べられるものを出しなさい」
「薪屋への支払いも滞っております。暖炉と厨房の両方で火を使う余裕はございません」
執事はそう告げると、卓上の燭台へ蝋燭を一本だけ立てた。マリアンヌは匙でスープをかき混ぜたものの、口には運ばない。ベルトランドは固いパンをちぎろうとして指を滑らせ、苛立ったように皿へ投げ戻した。
「すべてエレナがいなくなったせいだ。あれが屋敷にいれば、使用人の給金くらい工面したはずだ」
「私のせいだと言いたいの? あなたがきちんと稼いでいれば、給金を三か月も滞らせることはなかったでしょう」
「お前が宝石を買わなければ、金は残っていた!」
「伯爵夫人が宝石を身につけるのは当然よ。妻にそれすら与えられない自分の無能を棚に上げないで!」
二人の声が食堂へ響いても、仲裁に来るエレナはいなかった。以前なら母の椅子へ毛皮を掛け、父には温め直した紅茶を運び、どちらにも謝って場を収めていた。今夜は倒れた塩入れさえ、卓の中央に転がったままだった。
翌朝、王宮の調査官が十名の書記官を伴って屋敷へ入った。納戸、衣装部屋、書斎、地下金庫の扉が次々に開けられ、帳簿と領収書が食堂へ運ばれる。床には書類の束が積み上がり、紙の埃と古いインクの匂いが、マリアンヌの香油を押しのけるように広がった。
「この宝石箱には触らないで! すべて私個人の財産よ」
マリアンヌは葡萄色の部屋着の上へ毛皮を羽織り、調査官から宝石箱を奪おうとした。蓋の内側には首飾り、腕輪、耳飾りが隙間なく並び、窓から入る冬の日差しを反射している。調査官は一つずつ番号札をつけ、購入時期と支払い元を確認した。
「こちらのエメラルドの首飾りは、領民救済金から支払われています」
「そんなはずはありません。夫からもらったお金で買いました」
「領民救済金の口座から引き出された翌日に、同額が宝石商へ支払われています。領収書にも、この首飾りの特徴が記載されています」
「夫が救済金を使ったのなら、私には関係ないでしょう?」
マリアンヌが夫へ顔を向けると、ベルトランドは帳簿から目をそらした。彼が王宮へ提出した記録では、救済金は北部の橋と井戸の修繕に使われたことになっている。しかし橋は壊れたままで、井戸を修理した職人も存在しなかった。
「ベルトランド・クラウゼル伯爵。この署名は、あなたのものですね」
「妻が勝手に印章を使った可能性があります」
「筆跡鑑定では、あなたの署名と一致しています。さらに帳簿の金額を書き換えたインクも、あなたの書斎で発見されたものと同じです」
「私は領地を守るために、一時的な処理をしただけだ。翌年の収入で戻すつもりだった」
「不足を隠して王宮へ虚偽の報告を提出することを、一時的な処理とは呼びません」
調査官は改ざんされた帳簿を長卓へ並べた。数字の上から別の数字が書き足され、帳尻を合わせるために存在しない収穫や税収が記録されている。その横にはエレナが残した下書きも置かれ、実際の金額との差が赤い線で示されていた。
ベルトランドは自分の首元へ指を入れ、きつく締めた襟を緩めた。昨夜から同じ黒い礼服を着たままで、白いシャツの袖には冷えたスープの染みが残っている。書記官から説明を求められても、どの数字を見ればよいのか分からず、何度も頁を戻した。
「去年の小麦収穫量をお答えください」
「帳簿に書いてあるだろう」
「あなたの署名がある報告書です。内容を説明してください」
「細かな数字は部下へ任せていた。伯爵の仕事は、もっと大きな判断をすることだ」
「では、旱魃時の配水制度を考案したのは誰ですか」
「私に決まっている」
「その制度では、どの村から水を配るのですか」
ベルトランドは答えられず、机の上の書類をめくった。調査官が別の報告書について尋ねても、備蓄倉庫の場所も、種麦の配分基準も、冬季の道路が閉ざされる順番も知らなかった。すべてエレナが調べ、考え、父の名前で提出していたからである。
「この報告書には、『井戸までの距離を基準にする』とあります。なぜ必要なのですか」
「そんなことは、書いた本人に聞けばよいだろう」
「本人とは、どなたですか」
「エレナだ! あれが書いたのだから、あれに聞け!」
声を上げたあと、ベルトランドは口を閉じた。自分の功績だと言い張ってきた報告書を、娘が書いたと認めたことに気づいたのだ。書記官の一人が、その言葉を調書へ書き留める音が聞こえた。
午後には、領地から新しい報告書が届いた。北部では橋が壊れたため薪を運べず、南部では種麦が不足している。エレナがいた頃なら、届いた日のうちに村ごとの事情を整理し、余裕のある地区から物資を回していた。
「おい、この報告書を処理しておけ」
ベルトランドは執事へ紙を押しつけた。執事は報告書を受け取らず、両手を体の前で組む。長く仕えてきた彼の黒い上着は肘が白く擦れ、袖口の釦も一つなくなっていた。
「私は執事であり、領地官ではございません」
「エレナはやっていたぞ」
「お嬢様は十年以上学び、各村のことを調べておられました。私には、お嬢様と同じ仕事はできません」
「ならば、エレナを呼び戻せばいい」
「お嬢様は、あの家には戻らないと、ご自身でお決めになったそうです」
ベルトランドは机を拳で叩いた。インク壺が倒れ、黒い液が未処理の報告書へ広がっていく。いつもならエレナがすぐに吸い取り紙を当てたが、今は誰も動かず、村の名と被害の数字が黒く潰れた。
夕方、王宮の調査官が帰ると、夫妻は暖炉の前で向かい合った。薪を節約しているため火は小さく、部屋の隅には朝から干したままの濡れた手袋が下がっている。マリアンヌは没収を免れた真珠の耳飾りを指で触りながら、夫を睨んだ。
「あなたが帳簿をもっとうまく作っていれば、見つからなかったのよ」
「そもそも、お前が救済金へ手を出したからだ」
「あなたが何も買ってくれないから、自分で用意したのではありませんか」
「衣装代だけで毎年、騎士十人分の給金を使っていたのだぞ!」
「あなたが王宮で評価されたのは、私が美しい妻として隣にいたからでしょう!」
二人は、エレナを屋根裏へ閉じ込めたことも、帳簿を燃やしたことも口にしなかった。母は娘が王子へ近づいたせいだと言い、父は娘が黙って働き続けなかったせいだと言った。自分たちが何をしたかではなく、エレナが何をしてくれなかったかだけを責め続けた。
その夜、ベルトランドは残っている使用人たちを食堂へ集めた。卓上には、小さな革袋が三つ置かれている。袋の中の金貨は、屋敷の銀食器を密かに売って用意したものだった。
「エレナが滞在している離宮へ、私たちを案内しろ。成功すれば、未払いの給金に上乗せして払ってやる」
料理番の女性は、荒れた手を前掛けで拭きながら首を振った。御者は帽子を胸へ抱えたまま、床を見つめている。最後まで屋敷に残った執事が一歩前へ出て、金貨の袋を夫妻のほうへ押し戻した。
「これは、私どもが働いた分の給金です。口止め料でも、お嬢様を連れ戻すための報酬でもございません」
「主人の命令に逆らうつもりか」
「未払い分をいただいたら、私もこの屋敷を辞めます」
「お前まで私たちを見捨てるの?」
「先に見捨てられたのは、お嬢様です。私どもは長い間、それを見ながら黙っておりました」
執事は深く頭を下げた。料理番も御者も、それぞれ退職届を卓上へ置く。翌朝までに、残っていた使用人は門番を除いて全員が屋敷を去った。
次の日、マリアンヌが目を覚ましても、湯を運ぶ侍女は来なかった。部屋には昨日こぼした白粉が散り、洗っていない茶器には茶色い染みが残っている。自分で窓掛けを開こうとしたが、留め具の外し方が分からず、薄暗い部屋の中で何度も侍女の名を呼んだ。
書斎では、ベルトランドが領地から届いた報告書に囲まれていた。机の上には冷えた黒パンと、昨夜から残った水がある。どの書類を先に処理すべきか分からず、父は無意識に娘を呼んだ。
「エレナ、北部の収穫量を……」
返事はなかった。廊下にも、階段にも、紙とペンを抱えて駆けつける足音は聞こえない。屋敷に残っているのは、掃除されない部屋と、洗われない食器と、二人には読めない帳簿だけだった。
マリアンヌが書斎へ入り、朝食がないと夫を責めた。ベルトランドは領地が大変なときに食事の話をするなと怒鳴り返す。二人の間で、未処理の報告書が床へ落ちた。
その紙には、雪で道を閉ざされた村からの救援要請が書かれていた。今までなら、名前のない娘が誰よりも早く拾っていた一枚だった。けれど、この屋敷にはもう、二人が落としたものを拾う者はいなかった。




