第6話 何もしなくても与えられる朝
第6話 何もしなくても与えられる朝
エレナが離宮で迎えた最初の朝は、夜明け前に始まった。廊下から靴音が聞こえた途端、彼女は羽毛布団を跳ねのけ、寝台の脇へ立つ。薄い寝間着のまま頭を下げて待っていると、扉を開けた侍女が驚いて足を止めた。
「おはようございます、エレナ様。どうして、そのようなところに立っていらっしゃるのですか」
「申し訳ありません。寝過ごしてしまいました。すぐに暖炉の灰を捨てます」
「まだ朝の六時ですよ。灰は暖炉係が片づけますから、寝台へお戻りください」
若い侍女の名はリナといった。栗色の髪を白い布で覆い、濃紺の仕事着の上に糊のきいた前掛けを着けている。彼女が窓掛けを開くと、薄い朝日が入り、庭に咲いた黄色い冬薔薇と白く霜の降りた芝生が見えた。
エレナは寝台へ戻ったものの、布団には入らず端へ座った。卓上の花瓶には昨日の山茶花が生けられ、洗面台には湯気の立つ湯と、新しい石鹸が用意されている。乾燥させたローズマリーを練り込んだ石鹸の匂いを嗅ぐと、やけどした指の痛みまで少し和らぐ気がした。
「朝食をお持ちします。それまで、顔を洗ってお待ちください」
「私が取りに行きます。厨房の場所を教えてください」
「厨房へ来られると、料理長が自分の仕事を奪われたと言って泣きますよ」
「本当に泣くのですか」
「いいえ。あの人は玉葱を切るとき以外、滅多に泣きません」
リナが真面目な顔で答えたため、エレナは笑ってよいのか迷った。やがて侍女の口元が緩むと、エレナも小さく息を漏らす。笑ったあとに叱られないことが分からず、すぐに膝の上で両手を重ねた。
朝食には、柔らかな白パン、茸入りの卵焼き、温めた山羊乳、それに林檎の蜂蜜煮が運ばれてきた。白い皿から湯気が立ち、焼いた茸と溶かしバターの香りが部屋へ広がる。エレナは三人分ほどある食事を見て、椅子へ座らずに皿を持ち上げた。
「これは殿下の分ですね。卵焼きが冷める前に、お持ちしなくては」
「すべてエレナ様の朝食です」
「では、半分をあなたに。残りは厨房の方々へお返しください」
「私たちはもう食べました。料理長も、味見と称して卵焼きを二切れ食べています」
「私一人で、これほどいただく理由がありません」
エレナは卵焼きを切り分けようとしたが、右手にはまだ包帯が巻かれている。うまくナイフを動かせず、皿の上で金属が硬い音を立てた。リナはナイフを取り上げず、必要なら切りましょうかと尋ねた。
「お願いします。でも、半分だけで十分です」
「残しても叱られませんし、全部召し上がっても誰も困りません。今日のお腹と相談してください」
「食べる量を、私が決めるのですか」
「エレナ様のお腹ですから」
エレナは茸入りの卵焼きを一口食べた。刻んだ玉葱の甘みと胡椒の香りがあり、冷めた食事に慣れた舌には熱いほどだった。二口目を飲み込んでも誰も皿を取り上げなかったため、白パンへ林檎の蜜をつけ、ゆっくり半分まで食べた。
朝食後、リナは新しいドレスを三着運んできた。薄青色、若草色、落ち着いた葡萄色のドレスで、どれもエレナの体に合わせて仕立て直されている。彼女は美しい布へ指を触れることもできず、昨日まで着ていた深緑色のドレスを探した。
「昨日の服は、どこにありますか」
「破れた箇所を繕い、洗濯しています」
「それなら、乾くまで寝間着で過ごします。新しいドレスは、特別な日に取っておきたいのです」
「今日はどれを着てもよいのですよ」
「お茶をこぼしたら、台無しになります」
「洗えば済みます。それに、服は着るためにあるのでしょう?」
リナに言われても、エレナは選べなかった。美しい服を欲しがれば母を妬んだことになり、汚せば金遣いの荒い娘と叱られる。その声が耳の奥に残っているようで、三着を見比べるだけで指先が冷たくなった。
「では、私が一着選んでもよろしいですか」
「お願いします」
「今日は晴れましたから、空と同じ薄青色にしましょう。もし汚れたら、洗濯係が腕の見せどころだと喜びます」
リナは薄青色のドレスを広げた。襟には小さな白い花の刺繍があり、袖は包帯へ触れないよう少し広く作られている。エレナが着替えると、布はどこにも食い込まず、腕を上げても肩が引きつらなかった。
昼前になると、アルディスが離宮を訪れた。手にしていたのは豪華な花束ではなく、赤茶色の小さな鉢だった。丸い葉の間から、白い蕾が一つだけ顔を出している。
「これは、何という花ですか」
「冬菫だ。寒い場所でも育つが、水を与えすぎると根が弱るらしい」
「枯らしてしまったら、申し訳ありません」
「植物だから、枯れることもある。君が責任を感じる必要はないよ」
アルディスは窓辺へ鉢を置いたが、世話の仕方を細かく命じなかった。指で土に触れ、乾いていたら少し水を与えることだけを説明する。エレナは蕾へ顔を近づけ、湿った土と若い葉の青い匂いを嗅いだ。
「毎日、お水をあげなくてもよいのですか」
「世話をしたい日だけ、水を与えればいい。できない日は、リナに頼んでいい」
「自分の花なのに、人へ頼むのですか」
「一人で抱え込んで枯らすより、助けを求めたほうが花も喜ぶだろう」
エレナは鉢の下に受け皿を置き、窓からの光が当たる向きを確かめた。アルディスはその間、昨夜の裁判準備や両親の話を持ち出さなかった。卓上に残っていた白パンを見つけると、今日はどれくらい食べられたかではなく、蜂蜜煮と苺のジャムならどちらが好きかと尋ねた。
その夜、エレナは廊下を歩く靴音で目を覚ました。誰かが扉の前で立ち止まると、母が入ってくると思い、布団の中で体を固くした。扉が静かに叩かれ、夜番の侍女が声をかける。
「暖炉へ薪を足す時間です。入ってもよろしいですか」
「はい。すぐに起きます」
「起きなくて結構ですよ。少し音がしますので、お知らせしただけです」
侍女は薪を二本足し、火かき棒で熾火を整えた。寝台脇の水差しが空いていることに気づくと、新しい水を注いで部屋を出ていく。叱責も命令も聞こえず、廊下の足音は次の部屋へ遠ざかった。
翌日も、その次の日も、アルディスは政務の合間に離宮へ来た。忙しい日は十五分だけ冬菫を眺め、茶を一杯飲んで帰った。エレナがうまく話せない日には無理に会話を続けず、窓辺で王宮新聞を読みながら同じ部屋にいた。
五日目の午後、アルディスは厚い帳面を持って現れた。表紙には王宮備蓄管理部と書かれ、角は何度も使われて擦れている。エレナは帳面を見た途端に背筋を伸ばし、自分の包帯が外れた右手を膝の下へ隠した。
「仕事を命じにいらしたのですか」
「違う。意見を聞きに来た。疲れているなら、今日は開かなくてもいい」
「私の意見で、よろしいのですか」
「君の意見だから聞きたい。ただし、断ってもかまわない」
エレナは少し考えてから、帳面を受け取った。王宮の倉庫には、春まで食べきれないほどの豆と干し肉がある。一方、北西部の三つの村では夏の長雨で収穫が減り、冬越しの食料が不足していた。
「余っているのなら、村へ送ればよいのではありませんか」
「備蓄管理官は、規則に定められた非常時ではないと言っている。まだ餓死者が出ていないからだそうだ」
「人が亡くなってからでは、備蓄の意味がありません」
エレナの声が強くなり、自分でも驚いて口を閉じた。アルディスは咎めず、先を聞かせてほしいと頷く。彼女は卓へ帳面を広げ、村までの道と必要な荷馬車の数を計算し始めた。
「干し肉をそのまま送ると、塩抜きに多くの水と薪が必要です。井戸の浅い村には豆と挽き割り麦を多くし、干し肉は川沿いの村へ回してください」
「雪が降る前に運べるだろうか」
「大きな馬車で一度に運ぶのではなく、近隣の町まで運んで小さな荷車へ分けます。村からも人を出してもらえば、四日で届けられます」
「その方法なら、規則に触れずに動かせそうだ」
二人は日が傾くまで帳面へ向かった。リナが持ってきた焼き菓子は話の途中で冷め、表面の砂糖が卓へこぼれている。エレナは無意識に菓子を半分に割ってアルディスへ渡し、自分も残りを食べたあとで、誰の許可も得ずに食べたことへ気づいた。
王宮から食料を載せた荷馬車が出発したのは、その二日後だった。倉庫で眠っていた豆、挽き割り麦、干し肉、古い毛布が村ごとに分けられ、雪の積もる前にすべて届けられた。エレナは離宮の窓から出発を見送り、荷馬車が門を出るまで冬菫の鉢を抱えていた。
半月後、北西部の村から一通の礼状が届いた。紙には子どもの手形や、荷馬車と食料袋を描いた絵が添えられている。書記官が差し出した封筒には、王太子殿下ではなく、エレナ・クラウゼル様と記されていた。
「これは、私がいただいてもよいのですか」
「村長から、あなたへ宛てた手紙です」
「殿下のお名前がありません。食料を送ると決めたのは殿下なのに」
「方法を考えたのは君だ。私の名前まで書くかどうかは、村の人が決めることだよ」
エレナは封を開き、短い文章を何度も読み返した。食料のおかげで子どもたちが温かな粥を食べられたこと、毛布を重ねて眠れるようになったこと、春になったら村で育てた豆を届けたいことが書かれている。最後には、確かにエレナ様、ありがとうございましたと結ばれていた。
彼女は自分の名前を指でなぞった。燃え残った紙の名前とは違い、今度は最初から最後まで欠けていない。文字の上を二度、三度と往復していると、やけどの痕が残る指先に紙のざらつきが伝わった。
窓辺では、冬菫の白い蕾が開いていた。エレナは土へ指を当て、まだ湿っていることを確かめる。今日は水を与えなくてもよいと判断し、代わりに鉢を少しだけ日の当たる方角へ回した。
昼食には、村へ送ったものと同じ豆を使った温かなスープが出された。エレナは誰かへ取り分ける前に、自分の匙で一口飲む。豆は柔らかく煮え、月桂樹と塩の香りがした。
「おいしいです。私の分を用意してくださって、ありがとうございます」
リナは皿へ新しいパンを一枚添え、いつものことですよと答えた。エレナは礼状を卓の端へ置き、冷める前に二口目を食べる。何かを成し遂げなくても朝食は与えられ、うまく笑えなくても人は来てくれ、自分が作った仕事には自分の名前が残る。そのことをまだすべて信じられなくても、今日は一皿のスープを残さず食べることができた。




