第5話 仮面の下の母
第5話 仮面の下の母
王宮の温室では、何事もなかったかのように楽団が演奏を続けていた。白い菊を飾った長卓には焼き栗のケーキと柑橘入りの紅茶が並び、銀のポットから温かな湯気が上がっている。しかし、招待客たちは菓子へ手を伸ばさず、黄色いドレスのマリアンヌと第一王子アルディスを遠巻きに見つめていた。
マリアンヌは、背中に隠した両手へ力を込めた。エレナと違って自分の手にはやけどの痕もインク染みもない。けれど仮面をつけているのだから、微笑んでごまかせばよいと考え、わざと小さく首を傾けた。
「私の手をご覧になりたいなんて、殿下は思ったより大胆な方ですのね」
「手袋を外してください」
「せっかくの茶会ですのに、領地の倉庫や井戸の話ばかりでは退屈ですわ。もっと楽しいお話をいたしましょう」
「あなたが本当にエレナ嬢なら、答えられるはずです」
アルディスの声には、先ほどまでの穏やかさがなかった。近くにいた王宮侍従が合図を受け、温室の扉の前へ立つ。マリアンヌは出口を確かめたあと、扇を広げて口元を隠した。
「殿下は、私を疑っていらっしゃるのですか」
「あなたが示した身分証には、エレナ嬢は二十二歳と書かれている。だが、あなたの受け答えは先日の彼女とはまったく違う」
「今日は少し緊張しているだけですわ。殿下の前ですもの」
「では、もう一度尋ねます。冬の備蓄を村ごとに分けた理由は何ですか」
マリアンヌは、答えを探すように天井を見上げた。硝子の向こうには雨雲が広がり、細かな雨粒が屋根を流れている。彼女が知っている領地の倉庫といえば、古い家具や流行遅れのドレスをしまう場所だけだった。
「平民へ食べ物を与えれば、感謝されるからでしょう」
「違う。橋が流されたとき、一つの倉庫にしか食料がなければ、遠い村へ届けられないからだ」
「そんな細かいことは、使用人に任せればよいではありませんか」
「エレナ嬢は、そこで暮らす人々の顔を思い浮かべていた。あなたは領民を数としてすら見ていない」
招待客の間から低いざわめきが起きた。マリアンヌは自分へ向けられる視線に気づき、背筋を伸ばした。夜会やサロンで注目を集めることには慣れていたが、誰も彼女のドレスや若さを褒めようとしなかった。
「仮面を外してください。これはお願いではありません」
「嫌ですわ。今日の決まりは、仮面をつけたまま楽しむことでしょう?」
「王族の前で身分を偽った疑いがあります。従わないなら、侍女に外させます」
アルディスが手を上げると、二人の侍女がマリアンヌへ近づいた。彼女は触れられる前に後ずさりし、卓の端へ腰をぶつける。銀の匙が床へ落ち、澄んだ音を立てて転がった。
「無礼者! 私が誰か分かっているの?」
「それを確かめるために、仮面を外すのです」
マリアンヌは周囲を見回したが、助けようとする者はいなかった。薄紫の仮面をつけた公爵夫人も、親しくしていた子爵夫人も、目が合うと顔をそらす。彼女は唇を噛み、自分の手で白い羽根の仮面を外した。
「クラウゼル伯爵夫人……」
誰かが名前を口にすると、温室のざわめきが大きくなった。マリアンヌは乱れた髪を直し、仮面を卓の上へ置く。目元に塗った白粉が雨の湿気で崩れ、細かな皺の間へ入り込んでいた。
「親子なのですから、少し名前を借りただけですわ。大げさに騒ぐことではありません」
「招待状と身分証を、本人の許可なく持ち出したのですか」
「娘が体調を崩したので、母親の私が代わりに来て差し上げたのです。あの子は礼儀も知らないから、王家に恥をかかせると思いまして」
「エレナ嬢が体調を崩したのは、いつですか」
「今朝ですわ。急に具合が悪くなって……」
マリアンヌが話している途中で、温室の扉が開いた。雨に濡れた騎士が入り、長靴の泥を敷物へ落としながらアルディスの前へ進む。肩で息をしていたが、姿勢を整えると一礼した。
「ご報告いたします。エレナ・クラウゼル伯爵令嬢を、伯爵邸の屋根裏部屋で発見しました。扉には外から鍵がかけられており、ご本人は意識を失っていました」
「容体は?」
「医師によれば、眠り薬を飲まされた可能性が高いとのことです。部屋には割れた水差しがあり、助けを求めた形跡も確認しております」
アルディスは一度目を閉じ、息を整えた。手元に置かれた紅茶は、誰にも飲まれないまま冷めている。カップの縁には柑橘の皮が張りつき、温室を満たしていた甘い香りも薄くなっていた。
「エレナ嬢を離宮へ運び、王宮医師に診せてください。彼女の了承を得るまで、クラウゼル家の者を近づけてはなりません」
「承知いたしました」
「待ちなさい! 娘をどこへ連れていくつもりなの?」
マリアンヌは騎士の腕をつかもうとしたが、護衛に阻まれた。黄色いドレスの裾が踏まれ、縫いつけられていた真珠が一粒、床へ転がる。彼女は真珠を拾おうとして身をかがめたものの、アルディスの視線に気づいて手を止めた。
「エレナ嬢に薬を飲ませ、屋根裏へ閉じ込めたのは、あなたですか」
「少し休ませただけです。あの子は働きすぎていたのですもの」
「それなら、なぜ外から鍵をかけたのです」
「勝手に出歩くからよ。親が娘をしつけて、何が悪いの?」
「二十二歳の女性へ薬を飲ませて監禁することを、しつけとは呼びません」
マリアンヌは扇を床へ投げ、アルディスへ指を突きつけた。先ほどまで作っていた高い声は消え、屋敷でエレナを叱るときと同じ声が温室へ響いた。招待客の数人が息をのみ、幼い娘を連れた夫人は、その子を自分の後ろへ隠した。
「あの子は私の娘よ。娘のものは母親のものでしょう! 招待状も、ドレスも、あの子の時間も、すべて私が好きにしていいのよ!」
「今の言葉は、ここにいる全員が聞きました」
「私を陥れるつもりね。エレナが殿下へ嘘を吹き込んだのでしょう?」
「エレナ嬢は、目を覚ました直後まで、あなたをかばっていたそうです」
アルディスの言葉を聞いても、マリアンヌは口を閉じなかった。むしろ娘が自分を守るのは当然だと言い、床に落ちた真珠をようやく拾い上げる。指先で汚れを拭い、黄色いドレスのほつれた糸へ戻そうとした。
やがて温室の外から、さらに慌ただしい足音が聞こえた。仕事先から呼び戻されたベルトランドが、濡れた外套を従者へ預ける暇もなく入ってくる。黒い礼服の襟は曲がり、片方の靴には馬車の泥がついていた。
「殿下、何かの誤解でございます。妻がご迷惑をおかけしたようで」
「あなたは、夫人がエレナ嬢の名を使って王宮へ来たことを知っていましたか」
「いいえ。私は何も知りません。すべて妻が勝手にしたことです」
「あなた! 私に招待状を持っていけと言ったではありませんか!」
「そんなことは言っていない。私は仕事へ出ただけだ。お前の愚かな振る舞いに、私を巻き込むな」
マリアンヌが夫の袖をつかむと、ベルトランドは乱暴に振り払った。二人の間へ真珠が落ち、今度は卓の下まで転がっていく。つい先ほどまで娘の代わりに王子から選ばれると信じていた母は、床の真珠より先に夫へつかみかかった。
「エレナを閉じ込めたことも、本当に知らなかったのですか」
「知るはずがありません。家のことは妻へ任せております。私は領地と王国のため、毎日働いているのです」
「では、こちらをご覧ください」
アルディスが合図すると、王宮書記官が数枚の紙を運んできた。そこには、クラウゼル邸で働く者たちの証言が記されている。料理長、執事、侍女、下働きの少女が、それぞれ自分の見聞きしたことを話していた。
「料理長は、エレナ嬢が何日も満足な食事を与えられていないと、あなたへ三度訴えた。侍女は夫人が娘の衣装代を使い込んでいると報告した。さらに執事は、夫人がエレナ嬢の部屋から帳簿を持ち出した夜、あなたへ助けを求めている」
「使用人の言葉など、信用できません」
「あなた自身の言葉も記録されています。『夫人の機嫌を損ねるな』『家のことを仕事へ持ち込むな』『エレナに謝らせれば済む』と答えたそうですね」
ベルトランドは書類を奪うように受け取り、文字を目で追った。指先が震え、紙の端が小さく音を立てる。温室の中では楽団も演奏を止め、雨粒が硝子を打つ音だけが続いていた。
「知らなかったのではない。知ろうとしなかったのでもない」
アルディスはベルトランドへ一歩近づいた。ベルトランドは後ろへ下がり、妻の黄色いドレスの裾を踏む。マリアンヌが甲高い声を上げても、彼は謝ろうとしなかった。
「あなたはすべて知ったうえで、自分の仕事と立場を守るために、娘を妻へ差し出した」
「私は家族を養ってきました。金を渡し、屋敷を維持し、娘にも伯爵令嬢としての暮らしを与えたのです」
「食事と部屋を与えれば、何をしても許されると?」
「親には親の権利がございます」
「子どもは親の所有物ではありません」
ベルトランドが反論しようと口を開いたとき、王宮警護隊が二人を囲んだ。マリアンヌは自分の腕をつかんだ騎士へ、ドレスに皺がつくと叫ぶ。ベルトランドは王宮への功績を並べ、自分を拘束すれば領地経営が止まると訴えた。
「クラウゼル伯爵夫妻を、別々の部屋で拘束してください。王宮への虚偽申告、招待状の窃取、身分詐称、薬物の使用、監禁について調査を始めます」
「待ってください、殿下。夫婦であっても罪は別です。妻のしたことまで、私が責任を負う必要はありません」
「もちろん、罪は個別に調べる。だからこそ、あなたが娘の名で提出してきた領地報告書についても、詳しく確認させてもらいます」
ベルトランドの顔から血の気が引いた。彼は何も答えず、濡れた外套の襟を握る。マリアンヌは夫の変化に気づかないまま、自分は美しい伯爵夫人であり、こんな場所へ閉じ込められる人間ではないと叫び続けた。
二人が連れ出されたあと、温室には踏み荒らされた黄色い菊と、拾われなかった真珠が残った。王宮の使用人は冷えた紅茶を下げ、手つかずの栗菓子を孤児院へ届けるため箱へ詰め始める。ささやかな生活の仕事が再び動き出しても、母の代わりに床へ膝をつき、散らかったものを片づけるエレナの姿は、もうそこにはなかった。




