第4話 鍵のかかった部屋
第4話 鍵のかかった部屋
王宮茶会の朝、クラウゼル伯爵邸の窓は白い霧に包まれていた。庭では冬咲きの山茶花が赤い花を開き、濡れた石畳に何枚もの花びらが落ちている。エレナは夜明け前に起き、やけどした右手へ新しい布を巻いてから、借りていた濃紺の外套に洋服用の刷毛をかけた。
第一王子と同じ名を持つ青年は、次に会ったときに返せばよいと言っていた。今日の茶会へ行けば、もう一度会えるかもしれない。エレナはそう考えただけで落ち着かなくなり、外套の襟に刷毛を三度もかけ直した。
「お嬢様、お召し物はこちらでよろしいのですか」
侍女が寝台へ広げたのは、深緑色の古いドレスだった。灰色のものより状態はよいが、数年前の流行で、腰の位置が低く作られている。エレナは袖口の擦れを確かめ、これなら王宮の椅子を汚すこともないだろうと頷いた。
「これで十分です。庭の山茶花を一輪、髪に挿してもらえますか」
「もちろんです。赤い花なら、緑のドレスにもよく映えますよ」
「少し目立ちすぎるでしょうか」
エレナは鏡の前で髪をまとめてもらいながら、何度も扉を見た。母は茶会について何も話さなくなり、前日も一度も部屋から出てこなかった。その静けさがかえって気になったが、今朝まで騒ぎを起こさなかったのだから、諦めてくれたのだと思いたかった。
髪に山茶花を挿し終えた頃、別の侍女が銀盆を運んできた。白磁の茶器には温かな林檎茶が入り、隣の皿には小さな蜂蜜菓子が二つ載っている。母から身支度祝いにと言われたと聞き、エレナは目を見開いた。
「お母様が、私に?」
「はい。今日は冷えますから、温かいうちに召し上がるようにとのことです」
「そうですか。では、あとでお礼を申し上げなければなりませんね」
林檎茶からは甘酸っぱい湯気と、ほのかな香草の匂いが立っていた。いつもより苦みを感じたものの、エレナは母の気遣いを疑いたくなかった。蜂蜜菓子を一つ食べ、茶を半分ほど飲んだところで、廊下からマリアンヌの声が聞こえてきた。
「エレナ、招待状の確認をするわ。王宮の身分証も持って、こちらへ来なさい」
エレナは濃紺の外套を腕へ掛け、招待状と身分証を持って廊下へ出た。マリアンヌは薄桃色の部屋着をまとい、化粧もせずに階段の下で待っている。王宮へ行く支度をしていない母を見て、エレナは胸の内で息をついた。
「お母様。先日は、ご心配をおかけして申し訳ございませんでした」
「招待状を見せなさい。お前が日時を間違えていないか、確かめてあげるわ」
「今日の午後二時からです。仮面を着けて楽しむ秋の茶会と書かれています」
「分かっているわ。身分証もこちらへ寄越しなさい」
エレナが二つを差し出すと、マリアンヌは素早く自分の後ろへ隠した。取り返そうとしたエレナの足元が急に揺れる。手すりにつかまろうとしても指へ力が入らず、腕に掛けていた外套が床へ落ちた。
「お母様、お茶に何を入れたのですか」
「眠るためのお薬よ。あなたは働きすぎているから、今日はゆっくり休みなさい」
「招待状を返してください。あれは私に届いたものです」
「親に向かって、私のものを返せですって?」
マリアンヌは娘の腕をつかみ、奥の階段へ引いていった。エレナは手すりを握ろうとしたが、指先が木の表面を滑る。裏階段の先には使用人もほとんど近づかない屋根裏部屋があり、中には壊れた家具や季節外れの敷物が積まれていた。
「私こそ、殿下に見いだされるべきなのよ。あなたのような何の取り柄もない娘ではないわ」
「名前を偽れば、すぐに分かります」
「仮面を着ける茶会なのだから、顔は見えないわ。あなたは私に似ているもの。殿下だって気づかないでしょう」
「私はお母様の代わりではありません。お母様も、私の代わりにはなれません」
エレナがそう言うと、マリアンヌの爪が腕へ食い込んだ。母は彼女を屋根裏部屋へ押し込み、外から鍵をかける。足音が階段を下りていく頃には、エレナは立っていられず、埃の積もった床へ膝をついていた。
一方、マリアンヌは自室へ戻ると、侍女を全員廊下へ出した。用意していた淡い黄色のドレスに着替え、エレナの身分証を小さな鞄へ入れる。髪は娘と同じ形にまとめ、目元を白い羽根の仮面で覆った。
「やはり、黄色のほうが私には似合うわ」
鏡の前で一回転すると、長い裾が化粧台の脚へ引っかかった。置かれていた香油の瓶が倒れ、甘い百合の匂いが部屋いっぱいに広がる。マリアンヌは割れなかったことだけを確かめ、床へこぼれた香油を拭かずに部屋を出た。
王宮の温室には、秋の花と菓子が並べられていた。鉢植えの菊や竜胆の間を招待客が歩き、色とりどりの仮面越しに会話を楽しんでいる。焼き栗を混ぜたケーキと、柑橘の皮を浮かべた紅茶の香りが、硝子張りの室内へ漂っていた。
アルディスは濃い青色の礼服を着て、招待客を迎えていた。肩には王家の金糸飾りがあり、夜会で身分を伏せていたときとは違う姿をしている。黄色いドレスの女性がエレナの身分証を示すと、彼は手元の紙と女性を見比べた。
「エレナ・クラウゼル伯爵令嬢ですね」
「はい、殿下。本日は私のために、このような会を開いてくださり光栄ですわ」
「あなた一人のためではありません。領地経営に携わる令嬢や夫人を招いた茶会です」
「ええ、もちろん存じております。少し冗談を申しただけですの」
マリアンヌは若々しく見えるよう声を高くし、扇で口元を隠した。アルディスは仮面の奥の目を見たあと、女性の手へ視線を移す。白い手袋は新しく、長時間ペンを握る者にできる指のへこみも見当たらなかった。
「先日は、興味深い話を聞かせてもらいました。クラウゼル領の備蓄倉庫について、もう少し尋ねてもよろしいですか」
「そのような細かな仕事は、使用人に任せていますの」
「村ごとの配分を決める際、井戸までの距離を調べた理由は?」
「井戸ですか? 水はどこでも同じでしょう」
「倉庫の鍵は、誰が持っていますか」
「倉庫番に決まっていますわ。あのような者たちは、きちんと働かせなければ怠けますもの」
アルディスの表情から微笑みが消えた。目の前の女性は、エレナが作った制度の仕組みを一つも知らない。それだけでなく、領民について話す声には、彼女が見せた気遣いがまったくなかった。
「仮面を外してください」
「まあ、まだ茶会は始まったばかりですわ」
「エレナ嬢の右手には、先日負ったやけどがあるはずです。その手袋を外して見せてください」
マリアンヌは両手を背中へ隠し、一歩後ろへ下がった。アルディスは控えていた騎士団長へ目を向ける。騎士団長は命令を聞く前に頷き、数名の部下を連れて温室から走り出した。
屋根裏部屋では、エレナが扉を何度も叩いていた。眠り薬のせいで腕は重く、声を出しても階下まで届かない。部屋には割れた椅子、片方だけの靴、虫に食われた冬用の絨毯が積み重なり、乾いた埃の匂いが喉へ張りついた。
「誰か、いませんか。お願いです。開けてください」
返事の代わりに、屋根を打つ雨の音が強くなった。エレナは冷たい床へ座り込み、壁際に置かれていた水差しへ手を伸ばす。指先が取っ手に届いたものの、持ち上げる力がなく、水差しは床へ落ちて割れた。
割れた陶器の音に驚き、階下にいた若い下働きの少女が天井を見上げた。屋敷の者たちはマリアンヌから、エレナは体調が悪く自室で眠っていると聞かされている。少女が不審に思って裏階段へ向かったとき、正面玄関を激しく叩く音が響いた。
「王太子直属騎士団である。エレナ・クラウゼル伯爵令嬢の安否を確認する」
騎士たちは執事の案内を待たず、屋敷の中へ入った。下働きの少女が勇気を出して屋根裏を指さすと、騎士団長はすぐに階段を駆け上がる。鍵のかかった扉の向こうから返事がないことを確かめ、二人の騎士へ命じた。
「扉を破れ。中に人がいる」
厚い木の扉が大きな音を立てて内側へ倒れた。差し込んだ明かりの先には、割れた水差しと、濡れた床が見える。そのそばで、緑色のドレスを着たエレナが、片手を伸ばしたまま意識を失っていた。
エレナが次に目を開けたとき、白い天井が見えた。寝台には柔らかな羽毛布団が掛けられ、枕元の花瓶には赤い山茶花が一輪生けられている。窓の外から雨上がりの土の匂いが入り、暖炉では小さな薪が静かに燃えていた。
「気がついたか」
声のほうへ顔を向けると、夜会で外套を貸してくれた青年が椅子から立ち上がった。今日は王家の紋章を胸につけている。エレナは彼が第一王子アルディス本人だったと気づき、起き上がろうとした。
「殿下……。お茶会に行けなくて、申し訳ありません」
「動かなくていい。医師から、薬が抜けるまで休むように言われている」
「せっかく招待してくださったのに、私がしっかりしていなかったから……」
「謝る必要はない。悪いのは、君を閉じ込めた者だ」
侍女が運んできた盆には、湯気の立つ野菜のスープと、柔らかい白パンが載っていた。エレナは食べてよいのか分からず、両手を布団の上に置いたまま盆を見つめる。アルディスは無理に勧めず、自分用の茶へ蜂蜜を入れて匙でゆっくりとかき混ぜた。
「母は、どこにいるのですか」
「王宮で身柄を確保している。君の名を使って茶会へ入り込んだことも、君に薬を飲ませたことも、調査する」
「お母様を怒らせたのは、私です。私が招待されたことを隠していれば……」
「エレナ。君は招待状を受け取っただけだ。君が自分を罰する理由はない」
アルディスは寝台のそばへ移ったが、エレナの肩へ勝手に触れなかった。代わりに、手のひらを上へ向けて差し出す。その手は近くにあったが、エレナが取らなければ届かない距離に置かれていた。
「君が望むなら、ここから連れ出す。離宮で保護を受けることも、別の場所を探すこともできる。だが、決めるのは君だ」
「私が、決めてもよいのですか」
「君の人生だからね。誰にも、君の代わりに決める権利はない」
エレナは布団の下で足の指を縮めた。屋敷へ戻れば、母は自分を責め、父は家族の問題を大きくしたと叱るだろう。それでも今までは、帰らないという選択肢があることさえ考えたことがなかった。
窓辺の山茶花から、赤い花びらが一枚落ちた。寝台脇の椅子には、あの日の濃紺の外套が畳まれている。その上には、エレナが内ポケットへしまった焼け残りの紙も置かれていた。
エレナは布団の中から手を出した。やけどの布が巻かれた指は震え、アルディスの手へ届くまでに何度も止まる。それでも彼が急かさずに待っていると、エレナは自分からその手を握った。
「戻りたくありません」
声にした途端、呼吸が大きく乱れた。けれどアルディスは手を離さず、よく言えたとも、すぐに忘れろとも言わなかった。ただ、彼女が息を整えるまで同じ場所に座っていた。
エレナは冷めないうちにと勧められ、野菜のスープを一口飲んだ。細かく煮込まれた人参と蕪は舌で潰せるほど柔らかく、塩味の奥に鶏の出汁があった。誰かの許可を待たず、自分のために用意された食事を口へ運びながら、エレナはもう一度、今度は先ほどよりはっきりと言った。
「私は、あの家には戻りません」




