第3話 燃やされた名前
第3話 燃やされた名前
夜会から三日後の朝、クラウゼル伯爵邸の庭には白い霜が降りていた。花壇のダリアは花びらの先を茶色くし、庭師が冬越しのために球根を掘り起こしている。エレナは食堂の隅で固い黒パンを温かな山羊乳に浸しながら、昨夜届いた領地の報告書を読んでいた。
「北の村では、もう初雪が降ったそうです」
エレナが向かいの父へ話しかけても、ベルトランドは新聞から顔を上げなかった。食卓には半熟卵と焼いた腸詰めも並んでいるが、父は卵の黄身を残し、母は薄く切った林檎しか口にしない。毎朝捨てられる食べ物を思い、エレナは自分の黒パンを小さくちぎって最後まで食べた。
「お母様。去年の青い毛布を、北の村へ送ってもよろしいでしょうか」
「駄目よ。あれは来月の慈善会で配るの」
「慈善会へ持っていくのは、新しい毛布ではありませんでしたか」
「古い物を渡したと知られなければ同じでしょう。刺繍だけ新しくしておきなさい」
マリアンヌはそう言って、林檎を一切れ皿へ戻した。彼女は夜会で褒められた青いドレスを朝食にも着ており、胸元にはサファイアのブローチが輝いている。エレナが北の村の子どもたちを思い浮かべたとき、玄関から慌ただしい足音が近づいてきた。
執事が銀盆に一通の封筒を載せて食堂へ入った。厚い白紙には金色の王家紋章が押され、封蝋にも獅子と百合の印が刻まれている。マリアンヌは椅子を鳴らして立ち上がり、林檎の載った皿を押しのけた。
「王宮からですって? 早くこちらへ持ってきなさい」
「しかし、奥様。こちらは……」
「伯爵家の女主人は私よ。王家からの手紙なら、私が受け取るのが当然でしょう」
マリアンヌは執事の返事を待たず、封筒を奪い取った。頬を上気させながら封蝋へ指をかけ、昨日塗り直した赤い爪で紙を裂いていく。ベルトランドもようやく新聞を畳み、王家から何の連絡だろうと身を乗り出した。
「きっと、あの方が私を覚えていらしたのね」
「どなたのことだ」
「第一王子殿下に決まっているでしょう。夜会で何度も私のほうをご覧になっていたもの」
「殿下は会場全体をご覧になっていただけではないのか」
「あなたは昔から、妻を褒めることができない人ね」
マリアンヌは唇を尖らせながら、二つ折りの便箋を広げた。次の瞬間、彼女の指が止まり、紙の端に赤い爪が食い込む。王宮茶会の招待状には、はっきりとエレナ・クラウゼル伯爵令嬢と記されていた。
「何かの間違いですわ」
母の声が低くなり、食堂の空気が変わった。エレナは膝の上に置いた手を握り、昨夜の外套を思い出す。あの青年から借りた濃紺の外套は汚れを落とし、丁寧に畳んで自室の椅子へ置いてあった。
「誰の招待状なのですか」
「あなたには関係ないわ」
「ですが、今、私の名前が見えました」
エレナが立ち上がると、椅子の脚が床をこすった。マリアンヌは招待状を背中へ隠し、娘を上から下まで眺める。灰色の普段着と、飾りのない茶色い靴を見たあと、彼女は鼻で短く笑った。
「王宮が、こんな地味な娘を招くはずがないでしょう。書記官が名前を書き間違えたのよ」
「それなら、王宮へ確認したほうがよろしいのではありませんか」
「私に指図するつもり?」
母の声が食堂へ響き、執事と給仕たちは一斉に目を伏せた。ベルトランドは面倒そうに眉間を押さえ、新聞を再び広げる。エレナは誰かが口を開いてくれるのを待ったが、暖炉で薪がはぜる音しか聞こえなかった。
マリアンヌは招待状を持ったまま食堂を出ると、自室の化粧台へ向かった。エレナが後を追うと、母は衣装箱から赤、黄色、薄紫のドレスを引き出し、寝台へ次々に放り投げる。床に落ちた絹を侍女が拾い、そのたびに香油と防虫用の乾燥ラベンダーの匂いが立った。
「お茶会なら、この黄色がいいかしら。殿下は明るい女性がお好きなはずよ」
「お母様。招待されたのは、私ではないのですか」
「あなたは黙っていなさい。私が王宮へ行けば、クラウゼル家のためにもなるでしょう」
「でも、招待状には私の名前が書かれていました」
その言葉を聞いたマリアンヌは、黄色いドレスを床へ落とした。鏡に映っていた笑顔が消え、握っていた招待状が大きく震える。エレナが一歩下がるより早く、母の手が髪をつかんだ。
「私に隠れて、何をしたの?」
「何もしておりません。私は夜会でも、テラスにいただけです」
「殿下を誘惑したのでしょう。私を外へ追いやって、自分だけ王家へ取り入るつもりね」
「違います。あの方とは、領地の備蓄についてお話ししただけです」
「やっぱり会っていたのね!」
母が髪を引く力を強めたため、エレナの首が後ろへ曲がった。頭皮に鋭い痛みが走り、飾りのない髪留めが床へ落ちる。侍女が止めようと手を伸ばしたが、マリアンヌに睨まれると、その手を胸元へ引き戻した。
「私の若さも美しさも、全部あなたが盗もうとしているのね。娘だから置いてあげたのに、恩を仇で返すなんて」
「盗んでいません。私は、お母様のものを欲しいと思ったことなどありません」
「嘘よ。昔から私の真似ばかりしていたでしょう」
エレナは幼い頃、母と同じ桃色のリボンを欲しがった日のことを思い出した。母は笑いながら、地味な子には似合わないとリボンを暖炉へ捨てた。その日からエレナは、母と同じ色を選ばないようにしていた。
マリアンヌは髪から手を離すと、廊下へ飛び出した。向かった先は、エレナの小さな部屋だった。机の引き出しを開け、中に積まれていた帳簿や勉強帳を床へ投げ出す。
「お母様、やめてください。それは領地に必要な記録です」
「こんなものがあるから、あなたは自分を賢いと勘違いするのよ」
「冬の食料配分が書いてあります。なくなれば、村へ送る量が分からなくなります」
マリアンヌは帳簿を抱え、廊下の暖炉へ向かった。そこには昨夜から残った熾火が赤く光り、新しく足された薪から乾いた煙が上がっている。エレナが腕をつかもうとすると、母は肩で彼女を突き飛ばした。
最初の帳簿が炎の中へ落ち、革の表紙が黒く縮んだ。続いて、十歳の頃から書きためた勉強帳、村ごとの収穫記録、領民から届いた手紙が投げ込まれる。紙の焼ける焦げた匂いが広がり、灰が煙突へ吸い込まれていった。
「やめてください! それだけは返してください!」
「王子に見せて褒めてもらうつもりだったのでしょう。こんな汚い紙があるからいけないのよ」
「違います。私にくださった、大切な手紙なのです」
エレナは暖炉の前へ膝をつき、炎の中へ手を伸ばした。領民の子どもが書いた感謝状の端をつかんだ瞬間、火が指先へ移る。焼ける痛みに息をのみながらも、彼女は手紙を床へ引き出した。
騒ぎを聞いたベルトランドが廊下へ現れた。エレナは赤くなった指を胸元へ抱き、父のもとへ駆け寄る。これほどのことを目の前で見れば、今度こそ父は止めてくれると思った。
「お父様、助けてください。お母様が帳簿を燃やしています」
「何を騒いでいる。使用人にまで聞こえているぞ」
「領地の記録も、村からいただいた手紙も燃やされました。私が何を言っても、お母様は聞いてくださいません」
ベルトランドは暖炉の前に散らばった灰を見たが、妻を叱らなかった。代わりに懐から金貨の袋を取り出し、マリアンヌの手へ握らせる。袋の中で硬い金属音が鳴ると、母の呼吸が少しずつ静まった。
「これで新しいドレスを買えばいい。エレナ、お前から母さんに謝りなさい」
「どうして、私が謝るのですか」
「お前が王子殿下の前で出しゃばったから、母さんが傷ついたのだろう。家族なら、そのくらい察しなさい」
「お父様は、私の手紙が燃えても構わないのですか」
父は答えず、明日の会議に使う書類は無事なのかと尋ねた。エレナが首を振ると、今夜中に作り直せと命じ、自分の書斎へ戻っていく。マリアンヌも金貨の袋を胸へ抱き、侍女を連れてドレスを選び直しに行った。
夜になっても、廊下には焦げた紙の匂いが残っていた。エレナは水で冷やした指に布を巻き、暖炉の前へ座っている。夕食として置かれた蕪のスープはすっかり冷え、表面に細かな脂が浮いていた。
燃え残った紙を一枚ずつ拾うと、端だけ残った収穫表や、半分になった手紙が見つかった。窓辺には、夜会から持ち帰った濃紺の外套が畳んである。その上には庭師が置いてくれた一輪の白い秋薔薇があり、花びらの先が少し乾いていた。
エレナは、床に落ちていた小さな紙片を拾った。焦げた縁の内側に、領民の子どもが懸命に書いた「エレナさま」の文字だけが残っている。煤で黒くなった自分の名前を指でなぞると、やけどした皮膚が脈を打った。
「私がもっと我慢すれば、よかったのかしら」
いつものように自分へ問いかけたが、今夜はすぐに頷けなかった。どれほど役に立っても、母は仕事を燃やし、父は名前を奪う。愛してもらうために続けてきたことが、本当に家族を愛することなのか、エレナには分からなくなっていた。
もう、愛されようとすることをやめたい。そう思った途端、胸の奥へ冷たい風が入り込んだように息が浅くなった。それでも屋敷を出れば、食べ物を買う方法も、泊まる場所を借りる方法も、誰を頼ればよいのかも分からない。
エレナは焼け残った自分の名前を、アルディスの外套の内ポケットへしまった。そして冷えた蕪のスープを一口飲み、火傷した手で新しい紙を広げる。父に命じられた帳簿を書き直しながら、今度は表紙の裏側に、小さく自分の名前を記した。




