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第2話 社交界の隅に届いた外套

第2話 社交界の隅に届いた外套


王宮で秋の夜会が開かれる日、クラウゼル伯爵家には朝から仕立屋が出入りしていた。マリアンヌは鏡の前に立ち、青い絹のドレスを着たまま何度も腰をひねっている。銀糸で刺繍された蔦の間には小さな水晶が縫いつけられ、動くたびに窓から入る光を反射した。床には切り取られた糸や薄紙が散らばり、化粧台からは薔薇の香油と白粉の匂いが漂っていた。


「胸元が寂しいわ。ここにも宝石を足せないの?」


マリアンヌが不満そうに尋ねると、仕立屋は額の汗を布で拭った。これ以上飾りを増やせば布が重さに耐えられないと説明するが、マリアンヌは聞こうとしない。エレナは母の機嫌が悪くなる前に、化粧台からサファイアのブローチを持ってきた。


「こちらをお使いになれば、胸元が華やかになると思います」


「最初から用意しておきなさい。私が何色のドレスを着るか、知っていたでしょう」


「申し訳ございません、お母様。すぐにつけます」


エレナはブローチの留め金を外した。指先には昨日の帳簿仕事でついた黒いインクが薄く残り、爪の脇は冷たい水で洗濯をしたため赤くひび割れている。母のドレスを汚さないよう、ハンカチで何度も指を拭いてからブローチを留めた。


今夜のエレナが着るのは、前回と同じ灰色のドレスだった。袖のほつれは自分で繕ったが、縫い目の一部がわずかに曲がっている。侍女が髪に庭の白い秋薔薇を挿そうとすると、マリアンヌが鏡越しに手を振った。


「その花は私につけてちょうだい。この子には必要ないわ」


「ですが、奥様のお髪には、すでに銀細工の花飾りがございます」


「なら、花瓶に戻しなさい。エレナが飾れば、花まで地味に見えてしまうもの」


侍女は白薔薇を窓辺の花瓶へ戻した。エレナは気にしていないように微笑み、母の手袋と扇を布袋へ入れる。朝から何も食べていなかったが、食堂へ寄れば母を待たせるため、厨房でもらった小さな干し葡萄を二粒だけ口に入れた。


王宮の大広間には、幾つもの魔法灯が輝いていた。磨き上げられた床には貴族たちの色鮮やかな衣装が映り、楽団が奏でる軽快な曲に合わせて裾が揺れている。長い卓には鴨肉の香草焼き、茸を詰めた小さなパイ、蜂蜜で煮た梨が並び、温かな香りが広間を満たしていた。


「見て、あちらに侯爵夫人がいるわ。私の新しいドレスを見せてこなくては」


マリアンヌはエレナへ荷物を押しつけると、人々の輪へ入っていった。すぐに夫人たちから歓声が上がり、青いドレスを褒める声が聞こえてくる。エレナは布袋二つと母の毛皮の肩掛けを抱え、柱の横へ下がった。


しばらくすると、若い給仕が飲み物を勧めに来た。エレナは母の荷物から手を離せず、首を振って断る。給仕は一度立ち去ったものの、やがて水の入った小さな杯を持って戻ってきた。


「ここへ置いておきます。喉が渇いたら、どうぞ」


「ありがとうございます。でも、私にはもったいないので」


「水は王宮でも水ですよ。飲まないほうが、もったいないです」


給仕はそう言って笑い、次の客のもとへ向かった。エレナは誰も見ていない間に杯を手に取り、少しずつ水を飲んだ。冷たい水が乾いた喉を通ると、朝からこわばっていた肩がわずかに下がった。


やがてマリアンヌが戻り、毛皮の肩掛けを手に取った。広間は暖かいのに、肩を見せるため羽織らず、エレナへ持たせたまま次の輪へ向かおうとする。その途中、知り合いの男爵に呼び止められると、マリアンヌは娘を振り返った。


「エレナ、荷物が邪魔だからテラスで待っていなさい。私が呼ぶまで動いては駄目よ」


「外は冷えていますが、どれくらいお待ちすればよろしいでしょうか」


「そんなことまで私に決めさせるの? 本当に気が利かない子ね。必要になれば呼ぶわ」


エレナは頭を下げ、硝子扉からテラスへ出た。夜風が灰色のドレスを通り抜け、腕に細かな鳥肌が立つ。庭には白と紫の秋明菊が揺れ、濡れた石畳から冷たい土の匂いが立ち上っていた。


遠くでは、夜会の明かりを受けた噴水が銀色に光っている。エレナは母の荷物を長椅子へ置き、毛皮の肩掛けには触れないよう隣へ座った。それは母の物であり、勝手に使えば汚したと叱られる。


広間では新しい曲が始まり、扉が開くたびに楽器の音と笑い声が流れてきた。給仕が運ぶ温かなスープの匂いも一緒に届き、エレナの腹が小さく鳴る。彼女は聞かれなかったことを確かめ、膝の上で両手を組んだ。


「その格好では風邪をひく」


背後から声をかけられ、エレナは慌てて立ち上がった。深緑色の礼服を着た青年が、扉のそばに立っている。金糸の肩章も勲章もつけていなかったため、身分までは分からなかったが、整えられた黒髪と落ち着いた立ち姿から、王宮に仕える貴族だと思われた。


「申し訳ございません。すぐに場所を移ります」


「追い出そうとしたのではない。君が寒そうだから声をかけた」


「私は大丈夫です。母を待っているだけですから」


青年はエレナの肩に、自分の濃紺の外套をかけた。厚い毛織物には外気の冷たさが残っていたが、内側には青年の体温がこもっている。かすかに杉と革の匂いがして、エレナは借りてよいものか迷いながら襟元を押さえた。


「ですが、あなた様がお寒くなります」


「私は食事もしたし、温かい茶も飲んだ。今夜、広間で蜂蜜入りの栗菓子を三つも食べたから、少し涼しいくらいでちょうどいい」


「三つも召し上がったのですか」


「料理長には内緒にしてくれ。皿へ二つしか出していないと言い張っているから」


青年の声があまりに真剣だったため、エレナの口元がわずかに緩んだ。彼女が笑ったことに気づいた青年も、つられるように目を細める。エレナは慌てて表情を戻し、外套を汚さないよう両手を布の上から離した。


青年は隣の長椅子へ腰を下ろした。エレナにも座るよう勧め、自分の名前をアルディスとだけ名乗る。第一王子と同じ名だと気づいたものの、王族が勲章も護衛もつけずに一人で歩くはずはないため、エレナは同名の貴族だと思った。


「クラウゼル伯爵家の方ですね」


「はい。長女のエレナと申します」


「では、今年の凶作でもクラウゼル領で餓死者が出なかったことを知っているだろう。備蓄制度を改めた人物は、随分と優秀らしい」


エレナは膝の上へ視線を落とした。外套の隙間から出た指先には、洗っても落ちなかったインクの染みが残っている。青年はそこへ一度目を向けたが、荒れた手を気の毒がるような顔はしなかった。


「父の功績です。父は領地のため、毎日遅くまで働いております」


「報告書には、古い倉庫を地区ごとに分け、村人自身が在庫を確認する仕組みにしたと書かれていた。一か所で管理するより手間がかかるのに、なぜそうしたのだろう」


「大雨で橋が流された場合、中央倉庫まで取りに行けなくなるからです」


答えてから、エレナは口元を押さえた。余計なことを話さないよう母に命じられていたのを思い出す。しかし青年は責めるどころか、さらに質問を続けた。


「各村の配分は、何を基準にしている?」


「前年の消費量だけでは足りません。家族の人数と年齢、作付面積、井戸までの距離も調べます。幼い子どもや高齢者が多い村には、火を長く使わなくてよい挽き割り麦を多めに配りました」


「倉庫番による横流しは?」


「鍵を二つにしました。村長と、住民から選ばれた管理人が一つずつ持ちます。月末には子どもでも読めるよう、袋の数を絵にした札を戸口へ掲げます」


青年は途中で笑ったり、疑ったりしなかった。エレナが説明を終えるまで黙って耳を傾け、ときおり確かめるように頷いている。その様子を見ているうちに、エレナは帳簿を父へ渡すときより多くのことを話していた。


「す、すみません。つまらない話を長々としてしまいました」


「つまらなくない。報告書に書かれていなかった部分まで、よく分かった」


「父からお聞きになれば、もっと上手に説明していただけます」


「先月、伯爵に同じ質問をした。答えは『部下に任せている』だったよ」


エレナの指が外套の端をつかんだ。風に揺れた秋明菊の花びらが一枚、彼女の靴のそばへ落ちる。青年はインクの染みがついた指と、何度も繕われた袖を見てから、静かに口を開いた。


「君が作った制度なのだね」


エレナは否定しようとしたが、声が出なかった。自分がしたと認めれば、父の功績を奪うことになる。けれど、違うと言えば、初めて見つけてもらった自分の仕事を自分で消すことになる。


「私一人の力ではありません。村の人たちに教えてもらいながら、帳簿を作り直しただけです」


「人の話を聞き、役立つ形にするのは、誰にでもできる仕事ではない」


「でも、お父様は、帳簿など書けて当然だと……」


「少なくとも私は、君の仕事に助けられた人々を知っている。君の手は、誰よりも尊い仕事をしているよ」


アルディスは、エレナの手に触れなかった。ただ、荒れた指先から目をそらさず、彼女自身へ伝えるように言った。エレナは外套の襟元へ顔を近づけ、杉と革の匂いを吸い込んだ。


広間から、マリアンヌが娘を呼ぶ甲高い声が聞こえた。エレナが立ち上がると、外套が肩から滑りそうになる。返そうとした彼女を、アルディスは片手で止めた。


「そのまま着ていくといい。次に会ったとき、返してくれればいいから」


「次があるのでしょうか」


「ある。君に聞きたい話が、まだたくさんある」


エレナは外套の端を握ったまま、何度も頭を下げた。広間へ戻ると、マリアンヌは見知らぬ男から借りた物など外しなさいと眉を吊り上げたが、エレナはすぐには脱がなかった。厚い布の内側には、仕事をした自分の手を初めて認めてくれた人の温もりが、まだ残っていた。


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