第1話 完璧な母と、名前のない娘
第1話 完璧な母と、名前のない娘
王都の秋は、金木犀の香りとともに訪れる。クラウゼル伯爵家の馬車がサロンの前へ着くと、マリアンヌは鏡をのぞき込み、蜂蜜色の髪に挿した真珠を指先で直した。淡い桃色のドレスは胸元に細かな薔薇の刺繍が施され、腰から広がる絹には銀糸が織り込まれている。向かいに座るエレナは、三年前に母から与えられた灰色のドレスの袖を引き下げ、ほつれた縫い目を隠した。
「背筋を伸ばしなさい。あなたがみすぼらしいと、私まで貧しく見えるでしょう」
マリアンヌはそう言うと、香油の瓶を取り出して耳の後ろへ一滴つけた。甘い百合の匂いが狭い馬車の中に広がり、エレナは鼻の奥がむずむずしたが、くしゃみを飲み込んだ。母を怒らせれば、帰宅するまで何度も同じことを言われると分かっていた。
「申し訳ございません、お母様。気をつけます」
「それから、今日は余計なことを話さないで。あなたは気が利かないのだから、黙って私の後ろにいればいいのよ」
エレナは膝の上に置いた布袋を確かめた。中には母の扇、香水、化粧粉、替えの手袋、靴擦れ用の柔らかな布が入っている。屋敷を出る直前、料理長が焼きたての胡桃パンを一つ持たせてくれたが、母に「ドレスがきつくなる」と取り上げられていた。
サロンの庭には、赤や橙色のダリアが丸い花を咲かせていた。窓から入る風には湿った土の匂いが混じり、銀盆に並べられた焼き菓子からは焦がしバターの香りが漂っている。エレナは朝から薄い麦粥しか食べておらず、腹が小さく鳴りそうになるたびに布袋を抱き締めた。
「まあ、マリアンヌ様。今日もお若くていらっしゃること」
青い羽根飾りをつけた子爵夫人が駆け寄ると、マリアンヌは少女のように頬へ手を当てた。笑うたび、首元のダイヤモンドが窓から差し込む光を跳ね返す。その首飾りは先月、エレナの冬用ドレスを仕立てるために用意されていた金で買ったものだった。
「そんなことをおっしゃって。もう娘が社交界へ出る年なのですから、私などすっかり年寄りですわ」
「とても信じられませんわ。お二人で並ぶと、姉妹のようですもの」
子爵夫人がエレナへ顔を向けたため、エレナは慌てて頭を下げた。灰色の裾が靴先に引っかかり、よろめいた拍子に布袋から扇が落ちる。床へ転がった扇を拾うより早く、マリアンヌの笑い声が響いた。
「この子は本当に不器用で困りますの。何を持たせても落とすし、服を買ってあげてもすぐ駄目にしてしまうのですよ」
「まあ、それは大変ですこと」
「先月もドレス代を渡したのに、何に使ったのか新しいものを用意していなくて。お金の管理もできないのです」
エレナは扇を拾い、布で持ち手の埃を拭った。ドレス代の入った封筒を母に求められた日のことを思い出したが、口を挟めば母の話を疑わせることになる。母に恥をかかせる娘は恩知らずだと、幼い頃から何度も教えられてきた。
「申し訳ございません。私が悪いのです」
「ね、いつもこうなのです。謝れば済むと思っているのですよ」
周囲の婦人たちが同情するようにマリアンヌを囲み、エレナは一歩後ろへ下がった。窓辺には薄紫の竜胆が生けられていたが、花瓶の水は少し濁り、一本だけ首を垂れている。誰にも見られていないことを確かめてから水差しを借り、エレナは花瓶の水を静かに取り替えた。
午後になると、マリアンヌの新しい靴が踵に当たり始めた。彼女はソファに腰を下ろし、扇でエレナを呼びつける。エレナは人目を避けて母の足元に膝をつき、布袋から柔らかな布と軟膏を取り出した。
「もっと丁寧になさい。傷が残ったら、明日の舞踏会で履けないでしょう」
「はい。少し冷たいですが、我慢してください」
「誰のせいで冷たい軟膏を使うことになったと思っているの。出かける前に、あなたが靴を柔らかくしておけばよかったのよ」
エレナは謝りながら、赤くなった踵へ軟膏を塗った。母は菓子皿から林檎のタルトを取り、フォークで薄い林檎を一枚ずつ剥がして食べている。食べきれずに残された生地の端を見ても、エレナは手を伸ばさなかった。
帰りの馬車で、マリアンヌは今日受けた賛辞を繰り返した。誰が自分を二十代に見えると言ったか、どの夫人が首飾りを羨んでいたか、一つも忘れていない。エレナが相づちを打つ間にも、窓の外では市場の店じまいが始まり、栗を焼く煙が通りへ流れていた。
「今度の夜会には、青いドレスが必要ね。今日の桃色より、もっと若く見えるものがいいわ」
「ですが、今月は領地の水車を修理しなければなりません。支払いを延ばすと、収穫した小麦を挽けなくなります」
「またお金の話なの。あなたは母親より、水車のほうが大事なのね」
マリアンヌは唇を尖らせ、窓の外へ顔を背けた。エレナはすぐに謝ったが、母は屋敷へ着くまで一度も返事をしなかった。沈黙が長引くほど、エレナの手は布袋の持ち手を強く握り、爪の跡が掌へ残った。
その夜、食堂の時計が十時を打った頃、エレナは台所の隅で夕食を取っていた。皿には昼の残りの固いパンと、表面に脂の膜が張った豆の煮込みが入っている。料理長は温め直すと言ってくれたが、薪を余計に使わせたくなくて断った。
「お嬢様、せめてこれをお持ちください」
料理長は周囲を確かめ、焼いた林檎を小皿へ載せた。皮が少し焦げ、温かな湯気からシナモンの匂いが立っている。エレナは半分だけ食べ、残りを紙に包んだ。
「明日の朝にいただきます。とてもおいしいです」
「朝になれば、また奥様に呼ばれて食べ損ねますよ」
「では、仕事が終わってからいただきます」
料理長は何か言いかけたが、廊下から母の呼び鈴が聞こえると、黙って俯いた。エレナは皿を自分で洗い、指についた林檎の蜜を水で流す。冷たい水に触れると、昼間に軟膏を塗った指先のひびが痛んだ。
書斎では、父のベルトランドが机いっぱいに書類を広げていた。床には脱いだ上着が落ち、灰皿には火の消えた葉巻が三本積み重なっている。エレナが一週間かけて修正した帳簿を差し出すと、父は中身を確かめず、最後の頁に自分の署名を書き加えた。
「北部の村への種麦の配分を変更しました。前年の収穫量と家族の人数を調べ、一律ではなく必要量に合わせています」
「そうか。これで王宮へ提出できるな」
「はい。ただ、お母様がお使いになった宝石代が、領地の予備費から支払われています。このままでは、水車の修理ができません」
父のペンが止まった。エレナはようやく話を聞いてもらえると思い、母が使った金額を記した別紙を差し出す。しかし、父は紙を受け取らず、冷めた紅茶を一口飲んだ。
「家の中くらい、私を煩わせないでくれ。母さんが機嫌よく暮らせるようにするのも、お前の役目だ」
「でも、水車が止まれば、領民が困ります」
「ならば、お前が帳簿を工夫すればいい。今までだって、そうしてきただろう」
エレナは唇を閉じた。父は彼女の報告書を鞄へ入れ、明朝の王宮会議に備えて立ち上がる。その表紙には、作成者としてベルトランド・クラウゼルの名前だけが書かれていた。
「お父様。私の名前も、記していただくことはできませんか」
「余計なことを言うな。伯爵家の功績は当主の功績だ。家族なら、誰の名前でも同じだろう」
父が書斎を出ると、エレナは一人で机の上を片づけた。乾いたインク壺に水を足し、灰皿を空にし、床へ落ちた上着を椅子へ掛ける。窓の外では秋の雨が降り始め、庭のダリアが重たそうに揺れていた。
自室へ戻ったエレナは、蝋燭を節約するため一本だけ灯した。椅子に座り、灰色のドレスを脱がずに破れた袖へ針を通す。昼間に聞いた母の言葉を思い出すたび、縫い目を細かくし、誰にもほつれを見つけられないよう何度も糸を重ねた。
「もっと役に立てば、お母様も喜んでくださるわ」
声に出してみると、狭い部屋の壁に小さく返ってきた。机の端には、食べ残した焼き林檎が紙に包まれている。甘い匂いはもう薄れ、窓の隙間から入る雨の匂いに消されかけていた。
誰にも迷惑をかけず、失敗せず、母を怒らせず、父の仕事を手伝い続ければ、いつか家族として見てもらえるかもしれない。エレナはそう考え、曲がった縫い目をほどいて最初からやり直した。けれど翌朝、彼女が直した袖を見る者も、彼女が作った帳簿に名前を書く者も、この家には一人もいなかった。




