第10話 自分の名前で生きる
第10話 自分の名前で生きる
事件から一年後の朝、エレナは王宮行政棟の二階で書類の束を抱えていた。窓の外では、春の風に揺れる白い木蓮が大きな花を開いている。彼女は濃紺の文官服を着て、胸元には救済管理官を示す銀色の徽章をつけていた。
執務室には、朝一番に届いた報告書が地域ごとに積まれていた。壁には王国の地図が掛けられ、食料倉庫の位置と輸送経路を示す色札が並んでいる。机の隅には朝食の林檎が一つ残り、切った断面が少し茶色く変わっていた。
「エレナ管理官、北西部から緊急報告です」
若い文官のカイルが、息を切らせて部屋へ入ってきた。新しい制服の釦を一つ掛け違え、右手には泥のついた封筒を握っている。エレナはまず呼吸を整えるよう促し、封を開いた。
「長雨で道が崩れ、ノルテ村への荷馬車が通れません。村には、あと三日分の食料しかないそうです」
「川沿いの道は使えますか」
「地図では通れることになっています。しかし、迂回すると六日かかります」
「地図は何年前のものですか」
「八年前です」
エレナは壁の地図ではなく、先月届いた村人の手紙を取り出した。そこには、子どもたちが木の実を拾いに行くときに使う森の小道が描かれている。荷馬車は通れなくても、小さな荷車なら隣村から二日で到着できる道だった。
「東の倉庫から挽き割り麦と乾燥豆を出してください。隣村までは馬車で運び、そこから荷車へ移します」
「干し肉は送らなくてよいのですか」
「雨で井戸水が濁っている可能性があります。塩抜きに水を使う干し肉より、そのまま煮られる豆を多くしましょう」
「分かりました。すぐに手配します」
カイルが走り出そうとしたため、エレナは彼を呼び止めた。彼の制服の釦を指さすと、カイルは耳まで赤くして掛け直す。以前のエレナなら自分の指で直していたが、今は笑って待つだけだった。
午前の会議では、各地の備蓄量が報告された。エレナの考案した制度により、村人自身が倉庫の在庫を確認し、王宮へ直接知らせることができる。餓死者が出てから動くのではなく、食料が残り十日分になった時点で、周辺の倉庫から補う仕組みだった。
「南部のライ麦は、前年より二割多く収穫されています」
エレナは自分で作成した報告書を出席者へ配った。表紙には作成者として、エレナ・クラウゼルの名前が記されている。頁をめくるたび、自分の名前を隠したいという気持ちはもう起こらなかった。
「余剰分の一部を王都へ移し、残りは種麦として保管します。すべて運び出すと、来年の収穫が減ってしまいます」
「管理官、こちらの合計が合いません」
年長の文官が、報告書の一行を指さした。エレナが計算し直すと、輸送費を二重に加えている。会議室の視線が集まり、彼女の指が一瞬だけ紙の端を強くつかんだ。
以前なら、役に立たない自分には仕事をする資格がないと考え、何度も頭を下げていただろう。今は息を一度吐き、間違えた箇所だけを確かめる。隣に座るカイルが心配そうに見ていたため、エレナはペンを取った。
「私の計算間違いです。申し訳ありません。正しい金額へ直し、本日中に差し替えます」
「原因は分かりますか」
「同じ荷馬車の費用を、倉庫側と村側の両方へ記載していました。様式も分かりにくいので、再発しないよう欄を分けます」
「分かりました。それなら問題ありません」
会議はそのまま続いた。誰もエレナを出来損ないとは呼ばず、一つの間違いを理由に、ほかの仕事まで否定しなかった。彼女は訂正箇所へ赤い印をつけ、次の報告へ進んだ。
昼になると、エレナはカイルと書記官二人を連れて食堂へ向かった。今日の献立は鶏肉と春野菜の煮込み、焼きたての丸パン、苺の砂糖煮だった。窓辺の席には日差しが入り、卓上に飾られた黄色い水仙から甘い匂いが漂っている。
「管理官、先ほどは私が資料を確認できず、申し訳ありませんでした」
カイルは煮込みへ手をつけず、何度も頭を下げた。エレナは鶏肉を一切れ口へ運び、柔らかな肉と蕪の味を飲み込んでから答える。失敗した部下を責めれば自分が立派に見えるという父の考え方を、彼女は仕事場へ持ち込みたくなかった。
「計算したのは私ですから、間違えた責任も私にあります。でも、次からは一緒に確認してください」
「叱らないのですか」
「同じ間違いを隠したら叱ります。今回は見つけてくれたのですから、ありがとうと言うところでしょう」
「では、次は必ず見つけます」
「できれば、間違いがないほうが助かります」
カイルが真剣に答えたため、同席していた書記官たちが笑った。エレナも丸パンをちぎりながら笑い、苺の砂糖煮を少し多めにつける。食事を残さず食べても、午後の仕事はきちんとできると、今では分かっていた。
夕方、ノルテ村へ向かった食料が、予定どおり森の小道へ入ったとの知らせが届いた。エレナは報告書へ確認の署名をし、乾かしたインクを指先で確かめる。仕事を終える鐘が鳴ると、まだ残っている書類を明日の箱へ入れた。
「管理官、もうお帰りですか」
「はい。今日は庭仕事をする約束があります」
「残りの書類はどうしましょう」
「明日やります。今日中に必要なものは終わりましたから」
一年前のエレナなら、誰よりも遅くまで机に向かい、すべて片づけなければ部屋へ戻れなかっただろう。今は机を拭き、飲み残した茶を捨て、茶色くなった林檎を小鳥用の籠へ入れる。窓を閉めると、自分の名前が記された報告書を引き出しへしまった。
離宮の庭では、庭師が植え替えの準備をしていた。霜の心配がなくなったため、一年間窓辺で育ててきた冬菫を庭へ移す日だった。最初は一つだけだった白い花が株いっぱいに咲き、鉢の底から細い根が出ている。
エレナは文官服の上着を脱ぎ、古い前掛けを着けた。新しい服を汚すことを恐れていた頃とは違い、膝へ土がついても手で軽く払うだけだった。土を掘り返すと、湿った匂いが春の風に混じった。
「ここでよいでしょうか」
エレナが木蓮の下を示すと、庭師は首を振った。そこは夏になると葉が茂り、日が当たらなくなるという。彼女は教えられたとおり、午前中だけ日差しの届く場所へ穴を掘り直した。
「育てているうちに、随分と大きくなりましたね」
声をかけられて振り返ると、アルディスが小さな鉢を両手で抱えていた。白い礼服ではなく、土で汚れてもよい茶色の上着を着ている。片方の袖には何かへ引っかけたらしい糸が一本飛び出していた。
「その鉢は、どうなさったのですか」
「君に渡したいものがあってね」
「また花ですか?」
「いや。今回は花が咲いていない」
鉢からは、細い緑色の芽が二本だけ出ていた。土の上には、木の札が挿してある。エレナが読もうとすると、アルディスは少し気まずそうに鉢を後ろへ隠した。
「何の苗なのですか」
「林檎だ。去年、君が朝食で残した種を庭師に頼んで育ててもらった」
「私の食べ残した林檎ですか」
「そう言うと、少し立派さに欠けるね。別の苗を用意したほうがよかっただろうか」
「いいえ。立派ではないところが、殿下らしいです」
エレナが笑うと、アルディスは褒められたのか分からないと眉を下げた。二人は冬菫を鉢から抜き、絡まった根を傷つけないようにほぐす。庭師は少し離れたところで道具を片づけ、二人だけが庭に残った。
冬菫を植え終えると、アルディスは林檎の鉢を地面へ置いた。土で汚れた指を布で拭いたあと、エレナの前へ向き直る。春風が木蓮の花びらを揺らし、一枚が彼の茶色い上着の肩へ落ちた。
「エレナ。君に、尋ねたいことがある」
「はい」
「君の人生を、僕に預けてほしいとは言わない。僕の妻になるために仕事を辞める必要も、王家の望む女性になる必要もない」
アルディスは指輪を出さなかった。答えを先に決めさせるような言葉も使わず、エレナが聞いていることを確かめながら続ける。エレナは前掛けについた土を払い、両手を体の前で重ねた。
「君が自分で選んだ人生を、いつか隣で歩かせてほしい。王子としてではなく、僕自身を選んでもらえたら嬉しい」
エレナは、すぐには返事をしなかった。以前なら相手が望む言葉を探し、間を置かずに頷いていただろう。今はアルディスの顔ではなく、自分の胸の内を確かめるため、白い冬菫へ視線を落とした。
王子に望まれれば、母を見返せる。王家へ嫁げば、父より高い地位を得られる。そうした考えが一つずつ浮かんだが、エレナはどれも自分の答えではないと分かった。
思い出したのは、眠れない夜に何も聞かず同じ部屋にいてくれたことだった。抱き締める前に手を差し出し、仕事を任せる前に断ってもよいと伝えてくれた。間違えた日にも変わらず、彼は焼き栗を三つ食べた話をして笑っていた。
「私は、もう自分を嫌いながら誰かを愛したくありません」
「うん」
「だから、これからも自分を大切にします。働きたい日は働き、休みたい日は休みます。嫌なことには、嫌だと言います」
「それでいい。僕にも、嫌だと言ってほしい」
「殿下には、少し多く言うかもしれません」
「それは覚悟しておくよ」
エレナは笑い、自分からアルディスの手を取った。彼の手にも土が残り、触れた指先が少しざらついている。高価な香油ではなく、掘り返したばかりの湿った土の匂いがした。
「そのうえで、あなたと生きたいです」
アルディスはもう一度、本当に自分で決めたのかと尋ねた。エレナがはっきり頷くと、彼はようやく上着の内側から小さな箱を取り出す。箱の中には、大きな宝石ではなく、白い菫の花をかたどった銀の指輪が入っていた。
「花束ではなく鉢を持ってきたのは、指輪を隠すためだったのですね」
「途中で落としそうになって、三度も確認した。庭師には、落ち着きがないと言われたよ」
「殿下にも、苦手なことがあるのですね」
「たくさんある。これから少しずつ知られると思う」
アルディスは許可を得てから、エレナの指へ指輪を通した。大きさはぴったりで、銀の白い菫が春の日差しを受けて光る。エレナは指輪だけでなく、土のついた前掛けや、植え終えた冬菫や、芽を出したばかりの林檎の鉢も一緒に眺めた。
夕食には、リナが豆と鶏肉の煮込みを用意していた。婚約祝いだと聞いた料理長は小さな苺のケーキも焼いたが、砂糖の花飾りを一つ落としたらしく、端に空いた場所がある。エレナはそれを作り直させず、アルディスと半分ずつ食べた。
窓辺には、北西部の村から届いた新しい礼状が置かれていた。宛名には、救済管理官エレナ・クラウゼル様と記されている。結婚後も仕事では自分の名を使いたいと伝えると、アルディスは当然のこととして頷いた。
エレナが手に入れたのは、第一王子に選ばれたことで与えられる人生ではなかった。朝に何を食べるか、どの服を着るか、誰と働き、誰を愛するかを、自分で選べる暮らしだった。誰かを満たすためではなく、自分の名前で生きる日々を、彼女はこれからも自分の足で歩いていく。




