エピローグ 白雪姫コンプレックス
エピローグ 白雪姫コンプレックス
結婚から三年後、王宮の一角に「家族相談室」と書かれた小さな部屋が作られた。豪華な応接室ではなく、古い書庫を改装した場所で、壁際には寄付された椅子が並んでいる。窓辺には白いアネモネと黄色い水仙が咲き、暖炉のそばでは相談者へ出す林檎茶が温められていた。
エレナは救済管理官の仕事を続けながら、週に二度だけ相談室へ出ていた。今日も濃紺の文官服を着ているが、銀色の婚約指輪は結婚指輪へ替わっている。机の上には相談記録のほかに、アルディスが朝食で残した林檎と、娘のリリアが描いた家族の絵が置かれていた。
「お母様は、お姫様なの」
向かいに座る十五歳の令嬢が、小さな声で言った。名はソフィアといい、薄い緑色のドレスの袖口を何度も引っ張っている。手首には、母に爪を立てられた細い傷があった。
「お母様は昔から、そう言っていました。お父様がもっと立派なら、自分は王妃になれたはずだって」
「あなたには、どのようなことを言うのですか」
「私が笑うと、男の人に媚びていると言います。新しいドレスを着ると、お母様より目立ちたいのかと怒ります」
ソフィアの隣では、叔母が膝の上でハンカチを握っていた。家を訪ねたところ、少女の部屋には暖房がなく、食事も一日一度しか与えられていなかったという。一方、母親の部屋には新しいドレスが積まれ、暖炉には一日中火が入っていた。
「私が地味にしていれば、お母様は機嫌がいいのです」
ソフィアは卓上の焼き菓子を見たが、手を伸ばさなかった。菓子には砕いた胡桃と干し葡萄が入り、焼きたてのバターの匂いがする。エレナは自分の皿から一つ取り、先に食べてみせた。
「これは、相談室へ来た方のために焼かれたものです。食べたいと思いますか」
「でも、お母様は太るから食べるなと……」
「今、お母様はここにいません。あなたのお腹が決めてよいのです」
ソフィアは叔母の顔を見てから、焼き菓子を一つ取った。最初は端を小さくかじり、誰も止めないことを確かめる。二口目には胡桃が音を立て、彼女はおいしいと呟いた。
相談室を作る際、王宮の学者は、娘の若さや美しさを恐れて競争相手として扱う母親を「白雪姫コンプレックス」と呼んだ。昔話の王妃が、成長した姫を鏡の前で憎んだことに由来する。ただし、その名前は誰かを病人と決めつけ、責任をなくすためのものではなかった。
「白雪姫のお話を、知っていますか」
エレナが尋ねると、ソフィアは頷いた。美しい王妃が魔法の鏡へ国で一番美しい者を尋ね、白雪姫の名を告げられて怒る物語である。幼い頃、母が寝台のそばで読んでくれたことも覚えていた。
「お母様は、王妃と同じなのですか」
「似た行動を取る人はいます。でも、その呼び名が、お母様のしたことを許す理由にはなりません」
「私が白雪姫だから、いけないのでしょうか」
「いいえ。あなたが若いことも、笑うことも、きれいな服を着たいことも、悪くありません」
ソフィアは焼き菓子を持ったまま、しばらく動かなかった。やがて袖口を引っ張る手を離し、白いアネモネへ目を向ける。外では春の雨が降り始め、石畳と若い草の匂いが開いた窓から入ってきた。
「私、お母様がかわいそうだと思っていました。お父様に愛されなかったから、私が代わりに愛してあげなければならないって」
「そう思うこと自体は、悪くありません。でも、誰かを愛するために、あなたが傷つき続ける必要はないのです」
「お母様を助けなくてもいいのですか」
「助けるかどうかは、あなたが決められます。ただし、あなた一人がお母様の人生を背負う必要はありません」
エレナは、叔母の屋敷で暮らすための保護申請書を卓上へ置いた。すぐに署名する必要はないと説明し、持ち帰って考える時間も与える。ソフィアは何度も書類を読み、最後には自分でペンを取った。
相談を終えた頃、部屋の扉が開いた。アルディスが、三歳になるリリアの手を引いて入ってくる。春色の黄色い服を着たリリアは、庭で摘んだ菫を片手に握り、もう片方の手には食べかけの丸パンを持っていた。
「お母様、ただいま!」
リリアはエレナへ駆け寄ろうとして、絨毯の端につまずいた。丸パンが床へ転がり、菫の花も一輪だけ落ちる。アルディスは慌てて娘を抱き起こしたが、リリアは膝を確かめると、先にパンを拾った。
「三秒だから、まだ食べられます」
「誰に教わったのですか、その決まりは」
「お父様です」
「僕は五秒と言ったはずだよ」
アルディスが真面目に訂正したため、エレナは額を押さえた。リリアは丸パンについた埃を父の袖で拭こうとし、アルディスに止められている。ソフィアはその様子を見て、口元へ手を当てながら笑った。
「この方が、第一王子殿下なのですか」
「今は私の夫で、この子の父親です。落としたパンの時間を数えることには詳しいようですが、あまり見習わないでください」
「王子にも、できないことがあるのですね」
「ええ。私にも、たくさんあります」
エレナは、床へ落ちた菫を拾った。茎は少し曲がっていたが、花瓶へ挿せばまだ咲いていられる。リリアは残りの花を母へ差し出し、庭で一番きれいなものを選んだと胸を張った。
「お母様が一番きれいだから、全部あげる」
「ありがとう。でも、リリアも好きな花を一本持っていてよいのですよ」
「じゃあ、半分こにする」
リリアは花を数え、三本を母へ、三本を自分へ分けた。エレナは娘の髪へ菫を一本挿し、よく似合うと伝える。鏡の前で娘と並んでも、若さを奪われたとも、自分が劣ったとも思わなかった。
その日の夕方、救護院から定期報告が届いた。マリアンヌは今も洗濯仕事を嫌がり、自分は伯爵夫人だと訴えているという。磨いた金属盆へ顔を映しては、髪が白くなった、手が荒れたと職員を責めていた。
「お母様へ、面会に行きますか」
アルディスが尋ねると、エレナは報告書を最後まで読んだ。母が病気になったわけでも、緊急の知らせがあったわけでもない。ただ娘が会いに来れば自分は救護院を出られると、今でも信じているらしかった。
「行きません。少なくとも、今は会いたいと思いません」
「分かった」
「冷たい娘だと思いますか」
「思わない。君が決めたことだ」
エレナは報告書へ確認済みの印を押し、決裁箱へ入れた。母を許すことも、会いに行くことも、自分の傷が治った証明にはならない。母が変わらないことまで、娘である自分が責任を負う必要はなかった。
夕食には、鶏肉と春キャベツのスープが出された。リリアは人参だけを皿の端へ寄せ、アルディスは見ていないふりをして自分の皿へ移そうとする。エレナは二人の手を止め、人参を一切れ食べたら苺を増やすという約束を娘と交わした。
「お母様は、私が好き?」
リリアが突然尋ねると、エレナは匙を置いた。昔の自分なら、役に立つ子なら愛されると答えただろう。彼女は娘の口元についたスープを布で拭き、目を見て答えた。
「好きです。人参を食べても、残しても、あなたが私の言うとおりにしなくても好きですよ」
「お父様より?」
「それは比べるものではありません」
「僕は少しだけ負けても構わないよ」
アルディスが口を挟むと、リリアは父より愛されていると喜び、人参を一切れ食べた。エレナは笑いながら苺を皿へ添える。窓辺には、三年前に植えた林檎の木が若い葉を広げ、その根元では白い冬菫が今年も咲いていた。
かつてマリアンヌは、娘を自分の若さを奪う白雪姫だと思い込んだ。けれどエレナは、母と美しさを競うために生まれたのではない。母の鏡にも、父の手にもならず、自分の人生を持つ一人の人間だった。
食後、エレナはリリアと一緒に食器を厨房へ運んだ。手伝いたい日にだけ手伝えばよいと伝えると、リリアは今日はやるけれど明日はやらないと元気よく答えた。エレナはそれでよいと頷き、娘の小さな手から皿が滑らないよう、隣を歩いた。




