第16章:善と静寂
「ハハハ、ああそうだ、あのマンモスの後始末もしなきゃな」
彼は俺を肩から下ろし、ラティーナに手渡した。
「よし、アレックス、このイケてる強い男は、ヒーローの仕事に行ってくるぞ! ハハハ」
う……えぇ……まあいいか。
「ラティーナ、俺また村のみんなを手伝いに戻ってくるね?」
彼はそう言って、彼女の額にキスをした。
「気をつけてね、ジョージ。無事に帰ってきて……」
彼女はそう言うと、そっと顔を持ち上げてジョージと目線を合わせ、唇を重ねた。
生憎、その光景はラティーナに抱かれている俺のすぐ目の前で繰り広げられ、俺には二人が唇を重ねているのをただ見つめることしかできなかった。
くっ……よりによって、子供の目の前でそれをやる必要が本当にあるのか?
俺は目を細め、視界を少しぼやかして、目の前の光景を最小限に留めようとした。
こんな特等席、頼んだ覚えはない! もっと早く走る力を手に入れてれば、飛び出してこの地獄から逃げ出せたのに。はぁ……。
二人がキスを終え、その男がまだ後片付けが残っている村人たちを手伝うために家を出ていく前に、俺の口が開いて―
「ぱーぱ?」
その男は、俺が呼びかけると視線をこちらに向け、大きな手を伸ばして俺の頭の上に乗せた。
「ん? どうしたアレックス? 強いパパのこと、心配してくれてるのか?」
うっ……余計なこと言うんじゃなかった。面倒だな。
「心配するな」
彼は満面の笑みでそう言うと、頭を下げて俺と目線を合わせ、優しく俺の髪を撫でた。
「パパは絶対、無事に帰ってくるからな、いいか?」
なぜか突然、彼の笑顔とその頭を撫でる仕草に、胸の中がたまらなく温かくなった。まるで、何か深く安心させてくれるものが自分の内側にぎゅっと巻きついてくるようで、目の前に立つこの男と一緒にいる限り、自分は安全なんだと、確信させられるようだった。
「よし、じゃあ行ってくるな?」
彼は頭から手を離し、俺はただ、切なさのようなものを込めた眼差しで彼を見つめた。なぜそんな気持ちになるのか、俺には分からなかった。たぶん、こういう親の愛情というものを、本当に恋しく思っていたんだろう。それが胸を締め付けながらも、全身を温かくした。
だが次の瞬間、彼の目は、俺を抱いている女性の方へと移った。
「気をつけてな、ハニー、どうか無事でいてくれ」
「行ってくるわ、ラティーナ」
その男が出て行った後、俺の頭には多くの疑問が残った。あの撫でられた温もりは瞬時に消え去り、後にはもう少しだけ長く続いてほしかったという名残惜しさだけが残った。
昼は夜へと変わり、そして夜明けが訪れ、この家に新たな静けさをもたらした。
ʘʘʘʘʘʘ
翌日、俺は魔物の皮で作った敷物の上に座り、自分の小さな両手をじっと見つめた。昨日の出来事への好奇心に、俺は思考の中に沈み込んでいた。ただ思い描くだけで、前の世界では不可能だったはずのことを実現できてしまったことに。
俺は確かに、力を手に入れた。だが、こんな力を持つのは、今のこの世界では普通のことなのか? つまり、俺は何か珍しい存在なのか?
すげえ面白い! この力で試してみたいことが山ほどある。
目が輝いたのも束の間、数秒後にはその輝きが消えていった。嫌な考えが頭をよぎったからだ。
はぁ……でも、今の俺くらいの月齢の赤ん坊って、どうやらすごく厳重に見守られてるみたいだ。どこにも自由に行かせてもらえない。
もちろんこれは疑問だった。地球なら普通、赤ん坊が七~十ヶ月にもなれば、何かしらのおもちゃを与えられて、自由に遊べるようになるはずだ。
「アレックス!!」
「まーま」
その女性はちょうど台所から出てきたところで、すぐに俺の方へ歩いてきて、床に座っている俺の方へと手を伸ばした。
「はぁもう、あなた本当に可愛いんだから、そうよ、ママよ」
彼女は俺の前に座り込み、愛おしそうに俺の頬をつまみ始めた。
「賢い子はだーれ? いい子はだーれ??」
彼女は俺の体を持ち上げ、自分の膝の上に座らせてくすぐった。
「あーはーはーうぇー」
自分でも気づかぬうちに、妙な声が口から漏れた。
「ハハハ。ところでねえ、そんなふうに小さい手をじっと見て何してるの、んー? 言っとくけど、ママはずっとあなたのこと見てたのよ」
彼女は俺の手を上下に振りながら、床の埃で遊んでいた指の間の汚れがないか、膝の上で何度も確かめ始めた。
「それに、ママ時々不思議に思うのよね。アレックスったら、なんでいつもそうやって小さい手をじっと見てるの?」
「最初はね、手についた汚れを見てるのかと思ったの。でもママがあなたの手が伸びてるのを見た瞬間、急に薪から火が出てきたのよ!」
うぐっ……。
俺はそれを聞いた瞬間、思わず息を詰まらせた。
まずい、いつからそれ見られてたんだ。
「それでその後、あなた泣いたのよね、あ、それとも笑ってた?」
彼女は人差し指を顎に当てながら、天井を見上げた。
「まあどっちでもいいけど、ママ心配になっちゃって。大丈夫なの、可愛い子?」
俺は何も答えず、まるで盗みが見つかった時みたいに、ただ黙り込んだ。
「アレックス……もしかして……」
くっ……ど、どうすればいいんだ……理由を探して混乱しながら、彼女に本当じゃないことを疑われるんじゃないかと恐れた。「うーん……まま、たべ、ゆ」
俺は彼女の顔を見上げた。
「ん? 食べる? アレックス、ご飯食べたいの? はいはい、ちょっと待っててね、可愛い子、ママ持ってくるから!」
「んー! んー!!」
ラティーナは俺を膝から下ろして立ち上がり、台所の方へと歩いていった。そしてまた、俺は一人きりになった。
はぁ……助かった。まさか、ずっと監視されてたなんて思ってもみなかった。くっ……次はもっと気をつけないと。まあ、それは置いといて、少なくとも今はもうその話は忘れてくれたみたいだ。
そういえば、この新しい世界について、何点か気づいたことがある。月が二つあることのほかに、この世界の人々はどうやら「核」のようなものを持っているらしい。最初は、あれをただの心臓だと思っていた。だが、その内側にあるものはほんのりと光っていて、それで考えさせられた。心臓って普通、あんなふうに光るものなのか? 前世では、ちょっとした外科の知識をドキュメンタリーで齧った程度だが、あんなものは見たことがなかった。
もしかして、これがいわゆる「マナ」や「核」というやつなのか? ファンタジー小説によく出てくるあれか? 分からない。だが、なんで俺の体の中には、そういうものが見当たらないんだろう。まるで自分だけ、あいつらと違う扱いを受けているような気がする。はぁ……。
数分が経った。家の前で鳥のさえずりがどんどん増えていき、開いた窓から吹き込む穏やかなそよ風とともに、静かで穏やかな空気を作り出していた。それにつられて、葉っぱや稲が揺れていた。
「はい、できたわよ、可愛い子! ご飯できたわよ」
「まま、たべゆ!」
俺は両手を挙げた。
その女性は台所から戻ってきて、湯気を立てているらしい椀を持っていた。彼女は俺の前に座り、椀を差し出してくれた。それはお粥だった。
ああ、この世界にも普通にお粥みたいなものがあるんだな。俺はそう思い、束の間の安堵を覚えた。
「はいはい、可愛い子。ちょっと待ってね、まだ熱いから」
「……」
だが、突然、部屋の温もりが消え去った。それはあまりにも速く起きた。まるで誰かが台所の空気を一気に吸い取ってしまったかのように。さっきまで開いた窓から漂っていたそよ風がぴたりと止まり、外から聞こえていた遠い鳥のさえずりすら、不穏なほど重苦しい静寂の中に消えていくようだった。
心臓が、緊張で跳ね上がった。この息苦しい静けさが肌の下を這うように広がり、不安の波を呼び戻してきた。
俺、何かやらかしたか? まだ何か疑われてるのか? 温かく家庭的だった空気が、あっという間に凍りついていった。この沈黙は、まるでこれから発動する罠のように感じられた。
俺は音を立てないよう必死に唾を飲み込み、ほんのわずかに視線を上げた。目の前に座る女性の表情を、慎重に読み取ろうとして。
彼女は動いていなかった。あの笑顔は消え、代わりに、俺の血の気を引かせるような、うつろな無表情が浮かんでいた。彼女は―
「今頃、あなたのお父さんは……」
俺の喉が、思わず引きつった。全身の筋肉が固まり、最悪の事態に備えた。
「あなたのお父さんはね、あなたが生まれてから、私たちの暮らしのために、もっと稼ごうって前より一生懸命働いてくれてるの」
「あなたのお父さんは……ううん、私たちは、あなたの面倒を見て、あなたが大きくなるまで育てるために、もっと収入を増やさなきゃいけないの」
「あなたには、パパとママが小さい頃に経験したようなことを、味わわせたくないのよ、アレックス。分かってる、ママがこんな話、あなたみたいなまだ小さい子にするべきじゃないってこと。ママって本当に、愚かな親よね……」
どうしたんだ、この人。俺は彼女の左手を両手で握った。彼女はひどく落ち込んで悲しげな様子で、顔の青白さがはっきり見て取れた。
「まぁ……ま……?」
「ああ、ごめんね、可愛い子。ママ、ちょっと将来のことが心配になっちゃっただけなの。だからお願い、駄々こねたりしないでね、アレックス」
「パパが夜遅くまで帰ってこなくても。パパは絶対に帰ってくるから。ママ、約束するわ」
彼女はそう付け加えながら、優しく俺の頭を撫でた。
「あなたがまた前みたいに癇癪起こして大変なことにならないかって、ママ怖いのよ。ごめんね可愛い子、ママがこんなに我儘だったら、許してね」
つまり彼女は、さっきの俺のパニックを、ただの子供の癇癪だと思い込んで、俺がわがままな子に育つんじゃないかって心配してたのか。俺は、すでに涙で潤んだ彼女の目を見つめた。その顔はひどく沈んでいたが、それでも俺のためだけに、無理に笑顔を作っていた。この誤解を今すぐ解かなきゃいけない気がした。だが……俺はそうせず、自分を抑えた。
たぶん俺にも分かる、彼女の言ってることが。家族を養うという責任を抱えて生きるというのは、とても重い荷物だ。前世でそういう感覚は嫌というほど知っていた。終わりのない、消耗しきる日々の労働、生きるために必要な一円一円を稼ぐためだけに働き続けること。
俺は彼女が用意してくれたお粥の椀を見下ろした。喉の奥に苦い味がこみ上げてきた。
独り身から、いきなり妻と子供を養う重責を背負うことになるなんて……俺は、それに敬意を払わずにはいられなかった。心から、二人の力になりたいと思った。
「……」
地球でも、ここでも、人生というものは本当にこれほど過酷にできているものなのか。考えれば考えるほど、二人の運命を思って、俺の心は底の方へと沈んでいった。
グゥゥ……。
突然の音が、目の前に座る女性の腹から直接鳴った。
俺は固まった。よく見ると、彼女もあのお粥の椀をじっと見つめていた。その細い体は華奢に見え、手はわずかに震えていた。この家族の経済状況は、本当にそこまで深刻なのか。
そう、それは疑いようもなかった。




