第10章:嘘だと言ってくれ
覚えている。この静かな廊下に響いていたアイラちゃんの笑い声を、俺は今でも鮮明に覚えている。あの子が海外に出て、キャリアを追いかけるために俺の元を離れてから、二度と聞けなくなった笑い声だ。この日は、俺の人生の中で一番特別な瞬間だった。丸一日、彼女と二人きりでいられたから。
彼女の優しい話し方も、澄んだ笑い声も、目を奪われるような美しさも、俺にとって忘れることなど絶対にできないものだ。未来の記憶が、古い映写機のように頭の中で再生されていく。何十年もの間、固く閉じ込めてきた記憶が、この廊下の隅々に沿って蘇っていく。
今日がその日だ。掃除当番だったか、班活動だったか。具体的な理由はもうほとんど忘れてしまったけど、それが俺たちを他の生徒たちの騒がしさから守ってくれていた。あの頃の俺は、ただのバカな子供で、プライドと緊張ばかり先に立って、一緒に過ごす時間を素直に楽しめずにいた。無駄にしてしまったんだ。
でも今、廊下の窓から差し込む強い日差しに照らされた彼女のシルエットを見ていると、胸の中で心臓が力強く、そして満たされたように高鳴っていく。
これだ!! 今度こそ、あの運命を変えなきゃいけない。前と同じ後悔で、俺たちの未来を壊させはしない。今すぐ、たとえどんなに小さくても、最初の一歩を踏み出さなきゃ。
「その……えっと……ア.....アイラちゃん」
彼女は何かを探しているように、辺りを見回している様子だった。
「ん?」
アイラちゃんは髪を耳にかけながら、俺の方へと振り向いた。
彼女の優雅な姿に、俺は思わず息を呑んだ。マジで、本当に綺麗だった。
「どうしたの、レンくん?」
うっ、いや、いや、いや。俺はこいつよりずっと年上のはずだ。自分を抑えなきゃいけない。
「あ……い、いや、ちょっと、その……先に水買いに行きたくてさ……先行ってていいよ、俺のことは気にしなくて」
「へえ……私も一緒に行く! だってさっきから様子おかしかったし、レンくんそのままにしとけないもん」
やった、勝利は俺の手の中だ!
「あ……ありがと、アイラちゃん」
はぁ、いくら中身が大人の魂だとしても、こいつの前だと全然集中できないな。
俺たちは歩きながら、購買部へ水を買いに向かった。好きなもの、日常の話、宿題、食べ物冗談と笑いに満ちた会話だった。すごく温かい気分だった。
こんな彼女の笑い声を聞いてると……夢みたいだった。未来では、俺は静かで空っぽの部屋に座り、暗闇を照らすモニターをじっと見つめながら、重苦しいものに沈み込んでいたんだ。
全部、この瞬間、ストレスだらけの大人の悩みを手に入れるためだったなんて。ただ学校の廊下を歩いて、何でもないことを話す、この感覚をすっかり忘れていた。彼女の声は、まるで旋律みたいに、何十年分もの疲れを一瞬で洗い流してくれた。
笑うときに目が細くなる仕草、タイルの床で鳴る自分たちの靴の音、全部が鮮やかで、美しいくらい生き生きしてた。
会話がお気に入りのネット動画の話に移ると、胸の中に純粋なワクワクが急に湧き上がってきた。一瞬、中の年寄りが消えて、俺はただの十代の少年に戻って、隣にいる彼女に完全に心を奪われていた。
「ハハハ、それな、特にラマダンの時期になると、あのASMRムクバン動画がめっちゃ増えるんだよな……マジやばい」
彼女はすごく興奮した様子でそう言った。
(注:スマホからじゃなくて、ブラウン管テレビで見てたって話ね)
「ハハ、わかるわかる、毎年ラマダンのたびにそれ見て腹減るんだよな……」
俺はそう答えた。
「だよね!!」
「アイラちゃん知ってる? 前にさ、祖母と一緒にレストランでご飯食べてた時、うっかりグラスの脚をポキッと折っちゃって、真っ二つになったことがあるんだ」
俺は真剣な顔でそう説明した。
まあ、実際はこれ三十代の時の話なんだけどな。でも、まあ、初めて会った頃に交わしてた話の続きを、これで埋められたわけだ。
「え? どうしてそうなったの? それでどうしたの?」
「んー、特に何も。ただ折れた破片を手に持ったまま、怖々と祖母の顔を見てただけだよ。そしたら店員さんが通りかかって、祖母が事情を話したら、その店員さん、俺の方をまっすぐ見て、でも笑いながら『大丈夫ですよ、よくあることなんで』って言ってくれてさ。すごく親切だったんだけど、なぜかその手、ぎゅっと拳を握りしめてたんだよなあ」
「ぷっ……」
彼女はくすくす笑った。
「ん? 俺、何かおかしいこと言った?」
俺は彼女の方を向いた。
「ハハハ、もう無理……」
俺がすごく真剣にその話をしてたのを見て、彼女は笑いが止まらなくなった。
「ハハハ……ううん、違う違う、その怒ってるのが見え見えの店員さんを、無邪気な顔でじっと見てるところを想像したら面白くて。ハハ、ごめんね、ごめんね」
片手で口を覆い、もう片方の手はお腹を押さえていた。
彼女の笑い声が次第に落ち着き、息を切らしたような小さなくすくす笑いに変わっていく。目尻の小さな涙を拭うと、俺たちはまた長い廊下を歩き始めた。
かわいいな、こいつ……。
そして一瞬、彼女の笑い声が静まり、歩き続ける俺たちの間に心地よい沈黙が流れた。俺は辺りを見回し、この場所をどれだけ懐かしく思っていたかに気づかされた。
はぁ……本当に、こういう空気が懐かしい。
俺たちは校舎裏の廊下を並んで歩き続けていたが、アイラちゃんの歩調が次第に緩やかになり、俺より数センチ後ろに遅れ始めた。
「あ、そういえば―」
俺は口を開き、頭を彼女の方へ振り向けて、あの課題について尋ねようとした。
だが、アイラちゃんは足を止めていた。彼女は俺たちの前方にある何かをじっと見つめていて、その表情は凍りついていた。
「……レ、レンくん……」
アイラちゃんが小さな声で俺を呼んだ。
「ん? どうした?」
「……レンくんっ!!」
彼女は、ひどく取り乱した様子だった。
「え、え……どうしたの、アイラちゃん?!」
その反応に驚き、心配になった俺は、反射的に彼女の方へ振り向こうとした。
「前……前に―」
彼女の瞳孔は、何か恐ろしいものを見たかのように縮こまり、顔は蒼白になって、額から汗が滴り始めていた。
「え?」
突然、背後から大きな手に体をきつく掴まれ、口を布で強く塞がれた。
「んんんっぐ?!」
頭の中が完全に混乱の渦に呑まれていく。
なんだ?? これは一体なんだ???!!
俺は必死にその拘束から抜け出そうともがいたが、無駄だった。今のこの小さな体では、抵抗しようがなかった。アイラちゃんの背後からもう一人現れた。だが、そいつは違った。
剣を手にしていた。冷たい鋼が、薄暗い光の中で鈍く光っていた。
「んんんー!! んんー!!!!」
俺は激しく身をよじった。声は布の奥に閉じ込められたままだった。
アイラちゃん、後ろだ!! アイラちゃん!!!
その人影は、ゆっくりと刃を高く振り上げ、まっすぐ彼女に狙いを定めていた。
これはどういうことだ?!
俺の頭の中が、絶対的な恐怖で叫び声を上げていた。
まさか! そんな……!
「んんんー!!!! んん……んん!! んんんんんんー!!!!」
俺は激しくもがいた。自分の唾液でびしょ濡れになった布の奥で、声はくぐもったままだった。
ア……アイラちゃん、アイラぁちゃん!!! 頼む、待って……お願い待ってくれアイラちゃん!! アイラああああ!!!
周りの時間が、ゆっくりと引き延ばされていくような感覚だった。木々の葉が緩慢に揺れ、草むらや茂みがスローモーションで動いていく。
え? これは……
「んんんんー!!!!!」
頼む……頼むからアイラちゃんにそんなことしないでくれ、やめ……やめろおおおっ!!!
これは、あの夢の記憶の断片じゃないか……?
吐き気を催すような恐怖の波が押し寄せ、頭が真っ白になった。これはただの無差別な襲撃なんかじゃない。あの恐ろしい夢の記憶の、まさに直接的な断片だ。何十年も俺の夜を苛み続けてきたあの悪夢そのものが、この明るい午後の日差しの中で、今まさに現実になろうとしていた。
原始的で獰猛なアドレナリンが血管を駆け巡った。歴史を繰り返させはしないと、俺は歯を食いしばり、口を塞ぐ布に容赦なく噛みついた。持てる力のすべてを込めて噛み千切り、布地を引き裂いた。口の中に血の金属的な味が広がり、唇が裂けるまで。
だが、痛みなど気にならなかった。最後の力を振り絞り、俺は口を自由にした。
「ガハッ……アイラちゃん!!! アイラああちゃぁあん!!」
「アアアアアイイイイラアアアアアアア」
過去へと身を投じて以来、初めて、俺は本当の意味で心の底から恐怖した。自分の命のためじゃない。自分自身のためになど、一度も。
彼女のためだ。アイラちゃんのために。
時間がひどく引き伸ばされたように感じられる中、彼女が俺の方へと顔を向けた。彼女は、まっすぐ俺を見ていた。
あの瞳……ああ、まさにあの瞳だ。何十年もの間、俺の記憶の最も暗く深い片隅に焼き付いていたあの瞳。どれだけ忘れようとしても、絶対に忘れられなかったあの瞳。この美しい午後は、俺の人生で最も素晴らしい瞬間だったからだ。
今、その瞳に恐怖はなかった。ただ静かで、無垢な戸惑いだけがあった。彼女は俺の血だらけの口元と、取り乱した顔を見つめ、まるで何かを言いたいかのように、俺たちに一体何が起きているのかを必死に尋ねたがっているかのようだった。
だが、その言葉はあの大切な言葉は、彼女の唇から発せられる機会すら、一度も与えられなかった。
そして、世界が完全に静まり返った。
俺の世界がゆっくりと引き延ばされていくような感覚に包まれ、周りの音が消えていった。風の音も聞こえない。足音も聞こえない。何も聞こえなかった。俺に見えるのは、ただアイラちゃんの顔だけだった。そして、あの表情。俺に向けられた、あの表情。
彼女の美しく凛とした瞳が……俺の方を見ていた。まるで……助けを求めるかのように。人生のどこかで、あの表情をもう一度見ることになるなんて、想像すらしていなかった。だが……だが……。
ズブリ……。肉が裂ける音。
ビシャッ……ドサッ……ドサッ……
ドサッ……
その重苦しい静寂の中を、吐き気を催すような、湿った飛沫の音が引き裂いた。そして、コンクリートの床に、鈍く重い衝撃音が響いた。
すべてが静止した。
いや。血が……。
俺は必死に前へと踏み出そうとした。だが、背後から掴む野蛮な力に、体を押さえつけられていた。
ち……血が……。
もう一度試みたが、それでもできなかった。
血が……。
いや……こんなことがあってたまるか。俺は戻ってきたんだ、時間を飛び越えたんだ、すべてを犠牲にしたんだ。なのになぜ……なぜ、彼女と幸せになれないんだ?
「アイラちゃん……」
声が掠れた囁きに変わり、膝から力が抜け、視界が激しく揺れた。そしてその現実がようやく俺の中に染み込んできた時……ただ呆然と、信じられない思いで見つめることしかできなかった。信じたくなかった。だが、その真実は、今もなお俺の目の前にあった。
「アイラ……ちゃん……」
世界が崩れ落ちていくような感覚だった。そして何十年ぶりかに……あの夢の中で味わったのと同じ絶望を、俺は感じていた。
そんなはずない。嘘だ。これは嘘だ……。
血……血……これは血だ、アイラちゃんの血が……俺の顔に飛び散っていた。
いや……
いやだ
いやだ
いやだ
いやだ……いやだ……いやだ……いやだ……
いやだいやだいやだいやだ……
いやだいやだいやだいやだ……いやだいやだいやだいやだ……
「いやだあああああああああ!!!!!!!」
原始的で獣じみた咆哮が喉から迸った。俺は狂ったようにもがき、拘束から抜け出そうと、恐ろしいほど突然の力で全身を揺さぶった。骨が折れようが構わなかった。死んでも構わなかった。ただ、自由になる必要があった。
彼女のもとへたどり着くためだけに。アイラちゃんを、もう一度だけ抱きしめるためだけに。
俺の目は、その悲劇をはっきりと見てしまっていた。
「アイラちゃぁあん!!! アイラちゃぁあああん!!!!!」
「アアアアアイイイイラアアアアアア!!!!!」
「離せ……離せよおおおおおおお!!!!!!! アアアアアイイイイラアアアアアア!!!!!」
言葉にできないほど凄惨だった。胸の中の苦悶が俺を引き裂き、あまりにも、あまりにも痛かった。命よりも大切だった人が、壊れた人形のようになってしまった。すべてが間違っている、あまりにも異常なほど間違っている。
まぶたを固く閉じ、俺は必死にこの悪夢から逃れようとした。だが、俺を拘束する冷たく硬い手が顔を掴み、無理やり目をこじ開けた。見ろと、見させられた。
胴体から切り離されたアイラの頭が、俺の目の前にあった。
「……」
「は……はぁあああああああああああああああ」
俺は叫んだ。肺に残った力のすべてを込めて叫んだ。もはや人間の声とは思えない、生々しく苦悶に満ちた絶叫だった。それは運命への宣戦布告であり、死から彼女を引き戻そうとする必死の叫びだった。喉が裂けるまで、胸の中の空気が液体の炎のように燃え尽きるまで、叫び続けた。なぜだ、アイラちゃん……? なぜなんだ。アイ……ラ……ちゃん……。
受け入れられなかった。怒り? そうだ、俺の中に怒りが込み上げ、他のあらゆる感情を消し去っていった。
たった今アイラちゃんの命を奪った化け物が振り返った。ゆっくりと、計算されたような足取りでこちらへ歩いてくる。まだ彼女の温かい血が滴る剣を、無関心にだらりと引きずりながら。
そして、俺たちの視線が交わった。
「死ね」その男は冷たく呟き、血に染まった刃を再び振り上げた。
「や……や、待―」
一瞬、すべてが暗転した。あらゆる方向からの圧力に、俺の体はもう耐えられそうになかった。
ああ……一体何だったんだ、俺の人生は……。
ただ生きたかっただけだ。幸せになりたかっただけだ……。
なぜ……こんな、こんな結末に……。
意識が虚無へと溶けていく中、俺が愛したすべての人々の顔が、目の前を流れていった。
アンドくん……ジョセフ……ユウちゃん……父さん……母さん……
そして……アイラちゃん……。
ごめん……本当にごめん……。




