第九十九話 最後の弟子入り志願者
田舎の工房に、春が戻ってきた。
窓辺には新しい薬草が並び、庭ではニナとテオが乾燥棚を組み立てていた。
「そこ、少し傾いてる!」
「分かってるって!」
二人の声が、工房まで聞こえてくる。
リオンは椅子に座り、楽しそうに眺めていた。
「元気だね」
「師匠は手伝わないでくださいね」
ルーシェがすかさず言った。
「まだ何も言ってないよ」
「顔に書いてあります」
リオンは笑った。
病院を退院してから、数か月が過ぎていた。
右手の黒い筋はほとんど目立たなくなり、日常生活も少しずつ戻ってきた。
ただし、定期検査は続いている。
ルーシェは検査の日付を、工房の壁に大きく書いていた。
「こんなに目立たなくても」
「目立たないと忘れる人がいますから」
その日の午後。
工房の扉を、小さな手が叩いた。
「すみません!」
入ってきたのは、十歳ほどの少女だった。
背中には大きすぎる鞄を背負い、靴は泥だらけ。
少女はリオンを見つけると、深く頭を下げた。
「弟子にしてください!」
ルーシェは目を丸くした。
「えっ?」
少女は勢いよく続けた。
「私、世界一の薬師になりたいんです!」
リオンは少し考えた。
「どうして?」
「お母さんが病気になったとき、村の薬師さんが助けてくれたんです。
だから、私も人を助けたい!」
少女の目は真剣だった。
ルーシェは、その姿に昔の自分を重ねた。
「名前は?」
「ミオです!」
「ミオちゃん。
薬師になるのは、簡単じゃないですよ」
「分かっています!」
「勉強もたくさん必要です」
「します!」
「失敗したら、何度もやり直します」
「やります!」
ルーシェは少し笑った。
「じゃあ、最初に一つ質問です」
「はい!」
「目の前に、薬を欲しがっている人が来ました。
あなたは何をしますか?」
ミオは迷わず答えた。
「一番よく効く薬を作ります!」
ルーシェは首を振った。
「残念。
不正解です」
「えっ!」
少女は目を見開いた。
「どうしてですか?」
「その人が、何に困っているのか、まだ聞いていないからです」
ミオは口を開けたまま固まった。
リオンは、隣で静かに笑っていた。
ルーシェは椅子を勧めた。
「まず、話を聞きます。
病気なのか、怪我なのか。
薬が必要なのか。
それとも、別の助けが必要なのか」
ミオは真剣な顔で頷いた。
「じゃあ、薬を作る前に、質問するんですね」
「そうです」
リオンが口を開いた。
「もう一つ、大事なことがあるよ」
「何ですか?」
「分からないときは、分からないと言うこと」
ミオは少し驚いた。
「世界一の薬師でも、分からないことがあるんですか?」
「いっぱいあるよ」
リオンは笑った。
「だから、みんなで勉強するんだ」
ミオはしばらく考え込んだ。
そして、鞄から小さなノートを取り出した。
「書いてもいいですか?」
「もちろん」
少女は大きな文字で書いた。
『薬を作る前に、話を聞く』
『分からないことは、分からないと言う』
ルーシェはそのノートを見て、胸が熱くなった。
かつて、自分も同じことを教わった。
今度は、自分が教える番なのだ。
弟子入りの試験は、もう一つあった。
ルーシェはミオに、二枚の紙を見せた。
一枚には、きれいな字で薬の作り方が書いてある。
もう一枚には、失敗した調合の記録がびっしり並んでいる。
「どちらを勉強したいですか?」
ミオは迷った。
「きれいな方です」
「どうして?」
「成功した薬の作り方が分かるから」
「そうですね。
でも、もう一枚には、間違えると何が起きるかが書いてあります」
ミオは失敗記録を覗き込んだ。
「これ、すごく難しそう」
「難しいです。
私もまだ勉強しています」
「先生でも?」
「もちろん」
ミオは少し考えてから、二枚とも抱えた。
「じゃあ、両方勉強します」
ルーシェは笑った。
「いい答えです」
テオが横から口を挟んだ。
「でも、最初は棚の掃除だぞ」
「えー!」
ニナも笑った。
「薬草の札を書く練習もあるよ」
「薬はいつ作れるの?」
「正しく名前を読めるようになってから」
ミオは不満そうに頬を膨らませた。
リオンはその様子を見て、昔のルーシェを思い出していた。
あの頃の彼女も、早く薬を作りたがった。
失敗して、泣いて、また挑戦した。
そして今は、次の子どもに同じことを教えている。
工房の窓から差し込む光の中で、時間が静かにつながっていた。
夕方、ミオの母親が迎えに来た。
「すみません、突然押しかけてしまって」
「いえ。立派な目標を持ったお子さんですね」
ルーシェが言うと、母親は微笑んだ。
「この子、先生方の話を聞いてから、ずっと薬師になりたいと言っていたんです」
ミオは母親の手を握った。
「私、また来てもいい?」
ルーシェはリオンを見た。
リオンは頷いた。
「もちろん。
まずは薬草の勉強から始めよう」
「やった!」
少女は飛び上がった。
帰り際、ミオは振り返った。
「先生!」
「何?」
「世界一の薬師になるには、何年かかりますか?」
リオンは少し考えた。
「何年だろうね」
「先生でも分からないんですか?」
「うん。
でも、一つだけ言えるよ」
リオンは微笑んだ。
「誰かの話をちゃんと聞けた日から、もう薬師への道は始まっているんだ」
ミオは嬉しそうに頷き、母親と一緒に帰っていった。
扉が閉まる。
ルーシェは長く息を吐いた。
「師匠。
弟子が増えすぎじゃありませんか?」
「そうかな」
「ニナとテオがいて、今度はミオちゃんです」
「賑やかでいいね」
リオンは庭を見た。
「でも、私はもう、全部を教えなくてもいいと思う」
ルーシェは顔を上げた。
「どういうことですか?」
「ルーシェがいるから」
リオンは静かに答えた。
「これからは、君が教えていけばいい」
ルーシェはしばらく黙った。
やがて、少しだけ笑った。
「……師匠。まだ引退するには早いですよ」
「そう?」
「はい。
私だって、まだ聞きたいことがいっぱいありますから」
リオンは嬉しそうに笑った。
「それなら、もう少し一緒に勉強しようか」
工房の外では、春の風が吹いていた。
新しい薬草の芽が、柔らかな土から顔を出していた。




