第九十八話 世界一の薬師を救ったのは、弟子だった
病室の窓から、朝日が差し込んでいた。
リオンは寝台に座り、ルーシェの説明を聞いていた。
「最初は少量から始めます。
反応を確認して、問題がなければ段階的に進めます」
「分かった」
「異変があれば、すぐに中止します」
「うん」
「……本当に、分かっていますか?」
リオンは微笑んだ。
「先生の言うことは、ちゃんと聞きますよ」
その呼び方に、ルーシェは思わず笑った。
「師匠が患者さんだと、やりにくいです」
「私も少し緊張してる」
ルーシェは深呼吸した。
院長が立ち会い、ノエルが検査器具を準備する。
治療は慎重に始まった。
最初の反応は、小さかった。
黒い筋の色がわずかに薄くなったように見えたが、測定値には大きな変化がない。
「焦らないで」
院長が言った。
「一度で結果を出そうとするな」
ルーシェは頷いた。
その日の午後、リオンは右手の指を少し動かせるようになった。
「……動いた」
ルーシェが呟いた。
リオンは自分の手を見つめた。
「本当だね」
だが、喜びは長く続かなかった。
夕方なると、黒い筋が再び濃くなった。
検査値も悪化した。
「どうして……」
ルーシェは記録を見直した。
治療薬の成分は安定している。
投与量にも間違いはない。
それなのに、体の反応が揺れ戻している。
院長が言った。
「今日は追加しない。
まず状態を確認する」
ルーシェは唇を噛んだ。
薬を増やせば、効くかもしれない。
でも、それは危険だ。
彼女は震える手を握りしめた。
「……分かりました」
夜、ルーシェは研究室で一人、記録を並べた。
何度見ても、答えが見つからない。
そのとき、ノエルが入ってきた。
「まだ起きていたんですか」
「眠れなくて」
ノエルは机の上の記録を見た。
「これ、時間ごとの変化ですか?」
「そう。
最初は良くなるのに、夕方になると戻ってしまう」
ノエルはしばらく考えた。
「もしかして、薬の作用が切れたんじゃなくて、体が元の状態に戻ろうとしているんじゃないでしょうか」
ルーシェは顔を上げた。
「元の状態に?」
「長い間、変わった循環で体が動いていたなら、それが体にとっての普通になっているかもしれません」
ルーシェは記録を見つめた。
昔の薬が、長い時間をかけて体の通り道を変えた。
ならば、急に正しい形へ戻そうとしても、体はそれを維持できないのかもしれない。
「……一度に治すんじゃなくて、体が覚え直す時間が必要なんだ」
彼女は立ち上がった。
「院長先生に相談しましょう!」
翌朝、治療計画が見直された。
急な改善を求めず、体の反応を見ながら間隔を調整する。
魔力を使わない補助療法も組み合わせる。
そして、十分な休息を取る。
治療は、数日では終わらなかった。
一週間。
二週間。
三週間。
良い日もあれば、悪い日もあった。
ルーシェはそのたびに記録を取り、医師たちと相談した。
やがて、黒い筋は少しずつ薄くなっていった。
指先の感覚が戻り、リオンは自分で食事を取れるようになった。
ある朝。
ルーシェが病室に入ると、リオンが机に向かっていた。
「師匠! 何してるんですか!」
「手紙を書いていたんだ」
「まだ無理しないでください!」
「短い手紙だよ」
リオンは紙を差し出した。
そこには、震える文字でこう書かれていた。
『ルーシェへ。
ありがとう』
ルーシェは紙を見つめた。
「……こんなの、ずるいです」
涙がこぼれた。
「私、ずっと怖かったんです」
「うん」
「師匠がいなくなったら、どうしようって」
リオンは手を伸ばし、ルーシェの頭にそっと触れた。
「怖い思いをさせたね」
「本当に、そうです」
ルーシェは泣きながら笑った。
「だから、これからはちゃんと相談してください」
「約束する」
数週間後、院長は回復の見通しを説明した。
「症状は大きく改善した。
ただし、長期的な経過観察は必要だ。
完治と断言するには早い」
ルーシェは頷いた。
「分かっています」
リオンも笑った。
「これからは、定期検査をさぼらないよ」
「絶対ですよ!」
回復が確認されるまでの間、ルーシェは毎日、同じ質問をした。
「今日は何ができましたか?」
最初の頃、リオンは困ったように笑った。
「昨日と変わらないかな」
「変わらないことも、大事な記録です」
ある日は、杯を落とさず持てた。
別の日は、短い手紙を最後まで書けた。
また別の日は、病院の廊下を休みながら歩けた。
回復は、奇跡のような一瞬ではなかった。
小さな変化の積み重ねだった。
ある夕方、リオンは病室の窓から庭を見下ろした。
そこで看護師が、歩行訓練をする老人を支えていた。
「昔なら、あの人に強い回復薬を渡そうとしていたかもしれない」
リオンが言うと、ルーシェは笑った。
「今は?」
「ちゃんと歩く練習をしているところを、応援したいね」
ルーシェは頷いた。
「師匠も同じです。
薬を飲んだから終わり、じゃありません」
「分かってる。
訓練も続けるよ」
リオンは少し考え、付け加えた。
「それから、私の症例を公開してほしい」
ルーシェは顔を上げた。
「いいんですか?」
「うん。
私と同じような失敗をする人が、また出るかもしれないから」
「個人の情報は、必要な範囲だけにしますね」
「頼むよ」
ルーシェは研究記録の最後に、新しい欄を設けた。
『治療後の生活と長期観察』
この物語は、退院したら終わりではない。
だからこそ、回復を喜びながらも、次の患者に役立つ記録を残すのだ。
病院を出る日。
玄関には大勢の薬師が集まっていた。
リオンは一人ずつ顔を見た。
「皆さん、本当にありがとうございました」
ガレスが笑った。
「礼なら弟子に言いな。
あんたを救うために、一番頑張ったのはあの子だ」
リオンはルーシェを見た。
「そうだね」
そして、深く頭を下げた。
「ルーシェ先生。
命を救ってくれて、ありがとう」
ルーシェは慌てた。
「や、やめてください! 師匠に頭を下げられると困ります!」
周囲から笑いが起きた。
リオンも笑った。
世界一の薬師を救ったのは、たった一人の天才ではなかった。
師匠の教えを受け継いだ弟子と、その弟子を支えた多くの人々だった。




