第九十六話 弟子が、師匠の薬を作る
「昔の薬が、今になって体を壊しているかもしれない」
ルーシェが説明すると、研究室は静まり返った。
院長は帳簿を慎重に読み進めた。
「可能性はある。
ただし、これだけで原因と決めるわけにはいかん」
「分かっています」
ルーシェは頷いた。
「だから、まず確かめます」
ノエルは古い測定器から得られた成分の情報を並べた。
そこには、今では使われていない触媒が含まれていた。
触媒は薬の作用を強めるためのものだったが、体内の魔力循環に長く影響を残す性質があるらしい。
「今のリオン先生の症状と、反応の形が似ています」
ノエルが言った。
「でも、同じとは言い切れません」
「似ているだけで薬を作ったら、また同じ失敗をします」
ルーシェは自分に言い聞かせるように答えた。
研究は、地味な作業から始まった。
古い触媒の性質を調べる。
長期的な変化を再現できる安全な模型を作る。
体を傷つけずに影響を弱める方法を探す。
何度も失敗した。
ある試作品は、魔力循環を強く抑えすぎた。
別の試作品は、変化した通り道を急に戻そうとして、模型の組織を傷つけた。
「これじゃ駄目です」
ルーシェは試験結果に赤い線を引いた。
リオンなら、どう考えるだろう。
彼女は無意識に隣の椅子を見た。
いつも師匠が座っていた場所は、空いている。
「……聞きたいことが、いっぱいあるのに」
その夜、病室へ行くと、リオンは窓の外を見ていた。
「研究はどう?」
「難しいです」
ルーシェは正直に答えた。
「原因の候補は見つかりました。
でも、安全に治す方法が分かりません」
「そうか」
リオンは静かに頷いた。
「焦らないでね」
「焦りますよ」
ルーシェは椅子に座った。
「師匠の体が、少しずつ悪くなっているんですから」
リオンはしばらく黙っていた。
「昔の私は、薬ができれば何でも解決できると思っていた」
「知っています。
帳簿を読みました」
「恥ずかしいな」
「恥ずかしいですよ。
自分に試すなんて」
「……うん」
ルーシェは少しだけ笑った。
「でも、ちゃんと失敗を記録していたのは、師匠らしいです」
「記録だけは、残しておこうと思ったんだ」
「それが今、役に立っています」
リオンの目が潤んだ。
ルーシェは手を握った。
「師匠。
私、薬を作ります。
でも、師匠に試す前に、みんなで安全性を確かめます」
「それでいい」
「一人で決めません」
「うん」
「失敗したら、隠しません」
リオンは微笑んだ。
「私が教えたことを、全部覚えているね」
「当たり前です」
ルーシェは立ち上がった。
「だから、師匠も約束してください。
もう一人で抱え込まないって」
「約束するよ」
病室から戻ったルーシェは、研究室の黒板をきれいに消した。
そこには、これまで試した治療案がびっしり書かれていた。
強く抑える。
急いで戻す。
原因を一度に取り除く。
どれも、早く結果を出したいという気持ちが先に立っていた。
「全部、私の焦りが入っています」
ノエルが首を振った。
「焦るのは当然です。
でも、気づけたなら変えられます」
ルーシェは新しい欄を作った。
『患者の負担』
『改善の速度』
『中止する条件』
そして、最後にもう一つ書き加えた。
『患者本人の希望』
研究者の一人が尋ねた。
「それは治療効果と関係するのか?」
「関係します。
師匠は、これからも弟子たちに教えたいと言っています。
そのために、手を使えるようになりたいんです」
ルーシェは振り返った。
「数値だけ良くなっても、暮らしが戻らなければ意味がありません」
研究者はゆっくり頷いた。
その日、ニナとテオから手紙が届いた。
『工房の薬草は元気です。
先生の席も空けてあります。
焦らず帰ってきてください』
ルーシェは手紙を読み、机の端に置いた。
空いている席。
それは、帰る場所があるということだった。
彼女はもう一度、調合台に向かった。
急がない。
けれど、諦めない。
その二つを両立させるのが、今の自分の仕事だった。
机の上には、失敗した試作品が並んでいた。
ルーシェは一本ずつ番号を確認し、破棄するものと再検証するものを分けた。
どんなに急いでいても、その手順だけは省かなかった。
翌日、ルーシェは研究方針を変えた。
変化した魔力の通り道を、一気に元へ戻そうとするのをやめたのだ。
「体が長い時間をかけて変わったなら、急に戻すのは危険です」
彼女は黒板に図を描いた。
「少しずつ、負担を減らす。
体自身が調整できる余地を残すんです」
ノエルが頷いた。
「それなら、魔力を使わない補助成分も組み合わせられます」
院長は試験計画を確認した。
「まずは模型で。
次に安全性を十分検証してから、治療の可否を判断する」
ルーシェは頷いた。
新しい試作品は、薄い琥珀色だった。
かつて師匠が作った青い回復薬とは、まるで違う色。
だが、その一滴には、師匠から受け継いだすべてが詰まっていた。
数日後、模型試験で、初めて安定した結果が出た。
「反応が、戻っています」
ノエルが声を震わせた。
「急な負荷をかけずに、循環が改善しています!」
ルーシェは椅子に座り込んだ。
喜びより先に、安堵が来た。
しかし、院長は静かに言った。
「ここからが本番だ。
模型で安全でも、人では違うことが起こり得る」
「分かっています」
ルーシェは試作品を見つめた。
「だから、最後まで慎重に進めます」
そのとき、研究室の扉が開いた。
王宮の使者が立っていた。
「ルーシェ殿。
各国の薬師たちから連絡です」
「何でしょう?」
「リオン殿の治療に、協力したいと」
使者は分厚い書簡の束を差し出した。
世界中から、師匠を助けるための知恵が集まり始めていた。




